エネルギーの向かう方向

テーマ「エネルギーの向かう方向」/中心聖書箇所:ルカによる福音書9:24

「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」

■みことばについて

 聖書のみことばって時に不思議なことを言っているなと思うことがあります。この世の常識から反れていたり、自分の考えと全く違っていたり、まさかそんなことってあるの?みたいなことだったり、今日のみことばも私たちの頭の理屈からは考えられないようなちょっと訳の分からないことを言っている感じのするところです。でも、聖書のみことばは真理ですから、いろいろな体験を通して、ああ、このみことばが言っていることは本当だったとか、まさにこの通りだった!とか告白できるようにされていく、主に真実求めて主と共に歩むなら、みことばが開かれていく、そんな体験を私たちはしていきます。また主は私たちの造り主ですから、私たちをどのように扱えば良いのか、私たちがどのようにすれば真の幸いが得られるのか、鍵となることをご存知です。聖書のことを人間の取り扱い説明書だと言っておられる方もいます。

 今日のこのみことばは4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)すべてに出て来るみことばです。それぞれに少しずつ言い回しは違うところがありますが、伝えたいことはひとつでしょう。ヨハネでは「自分のいのちを愛する者、この世でそのいのちを憎む者」となっており、マタイでは「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失ったものは、それを自分のものとします。」となっており、マルコでは「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」となっています。

 まず、「いのち」ということが今日の話題の中心になっているのが分かります。実は「いのち」と日本語では訳されているところは、新約聖書が書かれたギリシャ語ではふたつあり、「ゾーエー」と「プシュケー」です。それが日本語では両方とも「いのち」という訳になっています。今読んでいただいた聖書箇所に出て来る「いのち」は「プシュケー」で肉体的な限りあるいのちをいうようです。一方で「ゾーエー」ということばは根源的、霊的いのちを指しているようです。いろいろな説があるようですが、ゾーエーの場合は「永遠の」ということばが付いていることが多いところから考え、この説が正しいと思われます。ですから、今日のみことばの「いのち」は、永遠の霊的いのちのことを言っているのではなく、この世で与えられているいのち、また生きること、心や魂のことを指していると捉えることができます。

■私の霊的な母

 2か月ほど前、私を救いに導いてくださった私にとって霊の母ともいうべき方が天に召されました。92歳でした。アメリカ人宣教師でハリエット・アン・ジョンソンというお名前です。29歳の時に来日され、おそらく75歳くらいまで日本の福音宣教のために働かれました。生涯のすべてと言ってよいかなと思います。その45,6年の日本での働きの中のほとんどを私の母教会での牧会に捧げられたのでした。私の母教会は鈴鹿教会という名称なのですが、そこで救われた方たちやそこで信仰生活を共にされた方たちは少なからずジョンソン先生のお世話になっており、それぞれが大きな感謝を胸の内にもっています。アリソン先生ご家族が10年ほど前にアメリカに行かれた際、あちらで会われたということを聞きびっくりしました。(写真)日本での働きをやめられてから母国アメリカに帰られて、退職宣教師のための老人施設で人生の最期の時を過ごされました。しかしそこの施設においても、神様に仕えるという情熱はなくならず、所属教会の聖書の学びを導いたり、奏楽をされたり、弱っている方たちや入院されている方々を見舞ったり、またご自分がおられる施設の理事をされたりとできることはなんでもしようという姿勢で毎日を暮らしておられたようでした。

 ところで、私には長年解らない聖書のみことばがありました。ヨハネ4:34「イエスは彼らに言われた。『わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることがわたしの食物です。』」というところです。これはどういう意味なのだろうとずっと思っていました。でもある日、ジョンソン先生のことを考えたら納得するものがあったのです。イエス様もそうでしたが、ジョンソン先生はいつも主のみこころということを考えておられました。自分の考えや自分の計画ではなく、主が何を望んでおられるか、主のみ思いは何だろう、主のみ思いを行いたい、主の御業に参加したいと。そしてそれを行うことが何にもまして先生の最上の喜びだったのです。主のみこころを行なうことが生きる喜び、糧だったのです。それが先生を生かしていたと言えるでしょう。

■私のふたりの肉の母 

 ここで少し話を変えますが、院内学校で教えていた時に毎朝朝会があり、教師が代わる代わる5分程度の講話をしなければなりませんでした。私は火曜日の担当だったように覚えていますが、毎週何を話せばよいのだろうと頭をひねりました。そして、あるときこんな話をしました。「私にはふたりの母親がいます。自分を産んでくれた母と主人の母です。ふたりとももう80代ですが、ふたりを見ていて感心させられることがあります。それはいつも自分にできることはしてあげようという姿勢をもっていることなのです。実際私の母は寝たきりのご主人を介護しておられる友だちに度々食事を作ってあげたり、近所に住む女学校時代の恩師の様子を見に行ったり、食事を届けたりしていて(その方は90代までひとり暮らしをしておられたのですが、)ピンチを2回ほど助けたことがあるのです。また主人の母は、娘婿のお母さん(認知症だったのですが、)をご家族が留守のときに預かってあげたり、周りの人に役立つことをいろいろとしてあげたりしていました。そういうところがふたりの偉いなーと思うところです。みなさんも○○さんはわたしに何もしてくれないとか、もう少しこうしてくれたらいいのにとか言うのではなく、わたしがしてあげようという姿勢で暮らせるといいですよね。」とこういう話をしました。

 ふたりは今90代です。主人の母は高齢者施設にいますが、そこでも相変わらず周りの方のお世話をしています!それが喜びなのです。私の母は認知症ですが、この間私の兄が、していた仕事を退職することになったのを知って、「私は何をしてやればいいのだろう?私には何ができるのだろう。」と言ったのには驚きました。思わず、「ほんとに認知症なの?」「そんな人のことを心配できる認知症なんてあるの?」「認知症のふりしてるだけじゃないの?」とまあ半分冗談なのですが、言ってしまいました。

■エネルギーの向かう方向

 どの方にも生きるエネルギーというものがあります。ただ、そのエネルギーがどこを向いているのかが今日の主題です。私のふたりの母たちは外に向かっているのがよく分かります。もしもふたりのエネルギーが自分の方をむいているなら、何かしてあげようではなく、自分に対して何かしてほしい、私に何かしてちょうだいとなります。そして、だれも何もしてくれない、私はだれからも愛されていない、私を認めてちょうだい、となるわけです。自分自分自分。自分の考え、自分の思い、自分のやり方、自分の計画、自分のプライド。自己愛の強い自己中心的な生き方になります。自分のいのちを救う生き方ってこういう生き方を指しているのでしょう。そうしてこういう生き方をしていると、どんどん自分自身にこだわり、自分に縛られていきます。

 ジョンソン先生はどうでしょう?エネルギーが完全に主の方に向いていました。先生は生涯独身でした。「自分のためにいのちを救おう」とは考えずに、「主のために自分のいのちを失うこと」を最上の喜びと考えておられました。でも結果的にそのことを通して「ご自分のいのちを救われた」のでした。先生は自分のいのちを失うどころか実に生き生きと自分のいのちを生きられた方でした。いつも主の方を向いておられたので、自分から解放されていたのです。

 主のために自分のいのちを失うことは自分のいのちを救うことになるのです。実に不思議な真理です!!なぜだかわかりません!

 でも主のために自分のいのちを失う生き方ってなにか自己犠牲と服従の道のように聞こえる方もおられるでしょう。そしてマルコのように「わたしと福音とのためにいのちを失う」なんて言われると、どんな厳しい道を私は通っていかなくてはならないのだろう、すぐにでも伝道しなくては、証しなくては!って考えてしまいますよね?わあ大変って。しかし神様が一番願っておられることは何でしょう?「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。」(ルカ10:27)そして、「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。」(ルカ10:42)すなわち「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」(ルカ10:39)これじゃないですか?

 主のみ元に来てみことばに聞き入って生きる生き方、日々主に礼拝と賛美を捧げる生き方、日々主と共に生きる生き方、自分を見ないで主を見る生き方、自分ではなく主を中心にして生きる生き方、主を愛する生き方こそ自分のエネルギーの方向を主に向けて生きる生き方だと思います。クリスチャンの成長の中で、自分に向いていた矢印を主の方に向けて行く、この変換が大切です!そして、この生き方を選ぶときに自分自身からも解放され、真に心からの平安と喜びに満たされて自分のいのちを生き生きと生きることができると今日のみことばは語っています。