霊的なこととの関わり

2019年9月8日主日礼拝<霊的なこととの関わり>

Ⅰペテロ5:7~10 佐々木俊一牧師

■最近、こんなことが言われています。老後を迎えた段階で、一組の夫婦が必要な貯蓄は2000万円だそうです。しかも、夫婦で合わせて最低月20万円の年金が前提です。年金が20万円無ければ、2000万円ではすみません。私たち夫婦の場合、人間的に考えると、まったく望み無しです。こんなことばかりに目を向けていたら、気持ちが沈んでうつになってしまいそうです。しかし、私たちには頼ることのできる真なる神様がいます。神様こそが私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださるお方なのです。私たちは私たちのできることをやって、あとは神様におゆだねします。私たちは神様に望みを置いているので、悩むことなく、心守られて日々を過ごすことができるのです。

 以前、こんなアンケートが新聞に載っていました。世の人々の悩みの種についてです。アンケートの結果、60%以上の人が「自分は悩みやすいタイプ」だと回答し、50%以上の人が「ますます、悩みが増えた」と感じているようです。悩みの種の第1位が「健康」、2位が「仕事・職場」、3位が「資産(退職後のこと・年金、貯蓄等)」、4位が「自分の性格・生き方」、5位が「子育て」、その他に、夫婦仲、介護、住居、借金といった悩みがありました。女性も男性も、あらゆる世代にわたって、頭を抱え、悩み、精神を病む人が増える一方だそうです。

■今日の聖書箇所に、「思い煩い」のことが書かれてありました。悩みも思い煩いといってよいでしょう。心配も行き過ぎると思い煩いになるでしょう。聖書も思い煩わないように忠告しています。けれども、わかっているけど止められないのが、思い煩いです。思い煩いも、心配も、人間だから仕方ありません。しかし、問題なのは、思い煩いがひどくなってしまうことです。思い煩いが長引くと、病的になってしまいます。否定的になり、絶望的になり、生きることがとても辛くなってしまいます。

 以前、私は、心配しなくていいことを心配してしまうような人間でした。先ほどのアンケートで言えば、自分は「悩みやすいタイプ」でした。しかし、イエス様に出会い、真の神様を信じて以来、徐々に、思い悩む性格が変えられていきました。神様から受けた数ある恵みの中の一つです。

 適度な悩みや心配は、私たちに訓練と成長の機会を与えてくれます。けれども、それが行き過ぎると、破壊的な力をもってきます。自分の心が壊れ、日常生活が困難になり、家族やや周囲の人々に負担をかけるようになってしまいます。ですから、過度な思い煩いに陥らないように気をつけなければなりません。

■Ⅰペテロ5:1~6を見ると、そこには、教会における人間模様の一部を垣間見ることができると思います。指導者たちがいて信徒たちがいます。男性もいれば女性もいます。幅広い年齢層の人がいて、信仰歴の長い人もいれば短い人もいます。教会内の人間関係の問題はいつの時代においても変わることがありません。ペテロがこのことについて言及し、アドバイスをしています。思い煩いのいっさいを神にゆだねるように勧めています。この思い煩いの中には当然文脈の流れからして、教会内の人間関係も含まれています。

 そして、Ⅰペテロ5:7~9を見ると、「悪魔」という存在が出てきます。この「悪魔」について頻繁に語る必要はありません。悪いことが起こると何でも「悪魔」と結びつけるのは、一方の極端な考え方です。しかし、また、悪魔は実在しないというのも、もう一方の極端な考え方です。神学の中には悪魔についての分野がありますし、キリスト教教理の中にも悪魔の存在について言及されています。何よりも聖書の中にその存在が明確に書かれてあります。

 8節に、「あなたがたの敵である悪魔がほえたけるししのように食い尽くすべきものを捜し求めながら歩き回っています。」とあります。人間関係の領域は、悪魔が機会を見て何か悪さを企てる領域でもあります。悪魔の目的は多様な仕掛けによって、人間関係を崩して教会の働きを壊すことです。また、あるときは、私たちの信仰を崩し、その果てに私たちの信仰を捨てさせることです。

■エペソ6:12 「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」とあります。パウロもまた、ペテロと同じように、悪魔は架空の存在ではなく、現実に存在して働いているのだと考えていました。たとえば、私たちに人間関係の問題が生じるとき、人と戦っているように思われがちですが、自分も相手も戦いの場となっているのは、感情や思索の領域です。心の中に生じる戦いがあまりにも激しくなってくると、精神を病んだり、人を傷つけたりするほどの破壊的な力が働きます。私たちがこのような状態に陥らないためには、問題の元を認知する必要があります。すべてとは言いませんが、「悪魔」という存在が私たち人間の心にうまく影響を与える方法を知っていることは、聖書によっても認められることです。

 イエス様が十字架に付けられたとき、イエス様はこんなことを言われました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分ではわからないのです。」イエス様が十字架に付けられる過程において、「悪魔」の存在が数箇所であらわにされています。イエス様はご自身を十字架に付けようとする力がどこから来るのかを知っていました。見た目では人々のねたみがイエス様を十字架に付けたのですが、実は人々の罪の中に働いて悪魔がイエス様を十字架に付けたのです。背後で働く悪魔の企てと力を見抜くことができるならば、私たちはあえて悪魔の喜ぶようなことは選ばないでしょう。

■ヤコブ4:7 「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたから逃げ去ります。」このみことばの良い模範を示してくださっているのがイエス様です。

 マタイ4章のところで、悪魔がイエス様に向かって言います。「お前は自分のことを神の子だと思っているようだが、お前は神の子でも何でもない。ただの人間さ。もしも、本当に神の子なら、この石に向かってパンになれと言ってみろ。神の子ならそれぐらいできるだろう。」それに対して、イエス様は、「そうさ。僕は神の子だよ。それぐらいできるさ。石よ、パンになれ!」とは言いませんでした。イエス様は悪魔のことばには従いませんでした。どうしたかと言うと、神のことばである聖書のことばを用いて、悪魔の誘惑を退けました。次に、悪魔はイエス様をエルサレムの神殿の頂に連れて行きました。そして言いました。「お前は自分のことを神の子と思っているようだが、お前は神の子でも何でもないのだ。ただの人間さ。もしも本当に神の子ならこの上から飛び降りたって平気なはずだ。さあ、やって見ろよ。」それに対してイエス様は、「そうさ。僕は神の子だよ。それぐらいできるさ。」と言って、飛び降りるようなことはしませんでした。イエス様は、悪魔のことばには従いませんでした。前回と同様に、神のことばである聖書のことばを用いて悪魔の誘惑を退けました。次に、悪魔は、イエス様を非常に高い山に連れて行きました。そして、この世のすべての国々の栄華を見せました。悪魔は言います。「お前は神の子なんかじゃない。しかし、俺はこの地上においては神なのだよ。この俺をひれ伏して拝むなら、全世界のすべてをお前にあげよう。」それに対し、イエス様は、「うわー、それはすごい!あなたの前にひれ伏して拝みます。ですから全世界の支配者にしてください。」とは言いませんでした。イエス様は前回と同様、聖書のことばを用いました。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。」と宣言しました。すると、悪魔はイエス様から離れ去って行きました。

 「もし~なら」という誘惑は私たちにもあるのです。「もし神がいるなら、何でこんなことが起こるのだろうか。神なんていないよ。」「もし神が私を愛しているのなら、どうして私にこんなことが起こるのか。そんな神は信じない。」「もし本当に自分がクリスチャンなら、こんな罪は犯さないだろう。こんな罪を犯してしまう自分は救われていないのかもしれない。自分は駄目な人間だ。」私たちを神様から引き離そうとする霊的な力が、このようなことばをとおして私たちの思索と感情に戦いを挑んでくるのです。しかし、イエス様が私たちの良き模範です。聖書には何と書いてあるのかを知ることが大切です。そして、そのことばに信頼し、従うのです。

■みなさんは、占いをどのように考えておられるでしょうか。占いもまた、霊的なことです。特に悪いこととは考えておられない方々がいるかもしれません。聖書的には、灰色の領域というよりも、限りなく黒に近い領域であると私は考えています。旧約聖書のⅠサムエル15:21にはこう書かれています。「まことにそむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。」時間が足りないので背景については説明しませんが、英語で「背く」は、「rebellion」です。「rebellion」とはとても強い言葉で、その意味は「反逆」です。神様に反逆することが占いをすることと同等ならば、占いをすることは神様に反逆することだと言うことになりませんか。また、新約聖書の使徒の働き16章で、占いの霊につかれた女にストーカーされたパウロは、イエス・キリストの御名によって占いの霊を追い出しました。占いの霊はその女を通して神様とパウロのことをほめたたえていました。ですが、実際は、パウロの働きを邪魔していたのです。

 霊的な事柄に関しては、注意しなければいけません。占いの霊は神様からのものではなく、悪霊からのものです。少なくとも、占いは罪であるという認識を持つ必要がありますし、もしも占いに関わった時には、神様に対してお赦しくださいと言う気持ちが必要だと私は考えます。牧師という立場上、教会の霊的なことに関しては責任がありますから、今日はこのように言わせていただきました。

 将来への思い煩いや心配が、占いへと駆り立てるのかもしれません。自分の将来は大丈夫なのかどうか誰でも知りたいと思います。でも、考えてみてください。私たちクリスチャンには良くしてくださる神様がついているのです。将来への思い煩いや心配があるなら、私たちはクリスチャンは神様に祈り、助けを求めましょう。

■Ⅰペテロ5:7「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

 思い煩いも霊的なことです。思い煩いがあるならば、それらをいっさい神様にゆだねるというのが、私たちクリスチャンの対応です。なぜならば、神様が私たちのことを心配してくださるからです。そう書いてありますから、本当に、神様は私たち一人一人のことを心配してくださるのだと信じます。ただ、心配するだけで実際に何もしてくれないのであれば、何の力にもなりません。しかし、神様は実際に、私たちのために働いて力になってくださるのです。

 私たちの思い煩いは、すべて神様にゆだねましょう。しばらくの間、忍耐が必要になるかもしれません。しかし、神様がすべてのことを益として働いてくださり、必ず素晴らしい将来を備えてくださいます。そのことを信じて、私たちの思い煩いを神様から離れる機会にするのではなくて、神様により近づく機会にして行きましょう。それではお祈りします。