自分の役割を知る

2019年8月25日主日礼拝「自分の役割を知る」 

ルカ3章15~20節 佐々木俊一牧師

■来年2020年は東京オリンピックです。前回はリオデジャネイロでした。あれからもう4年が経つのですね。早いものです。

 サッカーでも野球でも、チームで行なうスポーツで思うことですが、現代の若い選手は昔とは違って、ヒーローやヒロインになりたいとはあまり言わなくなったように思います。客観的な目をもって、自分やチームの事を分析します。そして、自分が活躍する以前に、チームの勝利をまず考えます。さらに、勝利に貢献するために、自分の役割は何なのかを知ろうと努めます。その役割を果たすために、自分の長所だけでなく短所や弱点をも直視し、それを克服するための練習メニューに従って練習に励むのです。そのような考え方は、時代の先端で活躍するスポーツ選手に限ったことではありません。オープン・ドア・チャペルのスポーツをやっている高校生からもそのような考え方を聞いたことがあります。一人一人が自分の役割を担うことが勝利につながるということは、今の時代の若いスポーツ選手にとっては常識なのかもしれません。ある意味、大人以上に客観的な物事のとらえ方をしているのです。私が若かった頃は、もちろん、協調性の大切さを教えられてはいましたが、ここまで客観的にとらえることは出来ていなかったように思います。

■今日は、バプテスマのヨハネをとおして、「自分の役割」ということについて考えてみたいと思います。

 バプテスマのヨハネは、系図から言うと、イエス様と親類です。でも、実際には血のつながりはありません。というのは、イエス様は聖霊によってマリヤの胎に宿ったと聖書にあるからです。この地上では、イエス様の父はヨセフであり、母はマリヤです。ヨセフとマリヤの長男として生まれました。ヨセフとマリヤの先祖には、ダビデがおり、ユダがいます。また、マリヤは祭司の働きを担うレビ人やアロンの家系ともつながっています。実際に、マリヤは、ヨハネの母、エリサベツと親戚でした。

■ヨハネはキリスト?

『民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方が、キリストではあるまいか、と考えていたので、』 ルカ3章15節

 人々の中には、「バプテスマのヨハネがキリストだろうか?」と思っていた人たちがいました。そのことに気がついたヨハネは、はっきりと自分はキリストではないことを明言し、他におられると説明しています。

 いつの時代にも、〝この人がキリストかも知れない〟と思わせるような人が出て来ます。そして、本人もそうふるまってしまうケースがあります。しかし、バプテスマのヨハネは、そうではありませんでした。彼は人々がイエス・キリストを信じるために、そのこころを整え、イエス・キリストを紹介する働きを行なっていました。彼は自分の役割をはっきりと認識していたのです。

 自分の役割を知るということは、とても重要なことです。ヨハネは自分の役割を知り、それを担う中で、神の栄光を現わしてゆきました。そんなヨハネの姿勢は、私たちにとって良き模範です。

■へりくだった心

 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火のバプテスマをお授けになります。また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」 ルカ3章16~17節

 ヨハネは、本当にへりくだった人で、人々の関心が自分にではなく、イエス様に向くようにしていました。彼のへりくだった心は、ヨハネ3章にも見ることができます。ヨハネ3:26~30でヨハネの弟子が、「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。みなあの方のほうへ行きます。」と告げています。それに対しヨハネは、「人は天から与えられるのでなければ何も受けることはできません。あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。花嫁を迎えるのは花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びに満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」と答えています。

 自分より用いられている人が周りにいるとしたら、ねたみの心が生じるというのが罪人の弱さかも知れません。ヨハネの弟子たちにはねたみの心が生じたのですが、ヨハネはそうではありませんでした。彼は神が自分に与えた役割(ミッション)をはっきり心得ていたので、人々の関心が自分ではなくてイエス様の方に向いて行くことを受け入れることができたのだと思います。クリスチャンにとって、このようなへりくだった心はとても大切なことです。自分に人々の関心を向けさせることが私たちの目的ではありません。イエス様の方に関心を向けさせることが私たちのしなければならないことなのです。

■私が教会に行き始めたころ、牧師や宣教師、教会の人々が私を受け入れ、親切で優しくしてくれました。本当に楽しい時を過ごさせてもらいました。ところが、1年たって、新しい人々が教会にやって来ると、私はそれまでとは違った状態に身を置くことになりました。私はもはや客ではなく、指導者の関心の中心にはいませんでした。指導者の関心は、新しい人々にありました。そして、私は、教会の雑用や教会学校で忙しく奉仕する側になっていました。そのとき、私のうちには、葛藤と満たされない思いが生じていました。私はまだまだ指導者たちの関心の中心にいて認められたいという気持ちがあったのだと思います。その後、さまざまな所を通る中で、自分の罪や醜さや弱さに気づかされました。それと共に、神様のありのままを受け入れてくれるふところの深さ、愛と赦しを知る機会となりました。それにより、父なる神様との関わりが以前より強いものになっていきました。人にではなく、神様に求めるように訓練され、聖書のことばが力となって働き、慰めや平安や導きを受けるようになりました。神様は目に見えないお方ですが、確かに私の心の中で働いてくださり、少しずつではありますが、人としてもクリスチャンとしても建て上げられていったように思います。神様が私に与えてくださっている役割は何かということを考えるようになったのは、それからのことです。

■私たち一人一人が、神様にとってはユニークな存在です。私たちは、神様に愛されています。私たちは、神様に受け入れられています。私たちは、神様に認められています。たとえ、私たちが弱さゆえに罪をおかしてしまったとしても、また失敗してしまったとしても、神様の私たちへの気持は変わることがありません。その代価はイエス様がすべて支払ってくださっているからです。

 私たちは、神様に愛されるために、受け入れられるために、認めてもらうために何かをしなければいけないと思う必要はありません。私たちは良い行ないをしたので、神様に愛され、受け入れられ、認められているのではないからです。それは、すべてイエス様が備えてくださった救いの恵みによることなのです。イエス様に本当にそのことを感謝したいと思います。

 神様にとって、一人としていなくていい人などはいません。また、いかなる人にも神様が与えておられる役割(ミッション)があると思います。人の目には到底役割として思えないことであっても、神様にとってはその人に与えた役割であることがあります。人それぞれにそれぞれの役割があるのです。

■8月末、私たちの愛する博子姉が天に召されました。ここ1ヵ月、博子姉のことを思ってふり返ることがあります。博子姉は安くて高価な物、あるいは、安くて高価に見える物を見つけ出すのがとてもうまかったことを思い出します。それを博子姉が身に着けると、またすごくゴージャスに見えるのがとても不思議でした。というよりも、おしゃれのセンスがあったのだと思います。彼女はそれを楽しんでいたと思います。

 また、別の側面では、博子姉はいくつかの病を持っていました。人には言えない戦いがあったかと思います。生活が大変だったと思います。でも、博子姉は基本的にいつも明るく、前向きの人でした。神様から来る希望と力の方がまさっていたのだと思います。自分の境遇を悲観することは、博子姉の生き様にはありませんでした。神様を喜び、神様に期待していた博子姉でした。もちろん、彼女は完全な人ではありませんが、しかし、そのような彼女の信仰の姿勢に、確かに、神様の愛と信仰の力が映し出されていたと思います。

 神様が博子姉に与えた役割について考えてみました。その中でも、礼拝の最後の頌栄の歌を賛美する時に、マイクをもってリードしてくれました。彼女は、喜んで、そして、自分に与えられた役割として、いつも奉仕にのぞんでくれました。8年くらいその奉仕を続けておられたかと思います。実は、私が礼拝賛美の責任を持っていた時に、女性のボーカルがいませんでした。何人かの方に声をかけてみました。そして、応じてくれたのが博子姉だけでした。博子姉は、声も通るし音程もしっかりしていたのでお願いしました。けれども、博子姉の答えは、何曲も覚えるのは難しいので、最後の歌だけだったらやりますというものでした。私はすべての曲を一緒にやってほしかったのですが、結局、最後の歌だけやってもらう事になりました。感謝なことに、博子姉の奉仕はとても安定していました。どんなときにも、意欲的に忠実に奉仕してくれました。彼女にとって、うまいとかへたとかはまったく問題ではありませんでした。彼女の歌は人に聞かせる歌ではなくて、評価を求める歌ではなくて、ただ神様にささげる歌だったのです。そこが彼女の強みだと思いました。それによって、私たちは祝福されました。私たちの思いは主の方に向けられて、ともに主の御名をほめたたえることができました。まだまだ、博子姉の担ってくれた役割についてお話したいことがあるのですが、時間の関係上、これくらいにしておきましょう。

■常に自分の役割は何かということを考えて行ってくださいと言っているのではありません。自分の役割やその領域について考えることは、互いの役割を尊重し合うことにもなります。そういった意味で、自分の役割について考えることはとても有意義なことだと思います。

 また、家庭でも、教会でも、職場でも、社会においては、それらを良い状態で維持していくためにも、そこにある目標や目的を実現するためにも、お互いに役割を担う必要があります。

 ここは教会です。この教会は、ここにおられるみなさんお一人お一人からなっています。教会は神様を礼拝するところです。ですから、みなさんがこの教会に来て礼拝をささげるだけで、役割を担っていると言うことができます。また、教会は神様の救いを発信するところです。また、教会はお互いに愛をもって仕え合うところです。そのために、自分の役割は何かと考える時、一番すぐにわかるのが、自分の得意分野を活かすことです。さらには、この教会の状況や様子や必要にも気にかけていただけたらと思います。その中で自分の役割を見つけることができると思います。教会にはいろいろな役割があって、それらが働くことによって一つの教会として動いています。

 どんな役割を行なうにも大切なことがあります。今日は、そのことをバプテスマのヨハネをとおして学ぶことができたと思います。ヨハネは自分ではなく、イエス・キリストに人々の心が向くように行動しました。そして、彼は、神が与えた役割の領域を超えるようなことはしませんでした。それは、ヨハネのへりくだった心を表しています。

 聖書の中に、へりくだった心をもって神様の働きを成し遂げた多くの人々を見ることができます。今日の箇所に出て来たバプテスマのヨハネもそのひとりです。私たちは、私たち自身にではなく、イエス様の方に人々の心が向くように、私たちは語り、行動したいと思います。イエス様を人々に紹介することは私たちの大切な役割です。報われないことが多いですが、しかし、神様はその事を見ていて必ず報いてくださいます。ですから、へりくだった心をもって忠実にその役割を担っていきたいと思います。それではお祈りします。