いつも心強いのです!

2019年8月11日召天者記念礼拝「いつも心強いのです!」

Ⅱコリント5:1~8 佐々木俊一牧師

■7月21日の日曜礼拝を最後に、簗瀬博子さんにお会いすることはありませんでした。今でも信じられないくらいに、あまりにも突然の出来事でした。7月25日(木)に田村さんが電話でお話ししました。7月25日(木)から26日(金)の間にかけて、簗瀬博子さんは天に召されたと思われます。簗瀬博子さんがこんなにも早くこの世を去って行くとは、7月21日の段階で私も思っていなかったし、誰も思っていなかったのではないでしょうか。

 みなさん、「死」について考えたことがあるかと思います。「死」について、少しだけではありますが、聖書をとおして私たちは知ることができると思います。なぜ人は生まれて、そして、死ななければならないのか、死んだら人はどうなるのか、その答えをすべてではありませんが、その一部を私たちは知らされています。その一部とは神様がよしとされたとても重要な部分であり、私たちに希望を与えてくれるものでもあります。死は私たちに恐れや悲しみを与えるものですが、聖書をとおしてその恐れや悲しみは軽くされました。私たちにとって死は、けっして絶望でも失望でもありません。新しい始まりであり、希望があるのです。

 イエス様は「死」という暗闇の中に、光を灯してくださいました。その光のおかげで、「死」はもはや恐いことではないということがわかってきました。もちろん、恐怖心がすべて取り除かれるわけではありません。未体験のことは、誰にとっても怖くて不安なものです。けれども、私たちにはそのような不安や恐れから助けてくれる聖霊が共におられることが聖書に書かれています。今日の聖書箇所である、Ⅱコリント5:1~8もそのような箇所の一つです。見ると、イエス・キリストを信じる者の内には助け主なる聖霊がおられることがわかるかと思います。

■1節~4節 幕屋とはテントのようなものです。幕屋とは本格的な家ではなくて、一時的な住まいとなる仮の粗末な家です。そして、地上の幕屋とは、この肉体、体のことです。体が私たちの住まいであると言うことは、私たちの実体は体ではなくて他にあると言うことです。それは、霊です。スピリットです。肉体は私たちが一時的に宿るところであり、その肉体がこわれたとしても、神様はもっと良いものを私たちのために用意しておられるのです。それは、私たちにとって永遠のもので、天にあります。

 この地上にある私たちの体も神様の作品であって素晴らしいものです。でも、若い時はいいのですが、年を重ねるといろいろと気になるところが出て来ます。また、病気や事故などで体に不具合が生じたり、痛みが生じたりすることもあります。2節にあるように、私たちはこの体、地上の幕屋のゆえにうめき苦しまなければならない時があるのです。また、その機能を保つために食べたり飲んだり運動したり服を着たり病院に行ったり、いろいろなことをしなければなりません。そのためにお金もかかるし、そのお金を稼ぐために働かなければなりません。そして、ついに、それはいつか朽ち果ててしまうのです。

 しかし、天に神様が私たちのために用意しておられる住まいは朽ちることがありません。どんなに素晴らしい服や装飾品を身に着けるよりも、天の住まいを着たいと思うほどに、天の住まいは何にも増して素晴らしいものなのです。

■5節 ここに、「御霊」と出てきます。仏教の御霊とは異なります。仏教で言う御霊は、死んだ人の霊です。聖書にある御霊は人の霊ではありません。人の霊は、ただの霊です。御霊とは、聖霊のことです。しかしながら、ギリシャ語では、聖霊も人の霊も同じ言葉で表されています。それは、「プニューマ」と言う言葉です。「息」とか「風」という意味があります。プニューマが、聖霊を意味していることもあれば、人の霊を意味していることもあります。どちらなのかについては、その前後の言葉から判断しているのです。

 5節の後半に、「その保証として御霊をくださいました。」とあります。何のための保証でしょうか。このことにかなう者となるための保証です。このこととは何でしょうか。天からの住まいを着ること、そして、そのための保証です。血肉のからだがあり、御霊のからだもある。つまり、地上には地上の体があり、天には天の体があると、Ⅰコリント15:40~44に書かれています。私たちの体は聖霊の宮(神殿)であると聖書は言います。イエス・キリストを信じる者の内には聖霊なる神様が住んでおられるからです。御霊は救いの保証です。それが聖書の言っていることです。私たちの霊と共に御霊がいつも寄り添ってくださっているのです。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。

■私たちの救い主である主イェス・キリストは私たちの罪のために十字架にかかって死なれました。それからよみに下って死の力を打ち破り三日目に復活しました。その後40日の間弟子たちの前に何度も現れては神の御国のことを教えました。そして、エルサレムにあるオリーブ山からこの地上に再び戻って来ることを約束して天に戻って行かれました。その後、ペンテコステの時に聖霊が下られました。聖霊は何のために下られたのでしょうか。ヨハネ16:7で、イエス様はご自身がこの地上を去った後に助け主である聖霊を遣わす、あるいは、送ると約束しています。ですから、聖霊は何のためにこの地上に下られたのかという質問は、聖霊は何のためにこの地上に遣わされたのかという質問に言い方を変えてもよいでしょう。聖霊がこの地上に遣わされた目的は何でしょうか。

 創世記24章を見てみたいと思います。急に関係のない話のような展開になってしまいますが、そうではありません。とても関係のある話です。

 アブラハムは年を重ねて140歳くらいの高齢になっていました。アブラハムは自分の年齢を考えて大事なことは最も信頼のおける最年長のしもべに伝えていたようです。それは、たぶん、創世記15章に出てくるエリエゼルと言う名前のしもべです。エリエゼルとは、「神は助け主」と言う意味です。アブラハムは、エリエゼルにイサクの嫁探しのために指示を与えました。一つ目に、カナン人の娘たちから嫁を迎えてはならないと言うことです。二つ目に、アブラハムの故郷に行って嫁探しをするということです。3つ目に、エリエゼルと一緒にイサクをアブラハムの故郷に連れて言ってはならないと言うことです。この三つの指示のもと、アブラハムはイサクの嫁を探すためにアブラハムの故郷カランにエリエゼルを遣わしました。そして、そこでエリエゼルはアブラハムの兄弟ナホルの娘リベカに出会いました。エリエゼルは、リベカが神の導くイサクの嫁であると確信しました。そして、リベカもイサクの嫁になることを快く受け入れました。こうして、エリエゼルはリベカを連れてアブラハムとイサクのいるカナンの地に戻ってきました。

 旧約聖書は新約聖書の影であるとへブル書に書かれています。つまり、旧約聖書の人物や出来事の中に新約聖書に書かれている真理が表されているのです。24章に書かれていたイサクの嫁探しの出来事の中で、アブラハムは父なる神を表し、イサクは子なるキリストを表しています。そして、エリエゼル、その意味は「神は助け主」、彼は聖霊を表しています。それでは、リベカは誰を表していると思いますか。教会です。教会はキリストの花嫁と言われています。また、それはイエス・キリストを信じる私たち一人一人のことでもあります。ついでに、新約聖書にある「助け主」はギリシャ語で「パラクレトス」、意味は「そばにいて助ける者」です。

 聖霊にはいろいろな役割があります。その中でも、聖霊の役割、聖霊がこの地上に天の父とキリストのもとから遣わされた目的は、何でしょうか。キリストの花嫁を探すことです。イエス・キリストを救い主として信じる者を見つけるために地上に下られたのです。聖霊の第一の役割、第一の目的は、キリストの花嫁を探すことです。そして、見つけたら、これはキリストのものという印を付けるのです。それは聖霊ご自身がそこに住むことです。そして、聖霊は、そこで、その人をキリストの花嫁として整えます。そして、ついにその人が地上を去るときに、天の父とキリストのいるところまで連れて行くことです。

 花嫁と言ってもこれはあくまでも比喩です。男も女も本当にイエス様のお嫁さんになるわけではありません。聖書では結婚は非常に強い契約関係を意味します。切っても切れない非常に効力の強い血の契約と言われるものです。これは、どんなことがあってもイエス様はあなたのことを見捨てたりはしないと言うことを意味しています。イエス様と私たちとの関係はそれほど強い結びつきなのです。それほどまでにイエス様は私たちの事を愛しておられるのだと言うことです。そのことを信じますか。

■ある宗教では、念仏を唱えると極楽に行けるとか、高額な戒名でより安心して死後の世界に行けるとか、そのような話を聞きます。けれども、念仏を唱えても、戒名に多額のお金を費やしても、神様のおられるところには行けません。聖霊が連れて行ってくれるのですから。

 私たちがこの地上を去るとき、私たちは一人で去って行くのではありません。人は一人で生まれ、一人で死んでいく孤独な生き物のように言われます。でも、それは違います。私たちは、けっして、一人ではありません。聖霊がそばにいて、私たちを導き、助けてくれるのです。私たちをイエス様のもとに連れて行くのが聖霊の大きな役割です。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。

■簗瀬博子さんの最期を私はわかりません。けれども、わかることは、簗瀬博子さんはけっして一人ぼっちではなかったということです。この地上を去るときには、聖霊がともにいて、簗瀬博子さんを励まし、慰め、助け、主イエス・キリストのもとへと導かれたのです。簗瀬博子さんは今、パラダイスにいます。そして、いつの日か、復活のからだをいただいて互いに喜び合う日を迎えるのです。私たちはそのような信仰に立って生きています。そういうわけで、私たちは心強いのです。

■イエス・キリストは死の力を打ち破り、復活しました。イエス・キリストは死者の中から生き返られたのです。そして、それを信じる私たちも同じように復活します。イエス・キリストは、信じる者には永遠のいのちを与え、その一人一人を終わりの日によみがえらせてくださると約束してくださっています(ヨハネ6:39)。

 私たちの復活の希望は根拠のない希望ではありません。イエス・キリストの復活は、旧約聖書を土台にして、そこに書かれていることがイエス・キリスの誕生以降に実現し、その証人たちの証言と聖霊の導きによって新約聖書が書かれました。イエス・キリストの十字架と復活も、聖霊がこの地上に遣わされたことも、旧約聖書の預言の成就なのです。私たちの希望は、このように旧約聖書と新約聖書と言う十分に信頼に足る神の啓示によって支えられているのです。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。それではお祈りします。