みことばを慕い求める

テーマ「みことばを慕い求める」/中心聖書箇所:第1ペテロ2:2

「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

 

■今日のみことばについて

 私の父のことからお話しさせていただきますが、父は63歳のときにイエス様を信じ救われました。私の家族の中では4番目で、ずいぶん遅くに救われたというのか、教会に行くようになったのは仕事を定年退職した後でした。でも自分では定年後は聖書の勉強をライフワークにしようと密かに思っていたらしかったのです。寡黙な人なので、何を考えているのかわかりませんでした。そして予定通り、救われた後は毎日毎日聖書を読み始めたのです。家族の誰よりも熱心に読んでいました。聖書を読むだけではなく、祈祷会や早天祈祷会に行くようになり、教会学校の教師になり、教会のみなさんのために祈り、神様から聞きしていました。何年か経ったある時、先に救われた3人は気づき始めました。父が自分たちを追い抜いて行ったということを。間違いなく、家族の中で神さまの一番近くを歩んでいたのは父でした。それから父は通信の神学校にも行きました。80歳になっても神学生でした。当時通っていた教会や近くの教会で牧師が留守の時、代わって礼拝メッセージをさせていただいたことも何度かあったのです。

 今日のみことばには、「生まれたばかりの乳飲み子のように、みことばの乳を慕い求めなさい。」と書かれています。その理由は「成長し、救いを得るため。」となっています。確かに乳飲み子は乳を飲むことで成長します。生まれたばかりの赤ん坊の体重は2、3か月経つとなんと生まれたときの2倍にもなります。すごい成長です。私の父の成長もここにあったのです。父はみことばの乳を飲みました。毎日毎日飲みました。みことばの乳を飲むということはわたしたちの成長の鍵です。それも「慕い求める」という姿勢がすごく大切なのですね。ただ飲むというのではなく、飢え渇きをもってこそ「慕い求める」という態度が出てきます。飢え乾いて慕い求める。今日はこの第一ペテロのみことばを土台にしながら、詩篇119篇から切り取ったみことばを通してお分かちしてきたいと思います。

 

■みことばを慕い求めて行くとこのようなことが起きて来る。

詩篇119篇は詩篇の中で一番長い箇所です。1節から176節まであります。ページにすると8ページ半です。そしてその全てでみことばと自分との関わりについて言っています。みことばは自分にとって何なのかを心の限り語っている。なぜこんなに長くなったのか、それはわかりませんが、みことばを慕い求めた作者は語り切れないみことばのすばらしさを体験し、それをどこまでも表現したかったのだと思います。119篇からいくつかのみことばを見ていきましょう。

① 「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(130)

聖書は霊的な書物です。私たちは理性で読むと同時に主の側からその意味を開いてくださることを期待しながら読むことが大切になってきます。以前読んだときには全く分からなかったところが今度読んだときにはぐっと自分の中に入ってくる、はっとさせられるということが起こります。「こんなことが書かれていたんだ!こんな意味だったんだ!まさにそうだ!」と思える瞬間が来ます。これが、「光が差し込み、悟りを与える。」ということになるでしょう。私たちは皆、主のみ前にはわきまえのない者です。その者たちにみことばの戸が開かれるのです。何か楽しみですね。

皆さんそうだと思いますが、私も聖書を読んでいて解らないところが出てきます。そんなときは「主よ、私に解るように教えてくださいね。」と頼んでおきます。もっともっと神さまから直に開かれ教わりたいと思います。私たちが「みことばの乳を慕い求めて」行くときに主はみことばの戸を開かれます。

 

②  「私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。」(162)

 聖書はそのストーリーに沿って前後の意味を考えながら読んで行くことが基本ですが、「ここは自分に語られている。」と思わせられるみことばにぶつかることがあります。そのみことばが強く自分に迫ってきたり、ひとつのみことばが思い起こされて自分の疑問や困っていることが解決に導かれたりするようなときです。みことばが与えられたとき、それを心に留めておくことが大切です。以前お証しさせていただきましたが、3年半くらい前のことです。私は2月末から3月に掛けて肺炎になってしまい、元々肺の持病もあったので、すごく体力が落ちてしまった時期がありました。そして5月に実家に帰る予定にしていました。でも次の日が出発という日にもやっぱり力が出ませんでした。遅い時間に必要な物を買いに行って、お風呂に入ると気分が悪くなってきました。ひどく弱っていたのです。わあーっこんな状態でどうやって行けばいいのだろうとすごーく不安になってきました。体を横たえて、不安な気持ちを抑えようとしていたとき、聖書のある物語が思いに浮かびました。アブラハムのしもべがイサクのお嫁さん探しに出かけるところです。それと同時に「み使いをあなたと一緒に遣わし、あなたの旅を成功させてくださる。」というみことばが浮かんで来ました。後で開いてみると創世記24章に確かに「主はみ使いをあなたと一緒に遣わし、あなたの旅を成功させてくださる。」と書かれていました。「ああ、無事行けるんだ!」と思いました。あまりにもぴったりのみことばでした。次の日少し体調が良くなっていて、そのみことばに勇気づけられ出発しました。この時は無事行けるということに付け加えて、あんなに仲の悪かった兄弟3人が力を合わせて実家の2階を大掃除するという信じられないことがあったり、20数年ぶりで昔の同僚たちに会う楽しいひとときを与えられるということがあったりで、ただ無事に帰れたというより、成功させてくださった、みことば通りに成功させてくださったのでした。

 

③ 「もしあなたのみ教えが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。」(92)

「どんなにか私はあなたのみ教えを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。」(97)

私は独身時代に自分の車を家の庭で洗車していました。バケツで水を運ぶんですが、いつも大体嫌なことが思いに浮かんできました。例えばあの人にはこんなことを言われたなとか、あの男にはあんな風にフラれたなとか、また自分はこんなことをしてしまった、あの人にこんな失礼なことを言ってしまったなど、そういうことが頭の中にどんどん押し寄せて来るのです。元々否定的な性格なので、仕方ないと言えばそうなのですが、否定的な思いに引きずられる感じは良いものではありませんでした。皆さんもいやーな思いが心に浮かんできて落ち込むというような体験はありませんか?箴言にはこんなみことばがあります。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)心の中から命の泉がわいてくると書いてあります。そうだとすれば、私たちはいつも心の中にどんな思いがあるのかしっかりと見張っておかなくてはなりなせん。否定的な思い、良からぬ思いもあるでしょう。そして良い思いで心の中を満たすべきでしょう。良い思いとは何でしょうか?主のみ思い、みことばです。主は愛と希望を語られます。時には戒めもあります。119篇の作者は語っています。「どんなにか私はあなたのみ教えを愛していることでしょう。これが一日中私の思いとなっています。」一日中私の思いとなっている。また、「もしあなたのみ教えが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。」心の中が一日中みことばで満たされたらどんなに幸せでしょうか!みことばを私の思いとする。すばらしいですね。これはわたしのこれからの目標でもあります。

 

■すすめ

 冒頭のみことばに戻りますが、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。」み言葉の中には隠された大きな獲物、宝があり、私たちは解放され、癒され、励まされ、希望が与えられます。このみことばを慕い求めて行きましょう。