許す必要はありません。

マタイによる福音書6章9節〜15節 

“ 許す必要はありません。” 

 

 ここ日本の札幌のオープンドアで、またオンラインで共に参加されている皆さん、こんにちは。 英語礼拝でこれまで語ってきたメッセージのシリーズをクリスマスシーズンで離れていましたが、今日また、” 神様が(聖書の中で)言われていない事”  についてのメッセージ に戻っていきたいと思います。” 神様が語らない選択する事を神様が語るとしたら、神様は一体どんなことを語られたのでしょうか?” 、” このような場合、もしも私が神様の立場だったら、何と言ったのでしょうか?” このような疑問を考えることは、私達が、その時々の神様の言葉を理解するための助けとなります。

 このような疑問の答えは、神様が実際に語っていることと著しく異なっています。

また、神様が語られないことは時に、語られること以上の事を私達に教えて下さっています。

 

 今日のメッセージで考えて行きたいのは、” (彼らを)許す必要はありません。” と言うことです。神様が神様に従う者に語る多くの物事の中にこの言葉はありません。実際、イエス様の言葉を通して神様は明確に、神様との関係やキリストにある兄弟姉妹との関係において、赦すことが私達が生活する上で私達の心の中心であると仰っています。

 クリスチャンが他の人々ー特に教会内部においてーと築いていこうと考える関係は、赦しによって明かになるのです。そのことについて神様の言葉は明確です。

 

 “ あ〜、神様がそんな事を言っていなければ良かったのに” 。皆さんが聖書を読んでいる時、そのように思われたことはありませんか? 又は、” 神様が本気でそう思うはずがないですよね?” とか。  

 このような言い方を聞くと、多分皆さんはご自分で次のように仰っていると思うのです。 ” 牧師は私の言っていることが分かっていない。私を傷つけた人々のことを知らないし、その人達が私に何をしたかも知らない。彼らを赦しなさい? 本当に? 何故私がそうしたいと思えるのでしょう? 仮に私がそのように思ったとしても、この現実の世界でそのようなことが可能であると本当に考えていますか? それがどんなに難しいことか本当に知っていますか?” 

 

   キリストが皆さんを傷つけた人を赦すように言われるのを皆さんが聞く時、皆さんが思うことが前記のようなものであるなら、私はまず最初に正直な気持ちと考えで以下のことを確認したいと思います。神様は私達が今いるところに来られます。それがたとえ私達が、他の誰かが引き起こした痛みの中にいてもです。私達が他の誰かと問題を抱えた場合は、裁くことを避けて理解すべきです。(そして理解していることを示すべきなのです。)

 

 次に、私は告白しますが、私は皆さんが他の誰かのせいで負った特別な痛みや傷痕について知らないことが(分からないことが)多くあります。私の希望は皆さんの問題を理解し解決する大きな力を持つことではないのです。その代わりに、キリストが理解して下さり、癒し、新しくし、回復し、ダメージを負い罪によって破壊された関係でさえも再構築して下さる力強いお方であることを信じつつ、赦しについてのキリストのメッセージを皆さんのもとへ持っていくことです。

 

 私達は主の祈りの一節として、” 私達の罪をお赦し下さい。” と祈ります。この祈りを習慣として行うことは知恵のあることです。特にこの新年の季節においてはそうです。何故ならば私達は、この2020年を私達にとって可能な限り最高のものとするため、汚れのないようにされ、清められ、新しくされる必要があるからです。それは、2019年に起きた全ての事から生じた罪の重荷を私達が背負ってしまい、それが私達にダメージを与え、抑圧し、未来の日々へ自由と喜びの内に進んでいく事を妨げる前に、2020年へと入って行くためです。

 

 この真実を理解し受け入れることは、私達には容易いことでしょう。しかしイエス様は次のように続けます。” 私達に罪を冒す者を私達が赦すごとく。” と。

本当でしょうか? 私達は正直に神様に向かって、” 私が他の人を扱うように私を扱って下さい。”、” もしも私が態度においても行動においても、人々と良い関係を築き保持しないなら、神様あなたの愛の、容認の外側に、赦しの向こう側に置いて下さい。” とお願いできますか? これが私が時に意識することなく祈っている主の祈りの一節です。

 私は神様の赦し、恵み、慈悲が必要ですが、自分自身の心の中を見れば見るほど、神様の愛を得るに値しないことが明確になってくるのです。

 

 なので、そのように祈りなさいという神様のご命令を私が理解できる唯一の方法があります。それは、” 私達が他の人々に与えたように、あなたの親切(優しさ)を私達に与えて下さい。” というものです。神様へのこのお願いにはあらゆる段階の祈りがあることが見て取れます。私はまず最初に、” 主よ、私を傷つける人々を赦すことができるほどに、他の人々を純粋に気遣えるよう私を変えて下さい。私をそのような人へと成長させて下さい。そうすれば私は、私が赦すその仕方で私も実際に赦されることを欲することができます。” このように祈らなければならないのです。

 

 赦しについての神様のご命令に真剣に向き合うため、これから私達に残された時間をいくつかの質問をしながら、主の答を探して行くことに使っていきましょう。

 

 最初の質問は、神様は何故このようなことを私達に言われたのでしょうか? です。

 神様は私達にもう一度、律法について、そして私達が律法をどのように判断しなければならないか、また、どのようにして神様の処罰に直面しなければならないかを思い起こさせようとされているのでしょうか? または、他の意図をお持ちなのでしょうか?

 このご命令について一つ覚えなければならないのは、基本的に神様は神様であるので、このようにされたということです。神様は” 私達の父” です。(9節) イエス様も” 私の父” とは言われません。誰でも信仰を持って神様の御許に進んで来て、その人生を神様の御手に置く(委ねる)人は、神様の息子、娘とされます。なので私達がキリストにある兄弟姉妹と円滑な関係を持つ(仲良くする)ことは神様にとって非常に大切な事なのです。それがとても重要なのでイエス様も次のようなご命令を与えています(マタイ5章23〜24節)    

 

 だから祭壇の上に供物を捧げようとしている時、もし兄弟に恨まれていることをそこで

 思い出したなら、供物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供物を捧げなさい。

 

  もし皆さんが子を持つ親なら、ここでの神様の気持ちがよく分かるかもしれませんね。私達の子供が小さい頃、彼女らは時に叩き合ったり、また通常は言葉(多分もっと傷つくことですが)によってよくケンカをしていました。千恵子と私はただそれ起こることが嫌でした。彼女らが一緒に楽しそうにしている時ほど私達に喜びをもたらすことはなく、彼女らが小さな戦争を起こしている時ほど痛みをもたらすものはありません。

 ( 彼女らのケンカは時、それは彼女ら自身を悩ます以上に私達を悩ませていることに私達は気付きました。彼女らは激しく(犬と猫のように)ケンカをし、その日の終わりにはママとパパはその日1日が台無しになったかのようにまだ疲れ切った気分なのです。でも時々、当人達が既にトラブルをすっかり忘れてしまい、何か楽しいことをし始めていて、私達よりもっと早く回復していることに気がついたのです。彼女らはより立ち直りが早く、私達は子供達から何かを学ばなければとまた思ったのでした。)

 

 イエス様は私達に、礼拝に参加する前に私達が生活上で関わる人々との関係を正しいものとするよう言っておられるのです。待ってはいけません。言い換えれば、イエス様のメッセージは、皆さんが神様の子供達と争っている時には、神様に捧げ物を持ってきてはいけないということです。

 

 赦しに関して私達が神様のご命令に取り組むべき2番目の質問は、赦しとは実際にどのようなものかということです。マタイが使った(12節)ギリシャ語は、「捨て去る」、「解き放つ」という言葉でもあります。例えば、妻と離縁した人はこの言葉が言い表すことを実行して、明確にキッパリと関係を壊すのです。

 同様に神様が仰るように私達が赦す時には、他の人との問題を、私達の時間、感情、エネルギーを使うこととしないと、しっかり選択するのです。私達はそれを持ち続けることなく、手放すのです。そのような人々と関係を継続するほうが、そのような人々が引き起こしたと私達が信じる問題よりも大事なことだと、そのように宣言することを選ぶということです。

 

 私達は、問題が起こらなかったとか、または、それは本当の問題ではないなどという振りをしなくても良いのです。これはクリスチャンの赦しではありません。私達はただ単に無視をするという決定もしません。これもまたクリスチャンの赦しではありません。このどちらも単に、私達に害を為す人々に笑いかけることを強いるものではないのです。

我慢はイエス様が教える解決法ではありません。それは私達が赦しと信頼関係を再構築することを混同していることです。誰かを赦すとは、皆さんとの間で問題があった誰かとの関係を問題が起きる前と同じ状態に戻すことを意味していません。それはできないのです。それは再構築しなければならないことなのです。これは赦すということとは違うことで、通常、真剣に誠実に行われることになっても時間がかかることなのです。

 

 赦しは私達がそれを選ぶ時に何時でも起こることができます。人によって引き起こされた痛みは戻すことはできないし消すこともできません。また、そのような人に心から謝罪をするように強いることもできません。赦しの大事な部分とは皆さんを傷つけた人への仕返しをする権利を放棄することです。復讐したい、仕返ししたいという気持ちは非常に力強いものではないでしょうか? 赦しが意味のあるもので継続するなら、それは自由な選択でなければならないのです。それは神様の力を頂いた私達の選択です。

 

 赦しは、信頼を再構築することと同様に時間がかかるもので、その過程は幾つもの段階があります。実際の生活上、本当に赦しを行う人にとっては、同じ人が同じ傷つける行為をしても、一度ならず何度でも赦すことが必要です。何故なら痛みを伴う記憶は、何度も何度も戻ってきて私達の思いと感情に定着する傾向にあるからです。そして一旦そうなると、赦しが本物で実際に私達の考え、言葉、行動を形作り導くものなら、私達は何度でも赦すという選択をしなければならないのです。

今日のメッセージでは完全な赦しについて詳細に見て行くことはしませんが、神様が人を通して行う赦しと和解の過程の良い例として創世記37章〜50章のヨセフの物語を読むことをお勧めします。

 

 3番目は、赦しはどのように働くのでしょうか?ということです。 これをより明確に見て行くことは、何故赦しが必要なのかを私達が理解する助けとなります。イエス様は人の心について、私達が所有者としてコントロールできる門を持っていると理解していたように思えます。もし私達が愛と受容のためにその門を開けるなら、私達はそれらを神様から尽きることなく供給され受け取ることができ、また完全なものとは程遠いけれど、人からも受け取ることができます。私達はまた受け取ったものを神様に捧げ、また同様に人に与えることもできます。しかし、もし私達が傷つくことに反応して門を閉じ、開けること、赦すことを拒否するなら、私達は人達から自分自身を締め出すだけでなく、同時に神様の赦す愛からも自分自身を締め出すことになります。また一方、もし私達が再びその門を開けて赦すことを選ぶなら、赦すという寛容さを手放すことにならずに再び神様の恵みを受け取るために門を開くことになります。開けるか閉じるか、このどちらの選択をするとしても、神様と愛を分かち合うことと、他の人々と愛を分かち合うことを分けることができません。この二つはセットとなって付いてくるもの、または愛に基づいた生涯の二つの部分です。

 

 赦しに関するキリストの教えをこのように見て行く時、それらが単なる命令だけではないことがお分かりになると思います。多分それ以上のことで、それらは単に人生が動いていくあり方の真実かもしれません。言い換えれば、それは規範というだけではなく、解説や説明的でもあります。

 これは正に神様とそして人々とどのように関係して行くかということです。

 

  4番目、これで最後ですが、私達が赦す時に誰が実際に得をし、赦さない時には誰が傷つくのかということに関心を向けていきましょう。否定的な面を最初にします。

もし私がとりわけクリスチャンとして赦さないという態度を、ある人、組織、少数民族のグループ、また私を何らかの方法で傷つけていると私が思う人々に対して取り続けるなら、私の神様に対して問題を起こしていることになります。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       神様は私に赦すように仰います。私がそうしないなら、神様はその事に対して良しとはしません。神様は厳格なお方であって、それに対処することがおできになりますが、傷つかれるのです。それはその事について深く心配されるからです。

 次に、私は、私が傷つけたと考える特定の人や人々を傷つけるために何かをするかも知れません。それは起きることもあり、起きないこともあるでしょう。

 

 しかし私の経験では、私の赦せないという思いは他の誰かに対するより何倍も長く続くダメージを私にもたらします。それを皆さんが持っているということは、身体の仕組みの中に毒を持っているようなものです。皆さんは、もしもほんの少しのレベルであるなら大丈夫と思うかも知れません。しかし時間が経つに連れてこの種の毒は何処かへ行ってしまうことなく、危険なレベルにまで増加するものなのです。それは皆さんから、その内部の嵐に費やす大量の時間、眠るための能力、毎日の生活におけるお金では買うことのできない心の平和や喜びを奪ってしまうことができるのです。

 

 赦さない態度を持ち続けることは皆さんが傷つけられた時の助けにはなりません。どちらかと言えばそれは皆さんの苦痛を悪化させ、その痛みの癒しから離すことになります。デーブ・ウイリスという牧師が次のように言っています。「恨みを抱くことで強くなることはない。いまいましくなるだけだ。赦すことで弱くなることはない。解放される。」他の描写を使うと、誰かが言ったように、傷は痛むが傷痕は痛まないという事です。私達が人生を歩む上でいくつか傷痕ができてしまう事は避けられない事でしょう。でもそれらの傷痕は癒しがあったことの印です。もし私達が赦すことを拒否することで傷を再び開き続けるなら、その痛みと精神的なダメージは非常に長く続くことになります。

 

 日本の短大と4年生大学の中でこの33年間働いてきましたが、私は、終身雇用制度がどのようにして長期間に渡る人間関係の中で働く人々へのトラブルを緩和してきたか気がつきました。そこには多くのプラス面もありますので、システム全体についての評価は致しません。ですが同じ組織の中で何十年もの間とどまっている人々にとっては課題を上手くこなすことがいかに簡単なことであるか知りました。決断しなければならない何か重要な案件について意見の不一致がある場合、そんな人々にとって彼らの同僚のことを考慮することは大変簡単なことと思えます。例えば、「20年ほど前のことですが、人事課が私達が欲していた予算の獲得を阻止し私達が望んでいた人を雇うことを止めました。」赦すことなしには、人々の間に壁は簡単に作られるのです。

 

 他の例を使うなら、もし皆さんが赦すことをしないとすると、そのことが自分自身を閉じ込めて自由な人間として生きられなくする監獄の壁となってしまいます。そしてそのことが事実上皆さんを傷つける人または人々に、より力を与えることとなります。そして彼らはしばしばそのことが起こっていることさえ知らないのです。

 

 では肯定的な部分を見ていきましょう。赦しは赦さないという心の監獄から皆さんを自由にする鍵です。それは皆さんが赦す人々を変えるかもしれませんし、変えないかもしれません。しかしそれは何時も皆さん変えるのです。赦しを選択することは、神様に同意することです。神様は哀れみ深く、めぐみ深く、情け深いお方です。皆さんや私が誰かを憎んでいても、私達の神様は、その人達のことをそのようには感じておられません。神様はその人を愛しておられます。ですから私達を傷つける人を赦すことを自由意思によって選ぶことは、神様に同意することになるのです。

 それは、神様がイエス様を、私達(全ての人)を傷つける一人ひとりの為に十字架で死なれるためこの世に送られたのが正しく適切なことであったと言っていることになるのです。「苦しみを受けた者からすれば赦しは敵に褒美を与えるようなものだ。しかし十字架のもとでの赦しは与えられるはずのない人から受けるに値しない人への贈り物である」(アンデー・スタンリー牧師)。

 

 私達は今オリンピックの年2020年を生きています。そしてマラソンが私達の街にやってくるのです! ランナーからヒントを得てみましょう。皆さん、どの位のランナーが走る時にスーツケースを持ち、バックパックを背負い、足首に重りを付けて走っていると思われますか? 確信を持って言いますが、その数はゼロです。スタートのピストルが鳴りレースが始まると、自分達を遅くするものが何であれ、そこから自由にならなければならないと知っているのです。彼らは自分達がベストのレースを走るチャンスを得ることだけをするのです。2020年のレースの始まりのピストルは既に鳴っていて、私達は今、19日目のところです。もし皆さんがまだ、赦さない姿勢という重荷を持ち抱えておられるのなら、今がそれを下す良い時期とは思われませんか?私達の神様はそうされるように招いておられます。実際には、命じておられるのです。ですから私と一緒に今、祈りでもって神様の御許へ行き、赦しという自由の中で生きることを学べるよう神様の助けをお願いしましょう。

 

 私達のお父様。まず私達は本当に多くのことを赦していただいている神様、あなたの御許に感謝し参ります。私達の罪は私達が修復する、あるいは理解する能力より遥かに悪いものです。しかしあなたの力、赦し、清め、救済よりも大きくはありません。あなたの驚くほどの恵みによって、あなたは私達が新しく作り変えられる道を用意して下さいました。私達へのあなたの赦しの愛を私達が他の人達へ、たとえその人達が私達が望むように私達を扱わなくても、手渡すことができますよう助けて下さい。私達があなたのご命令(コロサイ人への手紙3章13節) “ 主があなた方を赦されたように、あなた方も赦しなさい。” を喜んで忠実に従い生きることができますように助けて下さい。

 

 神様、私達を、あなたが見られるように見ることができるようにして下さい。特に、私達が私達を傷つける人達を見る時にです。あなたは彼らを赦されます。ですから、そのような人達への愛もキリストが十字架に向かわれた理由に含まれることだと思い起こして、私達をあなたの赦しに加われるようにして下さい。赦さない姿勢を持ち続けることによってできる監獄から私達を自由にして下さい。お願いします。あなたへの信仰と信頼の行動によって、私達は今、過去に私達を傷つけた1人ひとりをあなたの御手に委ねます。あなたが公平に裁くことができるお方であり、私達はそうではないと告白します。あなたは回復し、新しくされるお方であって、私達はそうではありません。なので過去に於いて起こった全てのことを私達の中から解き放ちあなたに委ねます。あなたの赦しの愛の力を通して、あなたがあなたの子供に望まれる、新たに生み出された人生を私達が歩くことができるようにして下さい。イエス様のお名前を通して祈ります。アーメン。

 

参考

 

Groeschel, C. (April 1, 2019). “You Don’t Need to Forgive Them.” Life.Church. Retrieved January 13, 2020 from https://www.youtube.com/results?search_query=you+don%27t+ need+to+forgive+them+ groeschel

Stanley, A. (2006). It Came from Within! New York: Multnomah Publishers. Random House. Retrieved January 18, 2020 from https://www.goodreads.com/work/quotes/1125635-it-came-from-within-th e- shocking-truth-of-what-lurks-in-the-heart

Willis, D. (2016). The Seven Laws of Love. Nashville, Tennessee: Thomas Nelson. HarperCollins. Retrieved January 18, 2020 from https://christianmarriagequotes.com/2321-holding-a-grudge- doesnt-make-you-strong-it-makes-you-bitter-forgiving-doesnt-make-you-weak-it-sets-you-free/