何をしても栄える!?

2020年1月26日主日礼拝 

「何をしても栄える!?」詩篇1:1~3 佐々木俊一牧師

■今日は、詩篇の1篇からお話しをしたいと思います。このところは、皆さん、すでに何度もお読みになったことがあるかと思います。私も20代のころから何度もこのところを読み返しては元気をいただきました。私たちの心が弱るときや疲れたときに、希望と力を与えてくれる神様の約束のことばです。

 1節 「幸いなことよ。」とあります。英語では、「祝福される。」となっています。どうすれば幸いであり、祝福されるのでしょうか。それは、悪者のはかりごとに歩まず、悪人の道に立たず、あざける者の座につかないことです。そのような人は祝福されると言っています。幸いであるために、また、祝福されるために、私たちがしなければならないことは、そんなに難しいことではありません。なぜなら、私たちは1節にあるような悪人ではないからです。

 2節はどうでしょうか。「まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。」とあります。みなさんは主の教えを喜びとしているでしょうか。主の教えは私たちにとって最上のものです。少なくとも私はそう信じています。しかしながら、主の教えのすべてを私自身喜びとしているかというと、自信がありません。正直言ってその答えは、「はい」と「いいえ」の両方です。場合や状況によっては、あの教えには従えるけれど、あの教えには従えない、これが現実です。主の教えを喜びとすると言うことは、主の教えに従うと言うことでもあります。神様の教えは、私たちにとっていつも都合の良いものばかりではありません。時には、主の教えに従うことが私たちにとって都合の悪い場合もあるのです。たとえば、主の教えに従うことによって、自分の弱さや間違いを人前で認めなければならないことがあります。妻とけんかをして、自分の間違いを認めることは容易なことではありません。しかし、神様の教えに従うならば、明らかに自分が間違っていることを認めるように導かれているのです。また、主の教えに従うことによって、何かを犠牲にしなければならいときもあります。また、主の教えに従うことによって、好きなことができなくなるときもあります。主の教えに従うことによって、私たちのプライドはだんだん砕かれていきます。それは、私たちの成長のために良いことですが、しかし、実際に行なうのは難しいことなのです。そう言うことで、私たちは悪人ではないですけれども、主の教えの中には、喜べることと喜べないこと、従えることと従えないことがあるのです。

 次に、みなさん、昼も夜も主の教えを口ずさんでいるでしょうか。昼や夜ではなく、朝でもよいでしょう。調子が良い時も調子が悪い時も、うまくいっている時もうまくいっていない時も、主の教えを口ずさんでいるでしょうか。「口ずさむ」とは、歌うことであったり読むことであったりしてもよいと思います。また、英語では「meditate」になっているので、意味としては主の教えを静かに思い巡らすことです。神様の教えを思い巡らして、神様の考え方や神様の価値観を知ることはとても大切なことです。

■3節には、「その人は、水路に植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄える。」と書かれています。

 昨年12月に医師の中村哲さんがアフガニスタンで銃撃されて亡くなりました。彼はクリスチャンです。彼はアフガニスタンの荒地や砂漠に用水路を作りました。用水路を作るとその流れに沿ってたくさんの木々や草花が育つようになりました。そして、その周辺に畑を作ってたくさんの作物を生産することができるようになりました。用水路のそばは特に植物が育つのに良い環境であるため、木々や草花が枯れることなく良く育つのです。そして、時が来ると花を咲かせて実がなります。

 主の教えを昼も夜も口ずさむ人は、水路のそばに植わった木のように、時が来ると実を結ばせるのです。そして、その人は、何をしても栄えるのです。こう言うと、本当だろうかと思ってしまいます。自分を見てしまうからです。しかし、聖書はそう言っています。

■ところで、詩篇1篇の著者が言う、「主の教え」とは何を指していると思いますか。詩篇1篇の著者が誰なのかはっきりしたことはわかりません。ですが、詩篇の大半を書いたダビデだとしたら、「主の教え」とは、モーセの律法、つまり、モーセが書いたと書のことです。

 Ⅰ列王記2:1~3にこのような箇所があります。「ダビデの死ぬ日が近づいたとき、彼は息子のソロモンに次のように言いつけた。『私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。強く、男らしくありなさい。あなたの神、主の戒めを守り、モーセの律法に書かれているとおりに、主のおきてと、命令と、定めと、さとしとを守って主の道を歩まなければならない。あなたが何をしても、どこへ行っても、栄えるためである。』」このようにダビデは息子のソロモンに言い残しました。主の教えとはダビデにとって、モーセによって書かれた書のことであり、ダビデはモーセの書を読んだり聞いたりする機会があったということです。 ダビデがソロモンに残した最後のことば、「モーセの律法に書かれている主のおきてと、定めと、さとしとを守って主の道を歩むように。それは、あなたが何をしても、どこへ行っても、栄えるためだ。」というのは、まさに、詩篇1篇が言っていることです。  

 そして、モーセの律法を凝縮したものが、十戒です。十戒の中にこう書かれています。出エジプト20:5~6、「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしはねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」

真の神以外の神々、偶像を自分の神としないように命じています。「わたしを憎む者」とは、真の神様を神様として信じないで、神様でないものを神様として信じている人のことです。その人は、その不信仰のゆえに本人だけでなく、その子や孫の代、さらにひ孫の代までその報いを受けることになると言うのです。そして、真の神様を信じて従う人には、その信仰のゆえにその恵みを千代までも施す、と言うことです。そう書かれています。

 ここを読んで、みなさん、感謝なことだと思いませんか。もしも、真の神様を信じないために、その報いが千代までも続いてしまったら大変なことです。そうではなくて、続いても三代か四代で済むと言うことは感謝なことだと思いませんか。そして、真の神様を信じる者への祝福は、千代までも続くと言うのですから、本当に感謝なことだと思います。ただ、私たちクリスチャンは、もはや律法の支配の下にはありませんから、先祖の罪の報いを自分が受ける必要もなければ、自分の罪の報いを子や孫が受ける必要もありません。私たちクリスチャンは、イエス・キリストの恵みの支配の下にあるのです。どちらかと言えば、私たちの信仰をとおして千代にまで主の恵みが施されるのです。ですから、それはとても感謝なことです。きっと、ジム先生やバリーさんやシェリーさんは、ずっとずっと昔の先祖の方々から来る祝福と栄えとを受け継いでいるのではないでしょうか。

■先ほど、主の教えを喜びとし、昼も夜も口ずさむ者は祝福されて何をしても栄えると言いました。主の教えを大切にして、主の教えに従う人がだんだん多くなると、その国はそれによって祝福されて栄えます。神様の考え方や価値観が国中に行き渡ってその考え方や価値観に従う人が増えて行くならば、それによってその国は神様の祝福が増し加わって栄えます。

ダビデほど、神様の教えを喜び、神様の教えを口ずさんだ人はいません。人々はダビデから信仰的に良い影響を受けたことでしょう。ですから、ダビデがイスラエルの王様であった時代、イスラエルは周囲の国々から守られて栄えました。経済的にも政治的にも祝福されて、その栄えはソロモン王で極められました。ところが、ソロモン王が真の神様に礼拝をささげながらも、それに加えて、他の神々にも心を奪われ礼拝し始めると、そのせいで、その後イスラエルは北王国と南王国に分裂し、周囲の国々から脅かされるようになりました。そして、イスラエルの栄えはだんだんと衰えて行き、北王国はアッシリアに滅ぼされ、南王国はバビロンに滅ぼされてしまったのです。

■私たちクリスチャンは、イエス・キリストをとおして真の神様を信じる者となりました。私たちはその信仰のゆえに、その恵みを千代まで受け継ぐ者とされています。私たちの子どもも孫もひ孫も、さらにその後に続く子孫も、私たちの信仰のゆえに受ける恵みがあるのです。(※しかし、救いは別、救いは個人の自由意志で決めること)

 私たちは、ダビデがそうであったように、子どもや孫に、神様の考え方や価値観を伝えて行きたいと思います。そのために、まず、大人が主の教えを喜びとし、主の教えを思い巡らし、主の教えに従う者へとますますなって行きましょう。そして、私たちは、私たちの子どもや孫、まだ見ていない子孫の祝福のために祈りましょう。私は祈っていますよ。孫やまだ見ない子孫が、イエス様を救い主として信じ、神様に従い、神様に仕える者となるように、そして、彼らの祝福のために祈っています。みなさんも自分の子どもや孫やまだ見ていない子孫のために祈ってください。

 若い方々は、ぜひ、主の教えを喜びとして、日々、主の教え、聖書のことばを思い巡らしてください。そして、神様の考え方や価値観を正しく受け取り、主の教えが自分にとって大事なものとして尊んでください。律法的になる必要はありません。神様は愛の神様であり、赦しの神様です。イエス様をとおして神様がどのようなお方かを知ってください。

 よく知られている英語のことわざがあります。30年以上前になりますが、聖書の勉強をしていた時に使ったテキストの中に書かれていたことばです。みなさんも知っていると思います。「一つの考えを蒔くと、それによって行動を刈り取り、その行動を蒔くと、それによって習慣を刈り取り、その習慣を蒔くと、それによって人格を刈り取り、その人格を蒔くと、それによって運命を刈り取る。」というものです。ある一つの考えを心に保ち続けると、その考えが発展して行動になり、その行動を続けると、その行動が発展して習慣になり、その習慣を続けると、その習慣が発展して人格になり、その人格を続けると、それによってどういう人生を歩むか決まってくると言うことわざです。ですから、聖書のことばによって、若いうちから養われてほしいと思います。

■主の教えを喜びとし、主の教えを口ずさみ、主の教えを行う、これを続けていくならば、その人は水路のそばに植わった木のように実を結び、その人をとおして神様の栄えが豊かに表されます。教会も同じです。主の教えを喜びとし、主の教えを口ずさみ、主の教えを行う人がどんどん増えて行くならば、教会に神様の栄えがますます表されるでしょう。しかし、私たちは良いことをしているつもりでも、主の教えや主のみこころからいつのまにか離れてしまいやすい弱さがあることを認めなければいけないと思います。そのことに対して私たちは、互いに指摘しておしまいにするのではなくて、補い合って修復し合うことが大切です。それができたら、さらに、実を結んで栄え続けることができます。そのことを覚えて、ぜひ、皆さん、お祈りしてください。それではお祈りします。