ノアの日のように

2019年10月13日主日礼拝 

「ノアの日のように」Ⅱペテロ3:8~10 佐々木俊一牧師

■唐突ですが、2010年7月18日の主日礼拝は誰のメッセージだったか覚えていますか。その時はまだオープン・ドア・チャペルにいなかった兄弟姉妹もいるかと思います。タイトルは、「うしろの戸を」です。英語礼拝だったので英語のタイトルは、「Shut the Door Behind Noah」でした。聖書箇所は、創世記7:16です。さあ、誰でしょう。それは、富田敬二牧師でした。通訳はジム先生でした。

 それでは、次に、2010年7月25日の主日礼拝は誰のメッセージだったか覚えていますか。タイトルは、「フィラデルフィヤ・ミッション・チャーチ」です。聖書箇所は、ヨハネの黙示録3:7~13でした。さあ、誰でしょう。ヒントはカナダ人です。エチオピアの宣教師でした。それは、ボブ・ラッツリフ牧師です。この時の通訳は息子のバリーさんでした。2010年の私の手帳にそう書いてあります。

 富田先生は聖書の最初の書である創世記からお話をし、ボブ先生は聖書の最後の書であるヨハネの黙示録からお話をしてくれました。お二人はこの時打ち合わせをしていたわけではありませんが、面白いことにお二人のお話には共通点がありました。それは、お二人ともにノアという人物とドア(戸)と言うことについて話しておられたことです。戸を閉めるのも開くのもイエス様であり神様です。ドアの鍵を持っているのはイエス様であり神様なのです。お二人ともに、終わりの日のことをテーマにして語られたメッセージだったと私は記憶しています。今日、私はノアの時代のことに触れながらお話をしたいと思います。

■ペテロが書いた手紙は二つ、Ⅰペテロの手紙とⅡペテロの手紙です。今日は、Ⅱペテロの手紙をとおして神様の導きを受けたいと思っています。Ⅱペテロ1:13~16によると、ペテロがこの手紙を書いた目的は、いつでも思い起こしてほしい大切なことを、ペテロが生きている間に、後に続く信仰者に伝えておくためです。

 16節に、主イエス・キリストの力と来臨はうまく考え出した作り話ではないと言うことを語っています。来臨というと、二つの事があります。一つは、神の御子なるイエス・キリストが罪を贖うために人となってこの地上に来られたこと、もう一つは、救いのみわざを完了したイエス・キリストは、死んでよみがえられた後に天に戻りましたが、信じる者たちを救い、そして世を裁くために、将来、再びこの地上に来られることです。来臨はこの二つの出来事を指しています。前者はすでにおよそ2千年前に起こった出来事ですが、後者はこれから起こることなのです。今日の聖書箇所Ⅱペテロ3:8から見ていきましょう。

■Ⅱペテロ3:8~9 ここで、ペテロは何を見落としてはいけないと言っているのでしょうか。英語では忘れてはいけません、になっています。それは、神様にとっては1日も千年も違いはないと言うことです。神様は人と違って時間の制約がありません。神様は初めもなければ終わりもないお方で、永遠なるお方なのです。私たち人間はこの地上においては初めと終わりがあり、時間の制約があります。ですから、1日と千年では大きな違いです。けれども、永遠なるお方にとっては1日は千年のようであり、千年は1日のようなものなのです。時間の感覚がないと言ってよいでしょう。

 当時、多くのクリスチャンは、イエス様が再び戻って来られるのを首を長くして待ち望んでいたのだと思います。けれども、待っても、待ってもイエス様は来ません。Ⅱペテロ3:3~4の内容から察するならば、周囲の人々の中には、そんなクリスチャンを嘲笑う者たちがいたのでしょう。キリストが再びやって来るという約束は、ただの作り話だと言う者たちがいて、自分たちの信仰が否定されたのだと思います。そして、クリスチャンは、少々、焦りを感じながら、イエス様が来るのが遅いと思い始めます。ですが、神様の思いとしては、一人でも滅ぶことを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。神様は人が救われるように非常に忍耐深く待っておられるために、その結果、イエス様が再び来られるのを待っている人々は、イエス様が来るのが遅いと感じていたのです。

 神様のなさることは私たちの思いとは違うことがよくあります。神様の計画は私たちの思いを越えていることが本当によくあるのです。ノアの場合もきっとそうだったのでしょう。それでは、ノアのところを見てみたいと思います。

■創世記5:32で、ノアが500才になった時、セム、ハム、ヤぺテを生んだと書いてあります。ここで、多くの人がつまずくんですね。まず、500才まで生きるってことが現代人にとっては考えられないことですし、その上、500才で子どもができるなんてまったく考えられないことです。もちろん、ノアは男ですからノアが産んだのではなく、ノアの奥さんが産んだと言うことです。ふつう、このようなことを言う人は常識を疑われます。しかし、創世記6:3を見ると、神様は人の齢を120年にしようと言われました。ノアの洪水を境目に人間の寿命はだんだん短くなってゆきます。そして、ダビデの時には、人の齢は70年と言われています。120才にしても70才にしても常識の範囲内だと思います。  

 現代の平均寿命は国によって違いがあります。2016年では、男女の平均が1位日本で84.2才、2位スイスで83.3才、3位スペインで83.1才、カナダは82.8才で7位、アメリカは78.5才で34位でした。

 私の母はあと1週間で95才です。妻の母は91才です。二人ともに、平均寿命を越えています。バリーさんの祖母は104才です。長寿の世界記録は、女性はフランス人で122歳、2番目は日本人で120才、男性はこれまた日本人で116才です。

 ノアの奥さんがセム、ハム、ヤぺテを産んだ時、世の中は悪で満ちていたことが創世記6章からわかります。殺人、強盗、性犯罪などが横行していたのでしょうか。私たちが生きている今の時代と同じような悪事や犯罪がはびこっていたのかもしれません。それで、神様は地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められたと書かれています。しかし、8節と9節を見ると、ノアは主の心にかなっていたとあります。悪い時代の中にあっても、神様を信じて神様に従って生きる人々がいるのです。

 へブル11:7を見てみましょう。ノアのことについて書かれています。「信仰によってノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けた時、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」とあります。ノアは神様から警告を、信仰によって本当の事であると受け止めました。私たちが神様から受けている警告とは何でしょう。それは、イエス・キリストの十字架の救いです。信仰によって本当の事であると受け止める時、私たちはその救いの中に入るのです。

 ノアは神様の言われたとおりに箱舟を造るためにせっせと働きました。そして、セムとハムとヤぺテが大きくなると彼らも箱舟造りに加わったことでしょう。周囲の人々は、今まで見たことのない大きな箱舟を見て不思議に思ったに違いありません。人々はノアにどうしてそんなにでかい船を造るのか尋ねたのではないでしょうか。ノアはこう答えます。「神様はこの悪い世の中を裁くために大洪水を起こします。でも、この箱舟に入れば助かります。」人々はノアをあざ笑って、「そんなことがあるはずがない。」と言います。 

 ノアは100年の間、神様の約束を待ちながら準備していました。それを見ていた人々は十分に神様からの警告を聞いたはずです。また、そのことはうわさとなって遠くにいる人々にも伝えられたことでしょう。人々は神の警告をノアのことばとその行為によって示されましたが、誰も信じませんでした。そして、ついにノアが600才の時に大洪水が起こります(創世記7:11)。Ⅱペテロ2:3に、「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち8人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」とあるように、ノアは人々に神の救いを宣べ伝えましたが、人々は信じませんでした。そして、大洪水によって滅びました。

■ペテロの手紙やパウロの手紙を読むと、彼らが世の終わりを意識し、イエス様が再びこの地上に来られるのを待ち望んでいたことがわかります。しかし、彼らの時代にイエス様が再び来られることはありませんでした。その理由は、Ⅱペテロ3:9です。神様は忍耐をもってひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられたからです。

 ペテロやパウロがイエスの再び来られるのを待ち望んでいた時代からもう2千年近くになります。ノアたちが100年かけて箱舟を造っている間に、もしかしたら疑ったことがあったかもしれません。こんなに長い間箱舟を造り続けているけれども、まったく大洪水の気配がないなんて、もしかすると、みんなが言っているように大洪水なんて来ないかもしれないと思ったかもしれません。でも、ノアとその家族は神様の言われたことを思い起こして箱舟を造るのを止めなかったのです。

■私たちが生きているこの時代は、ノアが一生懸命に箱舟を造っていた時代に似ているように私は思います。ノアは、神様の言われたことを信じて、神様の言われたことを人々に伝え続けました。しかし、人々は信じませんでした。そのような状況の中で、ノアとその家族は大洪水がいつ来てもよいように準備を続けました。彼らは忍耐したのです。私たちも同じように忍耐することが必要です。

 マタイ24:37と38にこう書かれています。「人の子(イエス・キリスト)が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」

 大洪水が起こる前の日まで、人々にはいつもの生活、日常があったのです。ノアとその家族にもいつもの生活、日常がありました。他の人々と同じです。ただ、違っていたのは、彼らは神様の約束を信じて待ち望んでいたのです。そして、大洪水が起こった時のために、避難場所を備えていました。

■富田先生もボブ先生も、ペテロのように、いつでも思い起こしてほしい大切なことを、後に続く信仰者に伝えておきたかったのだと思います。

 ノアたちが造った箱舟にノアの家族が入り、最後にノアが入りました。その後、神様が箱舟の扉を閉めたのです(創世記7:16b)。

 現在、世界中で福音が宣べ伝えられています。しかし、それはいつまでも続くわけではありません。神様は忍耐をもって人々の救いを望んでおられます。しかし、いつか必ず、救いの扉は閉じるのです。

 ノアの日のように、私たちには日々の生活があり日常があります。その中で、ノアのように、人々に福音を宣べ伝えて行きましょう。いつも思い通りの結果があるわけではありません。時には嘲笑う人にも出会います。私たちは、ノアの箱舟であり避難場所であるイエス様の内にあって守られていることを覚えつつ、忍耐をもって、神様を信じて、神様の約束を待ち望んで行きましょう。それではお祈りします。