時期が来て、刈り取る!

2019年7月28日(日)主日礼拝 

「時期が来て、刈り取る!」ガラテヤ6:9 佐々木俊一牧師

■7月になると、北海道産の野菜や果物も店頭にたくさん並ぶようになりました。収穫というのは、農業を営む人々にとっては今までやってきたことが報われる大きな喜びの時です。収穫するまでに時間と労力とお金と愛情を注いで、大収穫を願って一生懸命頑張ってきました。

以前、アパルームに書かれていました。そのところから、イチゴの苗のお話を火曜日の祈祷会で分かち合ってくれたのを今も覚えています。その時は、イチゴの苗のお話をとおして神様の働きについて話してくれました。

 ある春の日、畑で作業をしていると植えた覚えのないイチゴの苗が土の上から生え出ているのに気がつきました。その苗がどこから来たのか不思議に思ったそうです。しかし、ふと思い出しました。そういえば、一年前に土の入った鉢にイチゴの種が植えてあるキットをいくつか買ったのでした。けれども、うまく育たなかったので、がっかりして、結局庭の隅に全部捨ててしまったのです。それから1年後、イチゴの苗がそこに花を咲かせていました。

 こんなことが、私たちの人生にも、また、私たちの教会にも、起こりそうな出来事だと思います。

■パウロは、ガラテヤ人への手紙6章9節のところで、「失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります」と言っています。種を撒けば、その種は芽を出し、成長し、花を咲かせ、実を結んで刈り取りの時を迎えます。

 聖書には、種まきや収穫の話がよく出てきます。イエス様も種まきの例え話をよく用いました。マタイ13章に出てくる「種まきの例え話」は有名な話です。ここでは「種」は、神様のことばです。そして、「畑」とは、人の心です。悪い地に落ちた種は、実を結ぶことがありません。しかし、良い地に落ちた種は、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍の実を結んだとあります。

■ガラテヤ6章9節で「種をまく」とは何を意味するでしょうか。「善を行なうのに飽いてはいけません。」とありますから、「善を行なう」ということでしょう。それでは、「善」ということについて考えてみましょう。善とはどういうことでしょうか。簡単に言うと、「良い行い、良いことをすること」です。良い行いについて3つの観点から考えてみたいと思います。

 一つ目は、正しいことです。法律的に正しいことも含まれますし、道徳的に正しいことも含まれます。法律ではとがめられなくても、道徳的には正しくないこともあるでしょう。また、世の中の基準では正しいとされても、聖書的には正しくないこともあるでしょう。

 パウロは正しいことを行なうように勧めています。そこで注意したいことは、神様のみ前に正しい者として認められるために、正しい行いをするのではないということです。クリスチャンが正しい者として神様に認められたのは、ただただ、イエス様が十字架で私たちの罪に代わって死んでくださったからなのだということを覚えておかなければなりません。正しい行いは、正しい者として認められた者にふさわしいことなのです。神のみ国においては、人々は正しいことしかしません。しかし、地上においては、罪人であるゆえにどんなに頑張っても私たちの行いは不完全です。時には正しくないことをやってしまう者なのです。

 2つ目は、愛するということです。神様はご自身の創造物を愛しています。とりわけ、私たち人間のことを、ご自身を犠牲にするほどに愛しています。そして、聖書は言います。神様を愛するように、自分自身を愛するように、自分自身を愛するように自分以外の人々を愛するように。愛について語るならば、あまりにも深くて大きなテーマなので簡単には説明できません。ですが、愛するということを、わかりやすい言葉に言い換えるとことができると思います。愛するとは、大切にすること、尊重すること、親切にすること、寛容であること、赦すこと、誠実であること、平和を保つこと、喜ぶこと、感謝すること。他にもまだまだあると思います。神様はすべての人に向かって、愛するように言っています。ですから、互いに愛し合うということが大事です。

 けれども、私たちは、そのように歩みたいと願っていても、あるいは、そのように歩んでいる中においても、何で自分だけがここまでやらなければならないのだろうかと思ったり、やってもやっても結果が出ないし何も変わらないし、自分のやっていることが無駄に思えて馬鹿らしくなってしまったり、自分だけが一生懸命やって損をしているように思えたり、正当な評価が得られないので腹立たしくなったりしたことはないでしょうか。私はそのようなことがありました。しかし、それでも、パウロは、失望せずに善を行い続けるように勧めています。

 3つ目は、イエス様のことを信じること、そして、イエス様のことを伝えることです。これもなかなかすぐには結果に結びつかない働きです。私たちにとって、忍耐が求められます。

 私がイエス様を信じた後、まだ20代前半の頃のことですが、信仰も教会も止めようと思ったことが何度かありました。次から次へとやってくる、いろいろな出来事に対応しきれるほどの信仰がありませんでした。このような時というのは、信仰の危機の時ですが、また同時に、信仰が立て上げられる時でもあります。幸いにも私は、信仰も教会も捨てないで、何とか続けてやって行く方を選びました。今私は62歳ですが、イエス様を信じ続けて本当に良かったなあと思います。若い頃は、いつまでも生きているかのように思えるものですが、62歳にもなるとそのようなわけにはいきません。体のあちこちに故障が出てくるし、先が見えてくるのです。しかし、聖書には、死んで終わりでないことが明確に語られています。クリスチャンにとって、永遠の命と神のみ国を相続するということは明確な希望なのです。

 私たち教会はこの希望を、世界に出て行って人々に知らせる使命をイエス様から引き継いでいます。どうしたらより多くの人々にこの希望をお知らせすることができるだろうかと、私も日々祈り、そして、考えています。しかし、停滞した厳しい現状が続いています。

 トルコという国を、みなさん、ご存知かと思います。トルコ人のほとんどはイスラム教です。しかし、少なくともAD100年頃には、教会もクリスチャンもたくさん存在していました。でも、現在は、ゼロに等しいのです。トルコには教会の遺跡がたくさんあります。しかし、クリスチャンはほとんどいません。どこに行ってしまったのでしょうか。信仰を守るために、安全な場所へ移動しまったのでしょうか。または、イスラム教に改宗させられてしまったのでしょうか。

 日本のキリスト教の状況について少しお話したいと思います。リバイバルが何十年もの間、叫ばれてきました。しかし、実情は、リバイバルでなくてサバイバルです。どうのようにして生き残るかが課題になっています。年々、クリスチャン人口は減少しています。日本のキリスト教会のほとんどが高齢化しています。教会に来る若い人々が減っています。このままでは、日本からクリスチャンもキリスト教会もいつか消えてしまうかもしれません。

■オープン・ドア・チャペルでは、現在に至るまで、もっとたくさんの新しい方々との出会いの場を作るために、少し違った新しい取り組みをやってきました。みなさんの賜物や能力、専門分野や得意分野の力を借りて、新しい方々との出会いの場を作ることができれば素晴らしいことだと思って導かれた企画もありました。きっと、神様がこの計画を用いてくださるに違いないと思いました。近所の人々も関心を持ってくださって、自治会の回覧板で回してくださるほどに、手ごたえがありました。これはきっとたくさん人が集まるぞ、と期待感がこみ上げてきました。ふたを開けてみるとどうだったでしょうか。残念ですが、私たちが期待したほどには新しい方々の参加はありませんでした。もちろん、みなさんの協力があって、みなさんの友人や知人の方々の参加があったことには心から感謝しています。

 私は残念に思う気持ちの中で、それじゃいったい何をすればよいのだろうか、と神様に日々祈るばかりでした。そんなある日、神様はグッドニュースを私たちに与えてくれたのです。今までたんたんと続けてきたイースターやクリスマスのイベントに参加されていた方々の中から何名かの方々が信仰を告白し、バプテスマを受ける決心をされました。

 私は新しい方々を何とかして教会に来てもらうために、何か新しいことを始めなければいけないと思ってきました。けれども、神様は以前から続けてこられた働きを用いて下さり、バプテスマへと導かれました。私の期待しないところで、私があきらめかけていたところで、神様は働いてくださり、実を結ばせてくださったのです。先ほどのイチゴの苗のお話に似ていると思います。

■以前、北海道バプテスト連合の一つの働きとして、数年前まで東日本大震災で被災された方々のための支援を行なってきました。オープン・ドア・チャペルもこの活動に協力していました。みなさんからの支援金やお米支援などが被災者の方々への大きな助けと励ましになったはずです。

 私はこの東日本大震災の被災者支援が教会教勢にどのような影響を与えているのか興味があったので、日本バプテスト連盟から送られて来る教勢報告に注目してきました。しかし、ほとんど変わっていませんでした。被災者支援が教勢に影響を与えている兆しは見られませんでした。

 助けを必要としている人がいるならば、誰に対しても、差別することなく、区別することなく支援の手を差し延べることが神様の御心だと思います。ですから、私たちはこれからも自然災害で被災された方々を喜んで支援をしていきたいと思います。しかし、支援をきっかけに、もしも、真の神様を見出し、その愛に気づかされる人々がいるのなら、これほど、私たちにとって嬉しいことはありません。一人の魂が救われる時、天においては大きな喜びが起こるということが聖書に書かれています。一人の人が真の神様に出会うことは、神様にとって、この上もない大きな喜びなのです。

■ガラテヤ6:9 「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」

聖書の約束に目を向けたいと思います。聖書の約束は、種をまけば、時期が来て、その実を刈り取る時が来ると言うことです。あきらめないで、善を行ない続けるならば、いつか必ず報われる時が来るのです。

 私がオープン・ドア・チャペルに来たのは2008年4月の事です。あれから、約11年の歳月が過ぎました。私が確信をもって言えることは、あきらめないで神に求め続け、神につながり続け、教会につながり続け、種をまき続けるならば、蒔いた種のいくつかは必ず芽を出し、成長し、花を咲かせ、実を結ぶということです。私たちは種を蒔いたらすぐに実を結ぶことを求めがちですが、実際は実を結ぶまでは時間がかかりますし、忍耐が必要なのです。私はいろいろな困難な状況の中で、それぞれの人がかかえる苦労やストレスを少しではありますが知る機会がありました。しかし、あきらめなそうになってもあきらめないで、神に求め続け、神につながり続け、教会につながり続け、種を蒔き続けてきた方々は、その中でその方自身も、その方の信仰も、経済や仕事も建て上げられてきたのを見させていただきました。神様の導きに従ってください。あきらめないでそれをやり続けてください。そしたら、時間はかかりますが、必ず時期が来て、その実を刈り取る時が来ます。あなたの忍耐と努力は、必ず報われます。

 福音の種も蒔き続けていきましょう。神様は働いておられないようでも、働いておられます。実を結ぶその時は、神様にゆだねなければなりません。私たちにとって確かなことは、種を蒔き続けるなら、いつか必ず刈り取る時が来るのだということです。これは神の約束です。そのことを信じて、あきらめないで、福音の種をまき続けて行きたいと思います。それではお祈りします。