反抗期

2019年9月22日主日礼拝<反抗期>マタイ23:1~3 佐々木俊一牧師

■男性も女性もほとんどの方が、大人に成長する過程で反抗期を経験されたのではないでしょうか。みなさんの反抗期はいつ頃でしたか。反抗期の最中におられる方もいるでしょう。私の場合は今から47年前、15歳の夏休みくらいから始まりました。中三の1学期までは勉強もスポーツも一生懸命頑張るとても素直な中学生でした。親に対しても教師に対しても反抗的な態度はほとんどなかったと思います。けれども、中学3年生になるちょっと前頃から、友達の影響でビートルズにはまってしまいました。その時すでにビートルズは解散していましたが、私はビートルズのレコードを買いあさり、ビートルズに関する本や雑誌を読みあさり、ビートルズの虜になってしまいました。私はビートルズのようになりたいと思いました。ビートルズのように好きなことをして自由に生きていくライフスタイルにあこがれました。それまでの自分がなんて不自由な人間だったのだろうかと思いました。親や教師のいいなりに生きるのがばからしくなってしまったように思います。そして、世の中の矛盾や不条理に腹を立てるようになっていきました。高校2年生になると勉強はほとんどしなくなってしまいました。教科書は全部教室の机の中に入れたまま、弁当だけカバンに入れて学校に登校していました。今考えると、ちゃんと勉強をしておくべきだったと思います。でも、そういうことがかっこいいことだと思っていました。高校3年になる前に進路をはっきり決めなければなりませんでした。私は美大受験を目指して、高2の夏休みから美術部に入り準備を始めました。その頃の写真です。夏休みに美術部でキャンプに行った時の写真です。この頃は楽しい時期でもあったのですが、将来の事や友達関係の事や親子関係の事など、いろいろな悩みがあった時代です。

 東京の美大をいくつか受けましたが、失敗しました。その後、美大専門の予備校に通い、再度受験しましたがまた失敗しました。結局、私は全く関係のない札幌大学の英語学科に入りました。挫折の結果、はっきりした目的もないまま学生生活を送っていました。しかし、そこで、アメリカ人宣教師に出会い、私は教会に行くようになりました。教会に行き始めて4カ月後に私はバプテスマを受けました。罪を悔い改めて、イエス様を信じて生きて行こうと決心しました。にもかかわらず、その後もいろいろなことで悩み、精神的にアップダウンの繰り返しでした。調子のよい時もあれば、調子の悪い時もあり、楽しい時もあれば、苦しい時もあり、教会って良い所だなあと思ったのもつかの間、こんな教会にはもういたくないと思ったり、とにかく不安定でした。その頃の写真がこれです。あれから40年、こうしてクリスチャンとして生き延びてこられたのは、神様のあわれみ以外の何ものでもありません。

■それでは、聖書を見ていきましょう。イエス様は群衆と弟子たちに向かって話しました。群衆ですから人が大勢いました。マイクもスピーカーもありませんから、大声を張り上げてイエス様は話したのだと思います。   

 ここで言われている「モーセの座」とは何でしょうか。モーセは旧約聖書最大の預言者と言ってよいでしょう。神と人との間に立って神のことばを人々に伝え、また、人々をとりなす仲介者であり、イスラエルの民を導く指導者でした。モーセはイエス・キリストの予型(型)と言えるでしょう。モーセやその出来事の中にイエス・キリストとその救いが表されているのを見ることができます。

律法学者とパリサイ人がモーセの座を占めているとは、律法学者とパリサイ人の役割の中にモーセの役割と共通する部分があったのだと思います。たとえば、神様のことばを人々に伝えたり、神様のことばを教えたりすることです。彼らは、イスラエルの人々にとって、宗教的な教師であり指導者でした。ですから、律法学者もパリサイ人の語ることばは一応重んじられていたのです。

 彼らの言っていることは正しい事であったので、そのことには従うようにとイエス様は助言しています。しかし、正しいことを教えている律法学者とパリサイ人がその教えに従っているかというと、そうではなかったようです。イエス様は、彼らの言っていることには従っても、彼らの行ないをまねてはいけないと言っています。なぜならば、彼らが教えていることと実際にやっていることの間にはギャップがあったからです。

 大人にとって、これは耳の痛いことです。大人は子どもにとっては、パリサイ人や律法学者のように、指導的立場にあります。大人は言うべきことは言っても、必ずしもそれをやっているかというと、やっていないこともよくあるのです。自分が子どもだった時の事を思い起こせばわかるかと思います。私が親や教師の言うことに反抗した理由の一つはそこにあったように思います。大人は子どもに向かってああすれこうすれと命令するけれども、大人自身がそれをやっていないだろう、他人のことを言えないだろう、と思った記憶があります。大人も人間ですから完全ではありません。ですが、親なので子どもの事については責任があります。子どもの事を考えると言わないではいられないところがあるのです。これは、大人になり親になってみないとわからないことなのだと思います。

 律法学者もパリサイ人も、自分が出来ていないことを他人には要求していたことが、マタイ23:4を見ると推測できます。それと同じように、大人も自分にできていないことを子どもに要求することは、子どもにしてみたら本当に腹立たしいことなのです。

 たとえば、酒やたばこの問題です。私の学生時代は、中学校や高校で生徒がタバコを吸ったり酒を飲んだりしたことがばれると、停学になったり退学になったりしました。でも、その時代職員室に行くと、生徒がいようがいまいが、教師はタバコをスパスパ吸っていました。この時はまだ受動喫煙などという言葉がなかったからよかったですが、今では非難されます。酒やたばこは成長期にある未成年には心身の健康上良くないと言う理由で法律で禁じられています。ですから、大人は未成年の酒やたばこについてはうるさく注意してきました。でも、そんなに悪いものであるならば、大人もやめるべきではないのか、というのが子どもの主張ではないでしょうか。

■ビートルズは、私にとってイエス様のような存在でした。世の中の矛盾や正しいとされていた価値観や常識について見直す機会を与えてくれたと思います。私たちが大人や世の中に向かって言いたかったかったことを代わりに的確に表現してくれました。ですから、ビートルズの歌も彼らの言動も私にとって最高だったのだと思います。けれども、彼らもやはりただの人間でした。彼らは愛と自由と平和の歌を歌っていましたが、でも、彼ら自身は完全ではありませんでした。立派なことを歌ってはいるけれども、自分たちがそのように行動できていたかというとそうではありませんでした。彼らもやはり、間違いを犯す弱い人間だったのです。私はビートルズが大好きで、彼らの言うことに共感し、ある意味私の先生であり、私は彼らに従っていました。でも、結局のところ、それによって私の心は自由にはならなかったし、平安もなかったし、自信もなかったし、相変わらず、私は壊れたままの人間でした。

■旧約聖書にしても新約聖書にしても、憎しみ、妬み、病気、争い、事故、災害、そして、犯罪などによって傷ついた人間、壊れた家庭や壊れた社会、そのようなことがたくさん出て来ます。一度傷つき壊れたものを再び回復することはとても難しいことです。しかしながら、聖書の中には、傷ついた人間が回復し、壊れた家庭や社会が修復され回復していく話がたくさんあります。どのように修復し、回復していくのでしょうか。それは、神様の恵みの何ものでもありません。しかし、その中で、人がまず神様の導きを求めて従い始める時、傷つき壊れた人間が癒され回復し、壊れた家庭が修復され回復し、壊れた町や国が修復され回復していくのです。

 私もビートルズではなくてイエス・キリストが言っていることを聞いて従い始めた時に、私の心は癒され修復され回復していきました。そして、その祝福は私の人間関係にまで広がりました。人間関係の回復は相手がいることなので複雑ではありますが、自分が変わるだけで回復される人間関係もあるのです。人と人との平和な関係は幸せな人生を送るための大きな要素の一つです。イエス・キリストに従うとき私たちは修復され、以前よりも人との間に平和を築くことが容易にできるようになります。

■イエス様は、正しいことを口では言うけれども実行しない律法学者やパリサイ人の真実を的確にとらえて表現しました。それを聞いていた群衆や弟子たちは、自分たちが思っていたことをズバリと言ってくれたイエス様に非常に共感を覚えたのではないでしょうか。心には思っていてもそれを言い表せないもどかしさを、イエス様は解決してくれたのです。違うことは違う、おかしいことはおかしいとはっきり言っていいのだと言う、その姿勢が何か新しくて良いことが始まる希望を感じさせてくれたのではないでしょうか。

 人は不完全な生き物です。ですから、時には言っていることとやっていることの間にギャップが生じてしまうのも仕方ありません。ですが、多かれ少なかれ自分にはそのような弱さがあることを私たちは自覚する必要があります。また、そのギャップをできるかぎり小さくする努力も必要でしょう。

 誰もが通る反抗期を安全に通り過ぎることができるように、大人は律法学者やパリサイ人のようにではなくて、イエス様に習って言うことと行なうことのギャップに十分に気をつけていきたいと思います。それではお祈りします。