神様は、対処できる以上のことを、決してお与えにならない?

2コリント1311

神様は、対処できる以上のことを、決してお与えにならない?

                    

 

今日ここオープンドアチャペルで、またオンラインで皆さんとご一緒できることを嬉しく思います。私達はこの前、イエス様が時により、語られるより際立って沈黙を選ばれる場合について考えるメッセージシリーズを終えました。今日からは、前回と似ているように思われるかもしれませんが、 神様が話されたことがないこと。 という別の題目のメッセージをシリーズとして始めたいと思います。

 私の希望は、教会生活をしている中で皆さんや私も多分聞いたり読んだりしたことがあるけれど実際には聖書が教えていない様々な考え方を見ていくことです。

 

そんなに前のことではありませんが、この教会のメンバーとの会話がこの題目を考えるきっかけになって、私は気がついたのです。私達が知っていると思っている聖書由来の多くのことが、実際には聖書にはないということを。

例えば、人の喉の部分の名前で、英語では Adam’s apple (喉仏) ” と言っていることです。また、創世記3章のアダムとエバの話に出てくる果物はリンゴでしたか? いいえ、聖書は一度もそう言っていません。ただ 果物 とだけです。 ヨナの物語はどうでしょう? ヨナは ------ に飲み込まれた。この文章を完成させようとすると、多くの人は、クジラと答えるのではないでしょうか! でも聖書は一言もそう言っていません。巨大な魚がヨナを飲み込んだとあるだけです。

 次はちょっと難しいかもしれません。ヘロデ王の面前で踊った若い女の名前はなんでしょう?

王は彼女に、望むものなんでも与えると申し出て、彼女はバプテスマのヨハネの首が載った皿を要求しそれを得ました。聖書について沢山聞いたことがお有りなら、皆さんの答えは多分、「サロメ」でしょう。でも聖書は彼女の名前を一度も言っていません。(歴史家のヨセフスが後に彼女をサロメと呼びました。)

 

これらは聖書の物語の詳しい情報かもしれません。でもそこには私達が簡単に誤解してしまうような、もっと重要な事があるのです。今回のメッセージのシリーズでは、私達が自分の信仰や日常生活のスタンダードとして受け入れている聖書の物事で実際には聖書が語っていないこと、そこから始めて行きたいのです。このようにすることで、私達がそこから考えを展開させて行き、そのことが実際に何を言っているのかを見て、より理解を伴った状態でキリストがなされる方法により神様を知り、愛し、仕えることができる機会が与えられるよう望みます。

 

最初のよく誤解される教えは、第1コリント1013節のものです。

  あなた方のあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなた方を耐えることのできないような試練に合わせることはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えて下さいます。   “

 

多分、これらの言葉を基本として、多くのクリスチャンは、 神様は、対処できる以上のことを、決してお与えにならない。(困難は、それを乗り越えられる人だけにやってくる。)     という言葉を信じるようになったと思われます。すごく聞こえの良い言葉ですよね?

 神様は私のことをそのようによく知っておられる愛すべきお方です。神様は、私が上手く立ち向かう力を持っていない、そんな困難な状況に私を置かないという訳です。

 

しかし、これには問題点があります。まず最初に、神様は本当はそのように言っておられないということです。第1コリント1013節の約束は、誘惑についてのもので、一般的な困難を通り抜けることについてではないのです。パウロは私達に、天におられる父がいつも私達が正しいことをすることができるようにして下さることを気付かせてくれています。

 

私達は自分勝手に、卑劣に行動し、 仕方のないことだ。 と言うことができません。肝心なのは、 キリストに従う時に、そんなに苦しまないよう期待する。 と言うことではないということです。 それは、 “  何か良くないことをしなければならないと自分に言ってはいけない。(思ってはいけない。) と近いかもしれません。もし神様が皆さんに、それは間違っていると言われるなら、神様はいつも、例えそれがいかに難しい事だとしても、皆さんが正しいことを行う選択肢を与えて下さっているということです。

 

私達の文化は、コマーシャルやその他多くの方法を通して、私達は満足させられなければならない欲求のセットにすぎないと言っているのです。これを食べなければいけない、飲まなければいけない、運転しなければいけない、着なければいけない、このように見えなければならない、そうでなければ幸せになることはできないという具合です。

もし私がこれらが言うことを信じるなら、私は、我が家のペットの亀「うみ」となんら変わらないものになるでしょう。彼女は私があげるご飯の量がどんなに多くても、もうこれ以上食べられなくなるまで良く食べます。もし私が彼女の欲する時にいつでもご飯をあげるなら、きっと太りすぎるまで食べ続けるでしょう。家族は彼女が太りすぎだと思っているので、私に、彼女にご飯をあげすぎないよう常に言っています。私達は「うみ」を愛しています。でも、私が見る限り彼女には道徳観念が全くありません。少なくとも、彼女は実際に役に立つどんな自己制御の兆候も見せていません。彼女の意思は自分の欲望の奴隷です。

 

私達人間も容易にこのような状態になり得ますね。でも、神様は私達がそのように生きるようには望んでおられません。神様は、私達が良い選択をするように、また悪い選択をした時には責任を負えるように私達を励ます信仰の家族を与えて下さっています。神様は、私達が友人関係を築き、神様の教えによって生きることを共に学ぶ時、何時も祈ってくれる小さなグループを与えて下さっています。神様は聖霊を通して私達に道徳観を与えて下さっていて、それは、 こんな状況やこんな人間関係から走って抜け出なさい。歩いてはいけない。そこに止まっていると危険だから。 と警告してくれるのです。

 

1コリント1013節のメッセージはそれらのラインに沿っているものと思われます。

「神様は、対処できる以上のことを、決してお与えにならない。」( 困難は、それを乗り越えられる人だけにやってくる。 という考えはそこに、またキリストを信じ従う者について書かれた聖書の物語の中に現れてきません。例えば、イエス様が天の御国へ戻られた後で、イエス様を信じ従う者は監獄に入れられ、彼らの国の指導者から強く反対され、鞭打たれ、処刑される危険な状態でありました。しかし使徒の働き541節では、”  そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。 とあって、大変な困難の中にあっても、神様の助けによって、それに立ち向かうより大きな強さもあったのです。

 

 ヘブル人への手紙1135節後段〜39節では、対応する準備のないまま、又、神様の助けがないまま困難に耐えることができない状況に直面しなければならない忠実な人々の居心地の悪くなるような例があります。そこには、

  他のものは、更にまさった命によみがえる為に、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。なお他も者たちは、あざけられ、鞭打たれ、縛り上げられ、投獄されるほどの目にあった。あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで斬り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩き回り、無一文になり、悩まされ、苦しめられ、この世は彼らの住む所でなかった、荒野と山の中と岩の穴と土に穴とを、さまよい続けた。さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。  “とあります。

 

キリストを信じ従う者達は直面せざるを得ない多くの困難について驚くほど心配していないように見えます。彼らが困難に耐えるだけの価値の根拠とそして共に悩み苦しまれる救い主を持っているから、進んで受け入れるのです。

 

神様は、対処できる以上のことを、決してお与えにならない。 という教えの別の問題は、私達の主が天国で座っていてただ単に人々に、何時、如何にして災難を送ろうかを決めているという姿を示していることです。ある人々は、神様のことを この人には末期ガンを与えよう、飛行機事故を起こして家族をバラバラにしよう、虐待する父親を用意しよう。 と言うような人だと思っているので神様を信じません。彼らは神様のことを、バハマでハリケーンが人々を壊滅させても構わない、昨年の胆振地区の地震からの復興で人々が苦しんでいても構わない、そのような方だと思っています。

 

神様に対するこのような理解は、神様がいかに深く一人ひとりの人間を気に留めているか、また神様がいかに、苦難や病気そして死を嫌っているかを見えないようにしています。それは神様がどのようにして天国から私達と共に苦しまれるために私達のいるところに来られ、私達の苦しみと困難から私達を引き上げて下さるかという明確な目的をも見えなくしているのです。

 

神様は悪を与え私達を全ての困難の中にとどめて置かれる父ではありません。神様は優しい愛を与え私達の全ての困難に私達を慰めて下さる父です。パウロの言葉をもう一度聞きましょう。

  神と私達の主であるイエスキリストを褒め讃えます。神は優しい愛を与えて下さる父です。全ての慰めは神から来る。神は私達の全ての困難において私達を慰めて下さいます。” (3節〜4節前段)

 私達の困難は、まさに、神様が私達のためのご計画の中で私達が神様と出会い、私達が最も深く神様を知ることができる、そのような場所なのです。この事実に鑑み、私達は困難から逃げない勇気が与えられるよう祈るのです。

 

私は妻の千江子の母が第1コリント1013節について話し、神様が彼女が対処できる以上の困難をお与えにならないということを約束として理解し、励ましを見つけたと語ったことを思い出します。詳しくは思い出すことができませんが、しかし少なくとも私は, “ 神様の助けによって とつけ加えることを望みます。そして  神様は決して神様の助けによって対処できること以上のことを与えられない。 と言い換えたいのです。

とにかく義理の母が膵臓がんを患い次第にその戦いに負け始めていた時の、私は病院で彼女の苦難について話したことを思い出します。彼女は酷い痛みに続けてさいなまれていて、ある時点で もう耐えられない。 と言ったのです。彼女は自分の感じた思いに常に正直でした。そのことは私に、聖書の約束について私達が話したことを思い出させます。そして私は再び、神様がいつも苦痛に満ちた経験から人々を遮断するという誤解に基づいた信念に従うよう人々を勇気付けることはしたくないと思ったのです。

結果として、ミセス山岸は自分ができると思う以上の力で驚くほどの大きな痛みに耐えました。そのような酷い時に於いても彼女の信仰が強い助けだったと私は信じています。でも、その痛みは到底耐えられるようなものとはほど遠いものでした。彼女の信仰が病気との闘いの過程で非常に大きく成長したのだと思います。

 

皆さんの苦痛、労苦又問題は必ずしもいつも扱いやすい(御し易い)ものではないでしょう。しかし神様の恵みと助けによって、それは常に意味のあるものになるのです。 皆さんが困難を克服する為に何ができるかが一番大事なことではなく、それらへの対処の為に神様が皆さんと共に何ができるかなのです。ある牧師が言いましたが、神様は、人が対処できる以上のことを与えられないということではなく、神様は、どのようなことが人に与えられようとも対処できるように人を助けてくれる、という事です。

 

また、私達の労苦や問題は、実際、私達をほかの人達と結びつけることにおいて、私達が成功する(勝利する)以上のことをなします。皆さんは周りの人達が話すことを聞いて、そうではないと思うかもしれません。例えば、インスタグラムや他のソーシャルメディアは、人々がそれぞれの話を公開しそれらは素晴らしいものだとの強い印象を与えています。全てのことが素晴らしくそしてコンスタントにより良くなっているという訳です。教会もそのような誤解された印象を与えることがあります。

しかし真実は、私達全ては苦闘しているのです。全ての人が本当に苦労をしています。私達全ては、自分自身の闘いを戦っています。皆さんは自分自身の闘いの中で一人ではありません。

 

もし誰かが、その人生の道全てに於いて何が来ても大丈夫というほど十分強い信仰を持っているとしたら、それは多分、信仰の巨人パウロのことではないでしょうか? そうですパウロは彼の苦労について次のように言っています。(2コリント189節前段)

 

  兄弟、姉妹たち、私達が小アジアで会った苦しみについて是非知っておいて下さい。私達は非

 常に激しい耐えられないほどの圧迫を受け、死んでしまうとさえ思ったのです。本当に自分の

 心の中では死刑宣告を受けたかのように感じていたのです。

 

皆さんは、このような困難に110までの評価をつけるとしたらどの数字を入れますか?

もし死が最も悪いのなら、パウロは10に近い評価だったと思います。でもパウロは自分の痛みや苦労を隠そうとはしません。彼はコリントの教会のメンバーに対し公に報告しています。それは何故でしょう? 彼は自分の苦労を一番重要な出来事だとは思っていないように見えます。より大事な何かがあるのです、そしてそれはパウロの書簡を読む人々を驚くべき方法で助ける潜在的な力を持っているのです。

  パウロは9節後段から10節で。

  これはもはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせて下さる神により頼む者となるためでした。 神はこれほどの大きな死の危険から私達を救い出して下さいました。また将来も救い出して下さいます。なおも救い出してくださるという望みを、私達はこの神に置いているのです。

 と続けて言っています。

このような方法でパウロは、コリントの教会にいる兄弟姉妹のため信仰の手本を示します。またパウロは彼らを、自分の経験した事に基づいて励ましてもいるのです。パウロの関心は、自分の苦労が自身に教えてきた事が、他のキリストを信じ従う者が困難を状況を通らなければならない時に助けとなる事です。

パウロは、どのようにして神様が、私達のどのような苦しみの時にも、なぐさめて下さる。 (4節前段) と話した後、続けて(4節後段〜7)

  “ こうして私達も、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私達にキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。もし私達が苦しみに会うなら、それはあなた方の慰めと救いのためです。もし私達が慰めをうけるなら、それもあなた方の慰めのためで、その慰めは私達が受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなた方に与えるのです。私達があなた方について抱いている望みは、動くことはありません。なぜなら、あなた方が私達と苦しみと共にしているように、慰めも共にしていることを、私達は知っているからです。

と言っています。

 

私には分からない理由ですが、共有された苦しみは、成功体験でもできないない方法によって人々に一致をもたらします。共有された痛みは、問題が起こることなく達成した成功でもできない方法である種の共同体を作ることができます。パウロはこのことを理解しているし、私達も経験していますよね? 私達の姉妹、簗瀬さんが亡くなったことは、最近の例です。私は、神様が信仰の家族がお互いに、そして神様と密接に結びつくために、私達が耐え続けるような喪失を使われるのを見てきました。

 

もし皆さんが大きな痛み()を被った経験がお有りなら、皆さんは、与えることのできる大きなギフトを持っているのです。私は、皆さんが神様の導きによって、理解を示すことや必要を支えることで助けることのできる誰かを見つけられるように祈ります。

深い信仰を持つクリスチャンの女性で、ダイビング中の事故で両腕、両足を失ったため、両方ともに使えない状態で人生の長い期間を過ごしているジョニ・エリクソン・タダという方がいます。

それでも彼女は心を活動的に発展させ、賜物である絵を描くこと、歌うこと、文章を書くこと、講演すること、これらを使って多くの人々を助けています。そして今、彼女は二度目となる癌と戦っています。彼女は自分の境遇について答えて次のように言っています。

  私はこのこと(経験)を無駄にしたくはありません。また意味のないことにもしたくありません。

   このことで誰かを助けたいのです。

 

今日神様から与えられたメッセージによって私達は何ができるのでしょうか?  私は皆さんに、皆さんの最も深い痛みを確認して、それを主の御手に置くことをお勧めしたいのです。

それが無駄になるようにしないでいただきたい。皆さんが他の誰かを助けるためにそれを使えるよう神様にお願いして下さい。今週、皆さんが傷ついたことと同じ分野の中にいる誰かを助ける機会を探して下さい。皆さんは多分、助けたいと思う人に電話やメールをするように導かれるかもしれません。また、そのような人に、唯そばにいて話を聞いて、理解しようと最善を尽くすという贈り物をするかもしれません。神様が皆さんをどのような方法で導かれても、どうぞ心遣いを示して下さい。皆さんは、皆さんの親切な行動を祝福するために私達の父が使うことのできる創造的で力強い方法を見て驚かれるでしょう。

 

 さぁ今、神様に祈りましょう。

 聖なる父なる神様。私達は、何故あなたの子供である私達が対処の準備ができている以上の困難な状況に直面することをお選びになるのか、時々理解ができません。神様あなたは、私達が安寧と安らぎ、利便と安全を望むことをご存知です。私達がこれらの事を、あなたや他の人々、またはより重要な事以上に愛してしまうことを赦して下さい。

 

主よ、私達の人生に困難が来る時、これを受け入れることができるように助けて下さい。これらの困難をあなたが良い事のために使われると私達は信じていますから、私達はそうなるように祈ります。私達は、 私の困難な時、私はあなたを大声で呼び求め、あなたは私に答えて下さいました。” ( ヨナ書22節前段) と祈った預言者ヨナのようです。ヨナは 私が順調な時に、私はあなたを大声で呼び求め、あなたは私に答えて下さいました。 とは言いませんでした。

神様、私達は、物事がスムーズに行っている時にあなたの助けを求めず、困難がやって来る時は急いであなたに走っていくものであると告白します。ですから、全ての困難から私達を遠ざけず、私達の人生に来るだろう痛み、苦痛をあなた御自身の良い目的のためにお使い下さい。そして私達が、あなたの存在を認め、あなたの目的を見つけ、あなたの力に頼ることができますようにそれをお使い下さい。これらによって、またあなたが選ばれる全てのことにより、私達が直面する困難を通して、私達の人生に、私達の助けを必要とする人達に、あなたの世界の全てに、あなたの御国がもたらされますように。キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

参考

 

Groeschel, C. (February 16, 2015). “More Than You Can Handle.” Life Church.            Retrieved September 8, 2019 from https://www.youtube.com/watch?                               v=muX0qPZIVEc

Ortberg, J. (June 23, 2019). “God Won’t Give You More Than You Can Handle.” I Didn’t         Say That. Menlo Park Presbyterian Church. Retrieved  September 8, 2019 from               https://menlo.church/series/i-didnt-say-that#/modal/message/5288/mlo