主にあって喜ぶわけ

2019年6月23日主日礼拝「主にあって喜ぶわけ」ピリピ4:4佐々木俊一牧師

■このところでパウロは、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と言っています。「主にあって喜ぶこと」が私たちにとって非常に重要なことであるようです。パウロは「もう一度言います」と言って、再び、「「喜びなさい。」と繰り返しているからです。「いつも主にあって喜びなさい」というメッセージは、私たちにとって、繰り返し必要なメッセージです。

 随分前に「獄中からの讃美」、「賛美の力」という本を読んだことがあります。賛美や感謝をとおして神様が豊かに働かれることについて書かれた本です。その中で著者は、「神様は私たちの事を心配してくださっている。困難が許されたとしても、しばしの間の事で、必ず、解決の道を用意してくださっている。だから、神様に祈り、賛美し、感謝し、喜びましょう。」と言っています。これはとても聖書的なことであると思います。私たちが特に理由はないのだけれども、なぜか気持ちがふさいでいる時、賛美をしたらそんな気持ちがなくなって喜びが湧いてきた、というような経験はないでしょうか。賛美を通して、神様が私たちの心に働きかけてくださっているからです。

 使徒の働き16章に、パウロの体験が書かれています。ピリピでイエス・キリストの福音を宣べ伝えていたパウロとシラスが、そのことのために捕らえられてしまいました。身動きできないように足かせを付けられて牢獄に閉じ込められてしまいました。その真夜中に、二人は神様に祈りつつ賛美の歌を歌っていました。すると、獄舎の土台が揺れ動き、牢屋のとびらが全部あいて、囚人たちを縛り付けていた鎖も全部解けてしまいました。このような出来事の中で、人々の救いが起こり、そこには大きな喜びがありました。さらにその後、パウロとシラスは逃げ出すことをしないで、釈放されました。とても不思議な出来事です。この不思議な出来事は、パウロとシラスが困難な状況の中で、神様に祈りつつ賛美したことがきっかけでした。このように、困難な中にあっても、前向きの姿勢で神様に向かうとき、神様はすばらしいことをなしてくださるということは、旧約聖書や新約聖書を見ると、他にもたくさん見つけることができます。みなさんの中にもそのようなことを体験された方がいるのではないでしょうか。

■困難の中で、神様に祈り、感謝し、賛美をささげることはとてもよいことです。そのことをとおして、神様が私たちの内にも外にも働いてくださり、私たちの信仰を強めてくださって、私たちの思いを失望から守ってくださいます。しかし、私たちが困難な中で神様に感謝し、賛美をささげることは、時には、とても難しいことがあります。私はクリスチャンとして40年近く生きて来ましたが、こんなことがありました。

 今から20年以上も前になりますが、私が東ヨーロッパ方面への宣教旅行に参加したその帰りに、ロンドンのヒースロー空港のロビーで突然倒れて床の上をのたうち回ってしまいました。後でわかったことですが、尿路結石でした。救急車で病院に担ぎ込まれました。他のメンバーが日本にいる私の妻に連絡してくれました。妻は、もしかしたら夫はもう日本に戻れないのではないかと心配したそうです。妻は教会の人たちに電話してお祈りをお願いしました。その中の一人の女性が妻のところにわざわざやって来てくれました。そして、心配そうにしている妻に向かって、「何を心配しているのか、それでも牧師の妻か、信仰に立って、感謝して、賛美して、喜んでいないと駄目じゃないか。」と大変厳しいことばを言われたそうです。妻はかえってそのことばで落ち込んでしまいました。

 これには、感謝すること、賛美すること、喜ぶことについての教えに対する誤解と極端な解釈があると思います。困難な中で、人が心配したり、不安になったり、喜びがなくなったりするのは当たり前の事です。けれども、そんな時に神様に心を向けて祈るなら、私たちの心配や不安は軽減されることは確かなことです。それは、信仰を通して神様が働いてくださっているからです。また、感謝や賛美を通して実際的にも神様のすばらしいみわざを見ることがあります。しかし、それは方法論ではありません。あくまでも、神様との関わりの中で現されることなのです。

また、困難な中でも神様に感謝し、賛美をささげ、神様を喜ぶということがクリスチャンを評価するための基準のように用いられるとしたら、それは恵みではなく、姿を変えた律法(きまり)になってしまいます。一時期、私自身もそのような考えに立っていたことがありました。たとえば、困難な時に感謝できないクリスチャン、喜べないクリスチャンはだめなクリスチャン、クリスチャンはどんなときにも感謝し喜んでいなければならない、それが信仰に生きるクリスチャンのあるべき姿であるなどと考えていたことがあったのです。

 しかし、今はそのようには思っていません。困難な中で完璧な平安でいられない自分、完全にゆだねきれない自分、多少なりとも心配している自分、そんなありのままの自分を認めて受け入れるようにしています。人から駄目なクリスチャンとか駄目な牧師と評価されるなら、それはそれで仕方ありません。事実なのですから。

イエス様は、「心配してはいけません。」とか、「恐れてはいけません。」とは言われました。けれども、「心配する人は駄目な人」とか、「恐れる人は駄目な人」とは言いませんでした。イエス様はありのままの私たちを受け入れてくれます。イエス様は、人は心配したり、恐れたり、怒ったりする者であり、そんな弱さがある者であることを気付かせてくれます。ですが、それであなたは駄目な人間だとは言っていません。だからこそ、私たちにはイエス様が必要なのであると言うことを気付かせてくれているのです。私たちは立派なクリスチャンとして評価されることを目指しているわけではありません。もしも、その立派さが評価されたとしたら、それもまた神様の恵みです。すべての栄光は神様に帰しましょう。そして、神様をあがめましょう。

 聖書を読んだり、祈りを通して、私たちが主のことばにふれる時、励まされたり、慰められたり、勇気を与えられたり、大丈夫だという安心感をいただいたりします。そのプロセスを通って感謝や賛美や喜びに導かれるなら、それは本当に素晴らしいことです。自分の力で無理やり感謝したり賛美したりすることとは違うのです。もちろん、落ち込みやすい人が、何か大変なことがあった時、何が何でもまず心を主に向けて感謝し賛美すると言うことが、落ち込むことから救ってくれると言うこともあります。それはそれで、神様が働いてくださっているのだと思います。

大事なことは、どんなときにも喜べるクリスチャンになるぞーっていう「ガマン大会」で優勝することではありません。大事なことは、困難が許されたときに神様に頼り、神様を働きを体験し、神様の素晴らしさをもっと知ることです。それによって、私たちの信仰がますます強められ、主を喜び、主に感謝し、主をあがめるようになることが大事なことです。

■ピリピ4:2~4を読むと、パウロがどのような状況の中で「いつも主にあって喜びなさい。」と言ったのかを伺うことができます。ユウオデヤとスントケが何かの理由で関係がうまくいっていなかったようです。ふたりともに女性です。名前が出てくるくらいですから、初代教会の時からクリスチャンは女性も活躍していたようです。

 みんな神様の事に熱心に思っているのにうまくいかないということが、聖書の中にも見ることができます。たとえば、パウロとマルコ、パウロとバルナバ、パウロとペテロ、3つともパウロが関わっています。新約聖書の27巻のうち13巻はパウロが書いています。新約聖書はパウロ抜きでは考えられません。そのパウロが結構人とぶつかっていたのです。そして、そのパウロが、「いつも主にあって喜びなさい。」と書いているのは面白いと思いませんか。

■ピリピ3:1を見てみましょう。ここでも、「いつも主にあって喜びなさい。」と言っています。その理由は何でしょう。「主にあって喜ぶことがあなたがたの安全のためにもなることです。」とあります。どのように教会の安全のためになるのでしょう。

 どんなものでも、どんなことでも、築き上げるには労力と時間がかかります。でも、壊すのは簡単です。あっという間の出来事です。「主にあって喜びなさい。」と言っているパウロも、失敗したからこそ、こう言えたのではないでしょうか。神の働きのために熱心であるがゆえに他の人と考えが異なったり、ぶつかったりするということはありえることです。たとえそのようなことがあったとしても、教会において牧師も信徒もみなが率直に互いに言い合える、話し合える関係があるならば、それは本当に感謝なことです。たとえ考え方の違いがあったとしても、「主にあって喜ぶ」ことを共に大切にし、第一にしていくならば、教会は安全に保たれるのです。教会とは建物ではなく、神様が集めたお一人お一人のことです。そして、教会はますます強められて神様の働きを進めて行くことになります。

ネヘミヤ8:10を見てみましょう。「主を喜ぶことはあなたがたの力であるからだ(別訳)。」と書かれています。教会から「主にあって喜ぶこと/主を喜ぶこと」がなくなってしまったら、その教会は力を失っていつか壊れてしまいます。主を喜ぶ教会には主の力があるのです。

■終わりに、主にあって喜ぶことがどういうことなのかについてお話しして終わりたいと思います。

 ところで、みなさん、バナナはお好きでしょうか。私は果物全般が好きなので、バナナもよく食べます。私が小学生の頃は、バナナは、りんごやみかんよりもずっと高価な果物でした。ですから、遠足とか運動会の時ぐらいしか食べることができませんでした。バナナを食べる時は大喜びだったのを覚えています。今はどうでしょう。バナナは珍しい果物ではなくなりました。容易に手に入ります。バナナは好きですが、あまりにも普通の事になってしまうと、自分でも喜んでいるのかどうかさえわからなくなってしまうものです。けれども、随分前になりますが、バナナダイエットが流行った時に、買い物に行くとバナナが全部売り切れていることがよくありました。そんな時に、最後の一房を見つけた時、とてもうれしかったのです。バナナを買って喜んだのは久しぶりの事でした。やはり、私はバナナを愛していたのだと思いました。

 「主にある喜び」も似たところがあると思います。バプテスマを受けた時にはみなさん大きな喜びがあったことと思います。でも、時間がたつにつれて、それが普通の事になっていくうちに、自分が救いを喜んでいるのかどうかわからなくなってしまうようなことはありませんでしたか。

 しかし、もしも、こんなことが起こったとしたらどうでしょうか。共に集まって礼拝することも、祈ることも、聖書を読むことも、賛美することも、明日から禁止されてしまったとしたらどうするでしょうか。もう二度と集まって礼拝をすることができないのです。いままでは普通にやっていたことができなくなるのです。私たちはそれに対してどう思うでしょうか。もう礼拝に行かなくてもよくなった、自由になった、感謝だと思うでしょうか。そうではないと思います。今まで行こうと思えばいつでも行けたのに、それができなくなるとわかった時、共に集まって礼拝することの大切さを知ることになるでしょう。礼拝に行けないことが、悲しくて寂しいことだと思うでしょう。この時になって初めて、実は礼拝に行くことをとても愛していたんだなあ、と言うことに気づかされるのです。

 私たちが主を喜ぶ理由は、イエス・キリストの十字架の救いです。そこにある約束であり希望です。私たちはいつもそこに戻り、そこに立たなければなりません。イエス・キリストが私の罪のために代わって十字架に死んでくださいました。しかし、3日目によみがえられました。そのことを信じる者は、罪赦され、神の子とされ、永遠のいのちを受けて、イエス様が復活したように私も復活して神の御国にいつまでも住むのです、と言う希望です。

 若い時はその喜びがあまりわからないかもしれません。年齢を重ねてくると少しずつ実感がわいてきます。そして、必ず、良かった、と感謝する時が来るのです。イエス・キリストは、永遠のいのちの確実な保証です。それではお祈りします。