義人は主を待ち望む!

2019年4月28日(日)主日礼拝 「義人は主を待ち望む!」

ヘブル10:35~11:1 佐々木俊一牧師

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

■大きな報いをもたらす十字架のことば(35節)

 神は、人の形となってこの地上に来られました。それが、救い主イエス・キリストです。イエス・キリストをとおして、私たちは神様がどのようなお方かを知り、どんなに私たちのことを愛しておられるのかを知ることができます。イエス・キリストは、悪魔の手の中に落ちてしまった人間の運命を180度変えるために、十字架にかかって死に、罪の代価を支払い、悪魔から人間を買い戻したのです。イエス・キリストは、死んで三日目によみがえられました。悪魔が支配する死の力を打ち砕き、死から永遠のいのちへの希望を示してくれたのです。イエス・キリストの十字架のことばを信じる者は、神の子とされ、完全に正しい者と認められ、完全に正しい者が受けることのできる祝福、神の栄誉を受けることができるのです。

 これを聞いて、多くの人々が、なんと幼稚でばかばかしい話だろうかと思うかもしれません。しかし、この幼稚で愚かに思える十字架のことばは、将来、信じる者に大きな報いをもたらすと聖書は言っています。神様は、十字架のことばの愚かさをとおして、小さな子供からお年寄りまで、信じる者を救おうと定められたのです。

■恐れ退く必要はない!(39節)

 イエス・キリストを信じて救われた者の立場は、神のこどもです。神様は私たちの父であり、私たちはそのこどもです。神様と救われた者の間には平和があります。その関係は愛と信頼によってつながっています。ですから、私たちはいつでも神様と親密な関わり方ができるのです。もしも、目の前に神様が現れたとしても、私たちは恐れ退いたり、びくびくしたりしなくてよいのです。

 私のような人間は神様に受け入れられないとか、こんなことをやってしまった私は、神様に赦してもらえないとか、そんな悩みは必要ありません。すべてはイエス・キリストによって片付いたことなのです。ですから、私たちは、イエス様に感謝し、イエス様をあがめるのです。神様と私たちとの間には、父と子の親しい関係があります。私たちは、神様によって愛されている存在なのです。それはすべてイエス・キリストによるのです。

 父なる神様は私たちにとって、けっして怖い存在ではありません。先ほど言ったように、人としてこの地上に来られたイエス様をとおして、父なる神様がどんなお方か、どんなに私たちの事を愛しておられるのかを知ることができるのです。

■義人は信仰によって生きる!(38節)

 イエス・キリストによって与えられた立場を保つために必要なことは、信仰です。イエス様が成してくださったことに頼りきって歩むのです。しかし、だからと言って、その立場の上にあぐらをかくようなことをしてはいけません。古い自分の性質にまかせて、「自由だから、好き放題罪を犯そう。」というのは思い違いだと聖書は言っています。神様と私たちとの間に愛と信頼の関係があるのならば、与えられた自由を私たちは神様の喜ばれるように用いたいと思います。

 みなさん、放蕩息子の話は知っていますか。せっかく神の子としての立場が与えられていながら、放蕩に走ってしまうという事例は実際によくあることです。そんな時、神様の心の痛みは、放蕩息子の父親の気持ちを考えるとよくわかります。神様は、そのような場合であっても、向きを変えて再び自分のところに戻って来るならば、いつでも受け入れる用意ができています。ですから、放蕩息子にとって必要なことは、信仰なのです。信仰があれば、また、神様のところに戻ることは可能なのです。

 これから話すことは放蕩息子の話とはまた別のことです。過去の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じたことは、私たちの真実の思いです。そして、古い自分に死んで、新しい自分に生きたいと願うのも、私たちの真実の願いです。ところが、私たちの願いとは反対に、良いと思うことができなかったり、やってはいけないと思っていることをやってしまったりすることがあります。そのような時は、本当に惨めな思いになります。でも、いつまでもそんな惨めな思いの中に居続けてはいけません。イエス様によって与えられた立場を感謝して、神様に罪を告白して、前に向かって歩み出すことが大切です。イエス・キリストを信じる者は、信仰によって生きるように導かれています。

■バプテスマについて

 私はイエス様を信じて本当に良かったと思います。イエス様を信じて、イエス様について行く歩みの中で、私は多くの恵みを体験しました。たとえば、性格が明るくなりましたし、あまり思い悩むことがなくなりましたし、嫌なことは早く忘れるようになりました。いいことまでも忘れてしまうことがあるので、困ることがあります。

 私がバプテスマを受けたのは22歳の4月のことでした。4月15日(日)、ちょうど、イースターの日でした。水にお湯を混ぜたのですが、それでもまだ、冷たかったのを覚えています。バプテスマは、私にとって、何か良いことが始まるのだと思える体験でした。新しい始まりを私はとてもうれしく思いました。

 今日からバプテスマの学びが始まります。バプテスマの中心的な意味は、イエス・キリストの十字架と復活です。私たちにとって、水の中に沈むことは死を意味します。古い自分はイエス・キリストと共に十字架にかかって死にました。そして、水の中から出ることは新しい命に生まれ変わったことを意味します。新しい命は全く正しい者としての命です。バプテスマは、これらのことを象徴する儀式なのです。

 Ⅰペテロ3:20~21を見ると、バプテスマについて書かれています。

「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」

 ノアの箱舟のことが語られています。詳しくは、創世記6章と7章をご覧になってください。ペテロは、ノアの箱舟の話は、救いとバプテスマを予め示した型なのだと言っています。みなさん、『船』という漢字を知っているでしょう。『舟』の右側には、『八』と『口』があります。八つの口、つまり、8人の人を意味します。ノアの箱舟に乗ったのは、ノアと3人の息子とそれぞれの妻の合計8人です。この『船』という漢字は聖書の影響を受けていると思われます。

 ここで、バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではないと言っています。つまり、罪の性質は残ったままであるということです。私がバプテスマを受けたとき、聖書の理解が不十分だったので、バプテスマを受けたなら、もう罪は犯さなくなるものと思っていました。悪い思いや不純な思い、妬みや憎しみなどの不快な感情から自由になれると思っていました。しかし、その期待は裏切られ、自分の救いに疑いを持つようになったのを覚えています。

 バプテスマは、肉体の汚れ、つまり、罪を取り除くものではありません。確かに、イエス様を信じてすぐに、あるいは、バプテスマを受けた後、罪の思いや悪い習慣から解放されたという人々の証を聞くことがあります。でも、それは、人それぞれです。劇的に変化する人もいれば、徐々に変えられていく人もいます。

 「バプテスマは、正しい良心の神へ誓いである。」と書かれています。それは、自分の罪を認めた上で、「イエス・キリストが私の罪のために十字架で死んでくださり、そして、三日目によみがえられたことを信じます。」という告白であり、「イエス・キリストをとおして、神様に従います」という神への誓い(約束)を表しているのです。

■約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐!(36節)

 約束のものとは何でしょうか。永遠の命であり、神の御国を相続することです。神の御国には神様がいて、イエス様がいます。そして、イエス・キリストを信じて救われた者たちがいます。み使いたちもいるでしょう。神の御国についての記述はそんなに多くはありません。しかし、与えられている神の御国についての情報を、私たちは信仰によってどんなに素晴らしいところであるかを知っています。救われた者たちは、永遠に神の御国に住むのです。神の御国に住むことは大きな報いです。

 ここで言う報いは、行いによるものではありません。信仰によるものです。ですから、私たちは確信、つまり、信仰を捨ててはならないのです。36節に、「神のみこころを行って」とありますが、これは行いによる救いを意味しているのではありません。救いは、あくまでも良い行いによるのではなくて、イエス・キリストを信じる信仰によるものです。ですから、「神のみこころを行って」とは、信仰を捨てないで、イエス・キリストを救い主として信じ続けることです。

 十字架のことば、つまり、イエス・キリストを自分の救い主として信じることは大きな報いをもたらします。それを手に入れるために必要なのは、忍耐です。でも、私たちは、『忍耐』はあまり好きではありません。キリスト教はご利益宗教ではありませんが、ご利益宗教に負けないほどの祝福があることも事実です。そのような証をもったクリスチャンはたくさんいます。しかし、困難も許されます。困難の中では忍耐が試されます。詩篇34:19に、このように書かれています。「正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。」『正しい者』の解釈は複数あってよいと思いますが、『主にあって正しい者』、『クリスチャン』と考えるのも一つの解釈です。ある英語の聖書によると、『悩みは多い』は、『多くのトラブルを被る』となっています。実際、クリスチャンであるゆえにトラブルにあうことがあります。しかし、神はそのすべてから救い出してくださると言うのです。心強い約束です。また、詩篇32:10に、「悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。」とあります。英語の聖書では、『心の痛みが多い』は、『被る』になっています。結局のところ、困難にあうのは、良い者も悪い者も、神様を信じていてもいなくても、同じだということではないでしょうか。ただ、違うのは、神様に信頼する者は、神様が守って、救い出してくださるということです。神様は私たちにできない忍耐を求めてはいません。神様は私たちの限界を知っています。困難の中にあるときは、神様の助けを信じて待ち望みましょう。

■義人は信仰によって生きるのです。初代教会のクリスチャンにとって、信仰を捨てさせる誘惑の第一は迫害です。迫害の中、彼らは主が再び来られるのを待ち望みました。しかし、主はその時来られませんでした。そんな中、偽りの福音や、偽りの預言者や、偽りのキリストが彼らの前に現れて誘惑しました。ある者たちは、本物の福音を捨てて偽りの福音へと行ってしまいました。しかし、ある者たちは最後まで、まだ見ていない神の備える大きな報いを信じて、主を待ち続けました。義人は主を待ち望むのです。主を待ち望む信仰によって生きるのです。信仰は目に見えないものを確信させるものです。私たちもそうありたいと思います。それではお祈りします。