あなたを幸せにすることをしなさい。

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師        

第1ペテロ3章8〜15節

“ あなたを幸せにすることをしなさい。”

 

  皆さんこんにちは。思い出していただけると思いますが、ここオープンドアチャペルで私達は今、” 神様が言われたことがない事 “ という題目のメッセージシリーズを学んでいます。

 特に皆さんが教会に多く関わっているなら聞いたことがあって、しかし実際には聖書の中で神様が私達に教えていない様々な格言や考え方を調べているところです。

 私が中学生の時のことです。私が住んでいた小さな町の暑い夏の日だったと思います。

 多少のワクワク感と自由になった感覚があった学校の夏休み最初の数日が過ぎて、退屈が始まって、私は母に不満を口にし出しました。” ここでは楽しいことができない。”

と。

  「そうね。なら外でバスケットでもしたら」

  「暑すぎるし!」

  「じゃあテレビで何か見なさい。」

  「メロドラマしかやってないし!」

  「OK、じゃあね出来ることがあるわ。聖書を読むのはいつでも良いことですからね。部屋へ行って、”怠惰な心は悪魔の作業場” と書いてある聖書の箇所を見つけて教えてちょうだい。あなたにとっても今日覚えておくと良いから。」 

という訳で私は探し始めました。聖書索引でキーワードを” 心 “  “ 悪魔 “ “ 作業所 “  として。でもこれらを引用したところには至りませんでした。そこで、箴言のような言い回しなので箴言を読み始めましたが、見つけることはできません。その後も探しまくりましたが、ついに諦め母のところに戻りまた不平を言ったのです。

 

 今は何故あの時に見つからなかったのか分かります。これらの言葉は聖書からのものではないからです。言葉自体は真実で、聖書から啓発されたものでしょう。しかし聖書には書かれていません。

 

 私達がクリスチャンとして、神様から、また神様の言葉から来たものだと信じている事で、実際は、他の人、他の話、私達の文化から来たものだというものは一体どれ位あるのでしょうか? これらの誤解に焦点を当てる事は、私達になにかを教えてくれます。神様が言っていない事を見ていく時、それは私達が神様のなさる事の力と意味を理解する助けになります。私達は神様に何を言ってもらいたいと期待していますか? 私がもしも神様だったら私は人々に何を言うでしょう?

 これらは、実際に神様が選んで私達に与えて下さるメッセージとは異なるものです。

ですから、神様が私達に言われない事ー言われる事ーが何かを、神様の言葉を通して見て行きましょう。

 

 神様が決して言われなかったことの一つは、” フェイスブック、インスタグラム、ツイッター、スナップチャットで使われているように「私に従ってきなさい。」とは言っていない。” ということです。

 

 イエス様が端的に “ 私に従ってきなさい。” と言われましたが(例えば、ルカによる福音書5章27節)、それは私達が今日持つオンライン上の関係よりもっと深い意味でありました。例えば、キリストに真に従うことの一つに、神様が信じる者に託された教えを忠実に伝えるということがあります。ですがキリストは、” 全ての世界に出て行き、人々を幸せにすることは何であれ教えなさい。” とは言っていません。イエス様は、” 誰でも私の弟子なりたい者は、自分を肯定し、十字架を避け、自分自身の道に従いなさい。” とは言われませんでした。イエス様は、” 良き知らせ(福音)を教えなさい。(マルコ16章15節) 従う者には、自分自身を捨てて、自分の十字架を担いそして私に従ってきなさい。”

(ルカ9章23節)と言われました。

 

 どういう訳かキリスト教会においてさえ今だに、福音を “ 神様はあなたを、全てのものに優って幸せにしたいと思っておられる。”  、” 神様はあなたに、人生で良いことだけを経験させたいと思っておられる。” , “ 何よりも神様は、あなたの夢が叶うようにあなたを助けたいと思っています。” と語るのを聞かれたことがあるかもしれません。

 私達が自らの文化から(教会の文化を含めて)得る幸福の姿、形は、私達に強烈なインパクトをもたらしており、それは私達が気がついていないほどのものです。

 私の知っている人々を見たり、オンライン上やテレビなどでなされる、” 良い生活” についての説明を聞く時、私は、幸せな生活には数学的な公式のような何かがあると思うようになりました。

 健康+愛する家族+親しい友人+高学歴+高収入+充実した趣味+綺麗な家+堅実な年金=幸せな人生

 

 もし幸せな人生がそのようなものであれば、私達はいとも簡単に神様を世界で最も偉大な自動販売機として考え始めることでしょう。すなわち、私達が正しい言葉や行動、態度を入れると私達は神様から必要とするものを得られることが確信できるというものです。

 もし教会に多く行けば神様はどんな悪い病気にも罹ることがないようにして下さる。毎日祈り聖書を読むと、テストで良い点を取ることができる、素晴らしい結婚相手が見つかる、良い会社で良い仕事が得られる等々を主が確約して下さる。私達は聖書の中でお会いできるイエス様を好きなのではなくて、私達の現実の文化の中で会える “ ジャグジーの中にいる(居心地の良い)イエス様 “ が好きなのです。そこではイエス様はおもに、私達を幸せにするため、私達が夢見る生活ができるように助けるため、健康、富を、良い時間をもたらすためにおられるのです。

 

 皆さんが一旦、神様は皆さんの幸福を一番高いゴールとされる、という考え方になると、皆さんの人生の取り組み方には確固とした論理ができてきます。それは、(1) もしも神様が他の何物にもまして私を幸せにしたいと思われるなら、私を幸せにするものは何であれ正しくなければならない。私を不幸せにするものは何であれ間違っていなければならない。(2) 不快、遅延、反対、危険、障害は神様の意思となり得ない。(3) 私が本当の幸福を得るために私に必要なものは、自分を幸福にすることを見出し、それをすることです。私のモットーは自分の至福に従う、自分の情熱に従うこと、自分の心に従うこと、自分自身のことをすることです。

 ですが、この一連の考え方には問題があります。その一つは、私達が既に見てきたように、神様が聖書でそのように正確には教えていないということです。もう一つは、もし私がこのように考えて、その結果幸福でないのなら、きっと私は神様について、(1) 私について失敗した(実にところ力がなかった)、(2) 私をそんなに愛していなかった。又は(3) そもそも最初から存在していなかった、と言うような結論に達するだろうと思います。これは私達が一番に必要としている時に信仰が挫折してしまうことです。

 

 ではポイントは何でしょう? 神様は皆さんや私が幸せになることを望んでいないのでしょうか? ここから始めてみましょう。神様の言葉によってその事の多くが明らかです。答えはノーです。神様は明確に私達が幸福になることを望んでおられます。例えば、

詩篇97篇12節前段は、” 正しき人よ。主がなされたことの故に喜びなさい。 “ 

コヘレトの言葉3章12節では、人々は、” 生きている間良いことをして幸せに “

と言い、更に、11章9節では、” 若い男よ、若い内に楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心の赴くまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これら全てのことについて、あなたは神の裁きを受けることを知っておけ。” と言っています。

 

 そうです、神様は私達が幸せになることを望んでおられるのです。でも最後の部分の言葉に気がつきましたか? 神様はまた、私達を裁かれるとあります。このことは私達に、幸福だけではなく、その他の何かについても見続ける必要があると言っているのです。

 では別の方法で質問をして見ましょう。神様が、私達が幸せであることを望まない時はあるのでしょうか? 私は、聖書によれば答えはイエスと言えます。例えば、その事柄が皆さんにとって短い期間の幸せをもたらすもので、愚か又は罪深いもにであるような時には、神様は皆さんが幸せになることを望まれません。皆さんの幸福が何か愚かで悪いものからもたらされる時、そしてそれが長い目で見て皆さんや他の人の人生にダメージを与える時には、神様はそれに反対します。

 

 例として私の娘達のことを考えます。彼女らはどちらも今学生です。娘達が大きな試験に臨むにあたり時間と労力を掛けて彼女らができ得る最善の勉強をし、結果としてその試験に良い成績を収めて合格したら、私は嬉しいです。そのことで彼女達を称賛しますし、彼女らが成功した幸せは私の幸せと誇りになります。私が彼女達の幸せに反することは全く持ってあり得ません。ですが、例えば、テストで良い成績を取った彼女らの1人が、もし、悪い成績だったクラスメイトを馬鹿にしてネット上でのいじめに加わったならば、私の娘に対する感情は変わります。彼女の性格的な成長の必要性を思うほどには娘の幸せに焦点を合わせることができなくなるでしょう。ですが、これで私が、彼女が幸せな生活をおくることに関心を持つことを止めることにはなりません。私は、彼女が長い間自分の深い幸せを見つけるのを止めてしまう配慮のない意地の悪い心から自由になって欲しいと思います。

 

 違う言い方をすれば、天におられる私達の父なる神様は私達の長く続く深い幸せに関与されているのです。しかし同様に罪も私達の内に働いていて、私達を短期間で底の浅い単純な虚構の幸福へと引っ張っています。罪は満足を約束します。しかし皆さんが神様に従わないよう要求するのです。そしてそれは遅かれ早かれ皆さんや他の方々にダメージと苦痛を与えることになるのです。罪は与えることのできない幸福を約束します。キリストは罪の呼びかけを拒み、私達の主の呼びかけに従うよう教えています。そうすることによって私達は最大の幸福を見つけるのです。

 

 私達がこのことを理解しない時、又は、進んでそのようにしない時には、問題がいくらでも始まるのです。

 

 私達は、神様や神様の言葉、聖書が真実で信頼がおけるという考え方を受け入れないかもしれません。私達の文化は私達を、客観的な真実は存在しないという相対主義やポストモダニズムを信じる方向へ導こうとしているかもしれません。そこには “ あなたの真実 “

や “ 私の真実 “ があって、”( 一つしかない)真実 “ はないのです。

 これを信じてしまうと、善悪や自分が何をするかを決める自身の基盤を ” 何が自分を幸せにするか “ にすることが簡単になるのです。

 

 “ 何故結婚の約束を破ったのか?”

   “ 彼女は幸せではなかったし、私も幸せではなかった。なので私達にとっては一緒にいない方が良いと決めました。” 

 

 “ 良いクリスチャン“ がしている全てのことを自分達がしなければならないのなら自分達の幸せを逃し、惨めになると考えて神様を信じない人々がいます。彼らは神様を信じてさえいるかもしれませんが、自分達の行動で神様に従うことを拒否しています。それは、そうすることによって自分達の幸せを諦めなければならないと思っているからです。

 

 彼らは正しいのでしょうか、それとも間違っているのでしょうか? 短い間幸せをもたらすものの、神様が与えたいと願う長く続く深い幸せを取り去るような私達の行動を神様が諦めるよう私達に言う時には、彼らが言っていることは正しいのです。ですが神様は、私達の底の浅い幸せと取り替えられるもっと良い何かを持っているのです。

 

 少ししか試さないで効果がないと決めつけて神様を信じる信仰から背を向ける人々もいます。” 3週続けて教会に通ったけど、まだ望む仕事に就けない。私の結婚生活だって崩壊したままだ。もし神様が絶対にそこにいるのなら、神様は私が好きでないに違いない。” 

 このような考えが示す幸福の種類は、出来事を基本とした幸福です。幸福の感じ方は私達の状況に対する変化に伴って変わって行きます。

 

 私達が、求める幸福を見つけることができない理由は、私達が度々、間違った場所で探しているからです。私達は、幸福を約束するものやとても魅力的に聞こえるものの中からそれを見つけることができ、そして少なくともその時点で、それらは私達を誘惑し、大変満足のいくものに思えるのです。しかしながら、それらは私達の深い幸せ以外の何かに導きます。それらを通して幸せを追求する結果、私達は奴隷的な生活という罠に掛かって終わってしまいます。

 ある人達にとっては、アルコールの力から逃れることができない状態になり、また、ある人々は、買い物をすることに又は悪い人間関係(例えば、虐待する人との)からノーと言えない状況になってしまいます。

 

 批判的な精神から抜け出すことができなくて、考えることさえなく(自動的に)ほとんど全てのどんな会話にも苦々しい傷つけるような何かを探し、それらを入れてくる人々もいます。

 偽りの幸福が何であれ、私達全ては時に、神様が私達をより高いレベルの幸福のために設計されているのに、もっと低いレベルの幸福のようなものを探している自分を見つけるのです。

 

 多くの人々が神様について誤解していることには、神様は私達に幸せになることだけではなく祝福されることをも願っておられる、ということがあります。神様は、私達の最大の幸福に反対している訳ではありません。神様は私達がそれを見つけ、その中で生きることを深く望まれています。ですから私達のためのより大きな計画を私達がしっかりと手に掴むために、破滅的で夢のような幸せからまず私達を解放しようと招いておられるのです。

 

 もう一つの主要なポイントは、神様は私達の幸せより私達が聖なる者とされる(聖別される)ことに興味があるというものです。これは、よりもっと私達の主であるキリストのようになるという過程を通るということ、そして私達が清くなって成長し神様が祝福することができる(恵を与えることができる)そのような人になるということです。

 私達の文化による影響や間違った方向に導かれた教えなりで、私達はとにかく幸福と聖別は水と油のように反するもの、お互いに反発するもの、お互いに排除しあうものという考えを簡単に持つようになります。ですが実際には、聖なる者になるとは単純に、愛深い、平和的で親切な、その他全ての方法で霊的に神様のようになるということです。

 神様は第1ペテロ3章8〜9節で、互いに平和に生きなさい、理解深くありなさい、家族のようにお互いを愛しなさい、親切で情け深くありなさいと教えています。神様は私達に、高慢にならないように、悪に対して悪で返さず、不親切な言葉に不親切な言葉で返さないように命じています。ここでは神様が教えるような状態にいること(になること)が幸せになるということです。このような種類の聖別は自然にとても魅力的なことで、「聖なる」という言葉を聞いた時に私達が思う ” いかにも聖人ぶった “ 態度とは全く違ったものなのです。私達はそのような態度を見る時には、それを否定し、私達自身避けたいと欲するものです。

 神様は、聖別は真の幸せに至る本当の道だと教えておられます。

第1ペテロ1章15〜16節では、”  あなた方をお選びになったお方は聖なるお方です。ですからあなた方もすること全てにおいて聖なるものであるべきです。「清くありなさい。 私が清いからである。」と書いてある通りです。“. (レビ記11章44、45節、19章2節)

とあります。

 第1ヨハネ2章15〜17節では、

15節 “ 世と世にあるものとを、愛してはいけません。もし、世を愛する者があれば、父の愛はその人のうちにはありません。”

16節 “ 全て世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物を誇ることは、父から出たものではなく、この世から出たものです。”

17節 “ この世とその欲は過ぎ去ります。しかし、神の御旨を行う者は永遠にながらえるのです。” 

とあります。

 

 清くなる(聖別される)ことを通してーよりもっとキリストと似る者と成長することを通してー神様はあなたや私に神様の祝福の内に生きて欲しいと願っておられます。

 第1ペテロ3章9節では、皆さんがそのようにするために作られている良い事をする時 ” あなた方はそれをすることで祝福を受けることができます。” と言っています。これは良いニュースではありませんか? しかしまた確認しますけれど、私達は、神様の祝福の定義が私達のものとは異なるということを覚える必要があるのです。私達は、神様が私達が望むものなら何であれ与えて下さることで祝福され、そうであれば私達は困難な問題に直面する必要がないと思いがちです。しかしもし私達が、アラジンが自分が欲しいものを得るために(魔法使いの)ジニーの下に行くように神様の下へ行くなら、私達は根本的なレベルで神様を誤解していることになります。私達は、神様の1番の目的が私達に快適で便利な生活を与えることだとも思いがちです。実際には、そのような考えは神様が意図する祝福されるということとは全く違います。神様は、私達が大変困難な状況の中にいてさえ祝福することができると教えています。私達は、例え深刻な苦悶や苦痛を通っている時でさえ神様の祝福を経験することができるからです。それらの困難な時が、私達が神様を探し求め、それらに対処できるより大きな力を受けて、信仰と平和の内に進むことができる機会となるからであって、よりもっと神様の祝福の中で生きることを学び始めるからです。

 

 クリスチャンであって牧師のマックス ルカドは天国についての本を執筆しました。その第1章は題として、” 不幸の贈り物 “ とあります。彼は、クリスチャンとして私達はこの世では幸せではないのです、何故ならば、ここは私達の家ではないからですと言っています。私達はこの世では幸せではありません。何故ならば私達はこの世では本来幸せになるはずではない(ことになっていない)からです。

 私達は、” この世にあっては外国人、居留者のようです。” (第1ペテロ2章11節)

 

 一つの例ですが、魚を獲って浜辺に置いたとします。魚は戦い苦闘しますが乾いて干上がっていきます。魚は幸せでしょうか?違いますよね。ではどうしたら幸せにすることができるでしょう。山のような現金をあげましょうか? ビーチチェアとサングラスを持って行きますか? 魚釣りの雑誌(プレイフィッシュ)とマティーニを持っていきますか?とてもかっこいい装飾のあるフィン(脚ひれ)と人肌の靴をあげますか?

勿論そんなことはしませんよね。ではどうしたら彼を幸せにできるでしょう? 彼がもともと生まれつき属している場所に帰してあげることですよね。水の中に戻すことです。魚は浜辺では決して幸せになれません。何故なら彼は浜辺で生活するように作られていないからです。

 

 そして、皆さんや私はこの世界では決して完全に幸せにはならないのです。何故なら、私達はこの世界のために作られたのではないからです。

 私達は短時間の喜びを持てるでしょう。ある時にはある状況で、とても美しいことを見ることもあるでしょう。その時々のまた日々の平和を知るでしょう。でもそれらは行手に横たわる幸せとは単に比較にはならないのです。私達の本来の家は神様とともにある天の国にあります。なので私達の最大の幸福は神様と天の国にいることです。この世の中ではそれを見つけようと期待することはできません。私達がこの世界で見つけられる幸せについては私達の期待を引き下げる必要があるかもしれません。

 

 この世の中での休息は、ある意味偽りの休息です。ですから皆さんにこの世で幸せを見つける方法を教えようとする人々には注意して下さい。それは見つけられないものですから。幸福を、ただこのダイエットをしたら、この人と結婚したら、この就職が決まったら、この転職ができれば等と約束する偽りの広告者から(自分自身を)護りましょう。

預言者はこのような人々に向かって ” 彼らは、手軽に私の民の傷をいやし、平安がないのに「平安、平安」と言っている。“  (エレミヤ6章14節) と言いました。

 

  そして、私達が家に着くまで大丈夫にはならないのです。

 

 今日もまた、皆さんや私が、神様により神様のために、神様と共に永遠に生きるために作られたことを学びました。神様は私達に幸せを探し求めるのではなく、神様御自身を探し求めることを教えて下さっています。私達がそのようにする時、私達は、よりもっと神様が私達に求めておられる聖なる者、キリストに似た者とされ、神様の祝福の中で生きることとなるのです。そしてこれは、私達が神様から離れて見つけられるどのような幸福よりもはるかに大きなことなのです。もし皆さんがご自身の目標を幸せになることとしているなら、それに到達することは驚くほど困難です。ですがもし皆さんが神様御自身を最良のものとして探し求めるのであれば、皆さんは皆さんの人生の旅の過程において深い幸せを見つけるでしょう。

 

 これが私が皆さんに伝えるように受け取った良いニュースです。私達が深く豊かな神様の知識に導かれるように願いながら信仰を持って神様に応えていきましょう。

 

 天におられる父なる神様。今日もまた、私達はこの世界ではなく天の国において神様あなたと、あなたの家族と共に永遠に生きるために本来作られたことを教えて下さいました。そこが私達の真の家です。あなたの家族であることが真の身許です。

 主よ。このことを本当に知る時に私達の幸せに対する考え方は永遠に変わります。そしてあなた御自身を探し求めることによってのみ幸せを見つけることができます。私達の毎日の生活においてこのことを1番大きな目標とすることができますように助けて下さい。時が良く、幸せである時にコヘレトの言葉7章14節の教えに従って行けるように助けて下さい。時が悪い時には、良い時と同様に悪い時をもあなたが作られていることを思い出すことができますように助けて下さい。そして時が良くても悪くても、私達の主イエスがなされたように、私達の生活の毎日をあなたに信頼することができますよう助けて下さい。

 私達がそのようにすることで、あなたの祝福の中に私達を導き、今も、そしていつもその祝福の中で生きることができますように助けて下さい。キリストのお名前によって祈ります。アーメン

 

 

参考

 

Salazar, G. (September 25, 2019). Stop Trying to Find Your Passion. The Baylor Lariat. Retrieved October 13, 2019 from https://baylorlariat.com/2019 /09/25/stop-trying-to-find-your-passion/

Groeschel, C. (February 10, 2015). “God Wants You Happy.” God Never Said That. Life.Church. Retrieved October 3, 2019 from https://www.youtube. com/watch?v=OmWDuesPTbo&t=909s

Groeschel, C. (April 8, 2019). “Go Do What Makes You Happy.” Things Jesus Never Said. Life.Church. Retrieved October 2, 2019 from https://www. youtube.com/watch?v=At2D_TCJlOc&t=1663s

Lucado, M. (1994). Heaven: God’s Highest Hope. Max Lucado. Retrieved October 5, 2019 from https://maxlucado.com/heaven-gods-highest-hope/