十字架の向こう側にある神の計画

2019年4月14日主日礼拝「十字架の向こう側にある神の計画」ヨハネ12:23~27 

佐々木俊一牧師

■今日は、「棕櫚の主日」あるいは「棕櫚の日曜日」と言われています。聖書で棕櫚と言ったら、ナツメヤシのことです。ナツメヤシのドライフルーツはとても美味しいです。イエス様はこの日にエルサレムに入場しました。十字架に架けられ、死んで三日目に復活するちょうど1週間前の日曜日の出来事です。その時のことがヨハネ12章に書かれています。

 イエス様はエルサレムに入場する前日、安息日である土曜日に、エルサレム郊外のベタニヤという町に住むラザロとマルタとマリヤの3人兄弟姉妹の家に滞在していました。最後の安息日をそこで過ごされたのです。この日は過越しの祭りの6日前と言うことです。過越しの祭りは15日に始まります。数えてみると、この時の15日は金曜日です。イエス様は10日の日曜日にエルサレムに入場されました。その様子がヨハネ12:12から書かれています。

 過越しの祭りのために、たくさんの人がエルサレムに集まっていました。海外からもたくさんのユダヤ人が戻って来ていました。また、イエス様を殺そうと企てていた宗教指導者たちも群衆の中にいました。イエス様の周りにはイエス様をイスラエルの王として歓迎する多くの人々が集まっていました。ロバの子に乗って入場されるイエス様の前にはナツメヤシの大きな葉が敷かれました。まるで、レッドカーペットのように。

 ゼカリヤ書9:9にこう書かれています。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いをたまわり、柔和で、ロバに乗られる。雌ロバの子の子ロバに。」

バビロン捕囚の時代、イスラエルから王がいなくなってしまった時代に、預言者ゼカリヤを通して語られた預言です。シオンの娘とは、イスラエルのことです。イスラエルのエルサレムに、王なるお方がやって来る。その方は、子ロバに乗ってやって来る。馬に乗って来るのではなくて、子ロバに乗って来るのです。それは、謙遜で柔和なお方を意味しています。

ゼカリヤ書9:9に書かれていることが実際に起こっている時に、弟子たちはそのことが預言の成就であることに気づきませんでした。しかし、イエス様が十字架に架けられ死んで復活された後に、この出来事がゼカリヤ書9:9に書かれてあることの成就であると言うことがわかったようです。ヨハネ12:16にそのように書かれています。旧約聖書の中には、イエス・キリストの死や復活のことについて表している箇所が他にもたくさんあります。その中の一つを見てみましょう。

■出エジプト記12章 過越しの祭りの由来について書かれています。過越しの祭りがどのようなものか見てみましょう。

 イスラエルの民がどうしてエジプトに住むようになったのか、その経緯について話したら時間が足りなくなるので省きます。イスラエルの民がエジプトに住み着いてから400年以上が経過しました。初めの頃は、エジプトの王様はイスラエルの民に良くしてくれました。けれども、後の時代になると、いつの間にかイスラエルの民は奴隷としてこき使われるようになっていました。神様は苦しんでいるイスラエルの民をその状態から救い出すために、モーセという一人の人を選んでイスラエルの指導者として立てました。そして、約束の地であるカナンへ向けて脱出の準備を始めたのです。しかし、エジプトの王はその計画を拒み続けました。なぜなら、エジプトから奴隷がいなくなったら労働者がいなくなってしまうからです。神様はイスラエルの民を救い出すために最後の手段に出ました。それが、出エジプト記12章に書かれていることです。

 12章には神様の指示が書かれています。①エジプトから脱出するその月を年の最初の月にすること。②最初の月の10日に、1頭の子羊か子ヤギを用意すること。③子羊にしても子ヤギにしても傷があってはならず、最上のものを用意すること。④14日までその子羊(子ヤギ)のことをよく見張ってお世話をすること(もしも、傷があったりしたら、別のと取り換えなければならない)。⑤14日の夕暮れにその子羊(子ヤギ)をほふって、その血をとって家の入口の門とかもいに塗ること。⑥その肉を火で焼いて食べること(食べる頃にはすでに次の日15日になっている、太陰暦なので夕方6時で日付が変わる)。朝までに何一つ残してはいけない、残った場合はすべて火で焼き尽くすこと。⑦骨は折ってはならない、などです。

 この子羊(子ヤギ)は何を表していると思いますか。十字架に架けられて殺されたイエス・キリストです。その夜中、入口が子羊の血で塗られていない家々では大変なことが起こっていました。人も家畜も一番目に生まれた子どもが死んでしまったのです。とても恐ろしい話です。そして、入り口が小羊の血で塗られていたイスラエルの家々では、人も家畜もみんな無事でした。神様の裁きが、血の塗られていない家々だけを襲ったのです。しかし、血の塗られていたイスラエルの家々は過ぎ越して行ったのです。この出来事を後の世代に伝えるために、過越しの祭りが行われるようになりました。現在もそれは続いています。この時の救いのしるしは、子羊の血でした。

 イエス・キリストは、私たちの罪の代償を支払うために、私たちに代わって十字架で死んでくれました。私たちの罪の代償は、イエス・キリストご自身のいのちであり、血です。イエス・キリストが私たちの罪の代償を支払ってくれたのです。そして、そのことを信じる者にはそのしるしとして聖霊が与えられます。聖霊が内に住む人は、神様の裁きが過ぎ越して行く、つまり、裁かれることはないのです。

■23節 「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」とあります。イエス様が人類の罪を負って十字架にかかって神の裁きを代わりに受けるその時が来たと言うことです。神の正しさゆえに、神の律法を曲げることはできません。神の裁きは必ず行われなければならないのです。しかし、その裁きから逃れる道を神様は備えてくださいました。それがイエス・キリストです。イエス・キリストが罪のゆえに裁かれなければならない人々を救い出すために自らをその代価とされました。十字架の上で、イエス様の体は釘打たれ、刺し通され、血が流されたのです。そのことによって、イエス・キリストを救い主として信じた者は、門柱とかもいに子羊の血が塗られたイスラエル人の家々のようです。神の裁きは信じた人々を過ぎ越して行ったのです。

■24節 「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」

 作物の種は、その種自体が栄養となって次の世代が生まれて来ます。種自体は死んで、次の新しい世代が生まれ育つのです。そして、一つの種からその何十倍、何百倍という実を結ぶのです。イエス様は、罪人たちが新しく生まれ変わるために、そして、永遠のいのちを受けて神の御国に行けるように、地の上に落ちて死んだ一粒の種のようになりました。イエス様の死によって、多くの魂が救われました。つまり、実を豊かに結ぶことができたのです。

■イザヤ書53:10~12 「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」

 イエス様はご自身の体を人類の罪のためのいけにえとし、死ぬことによって、そこから新しく生まれる多くの子孫を見ることができたのです。イエス様はご自身の死によって、悪魔に捕えられていた人々を解放へと導いてくださったのです。そして、今もなお、私たちのためにとりなしの祈りをしてくれているのです。

■27節 イエス様は完全に神であり、完全に人であるお方です。この肉体がある限り、十字架刑による苦痛は耐えがたいことのはずです。神様だから、それくらい平気だろうということではありません。イエス様は言っています。「今私の心は騒いでいる。何と言おうか。父よ。この時からわたしをお救いくださいと言おうか、いや、このためにこそ、わたしは、この時に至ったのです。」イエス様にとって十字架刑は恐ろしい事であったのです。できることならこの恐ろしいことから逃れたいという気持ちと戦っていたのです。しかし、イエス様は神様の御心を選び、従いました。そして、ご自身に与えられた使命を全うしました。イエス様は十字架の苦しみの向こう側に確かなものを見ていたのでしょう。イエス様は何を見ていたのでしょうか。神のことばによってイエス様は、十字架の苦しみの向こう側に、神の勝利があることを見ていたのだと思います。神のことばによってイエス様は、十字架の苦しみの向こう側に、悪魔に捕えられていた多くの人々を救い出し、神の御国に導き入れた時の喜びを見ていたのだと思います。神のことばによってイエス様は、十字架の苦しみの向こう側に、ご自身が創造し、愛した人間を再び取り戻した時の喜びを見ていたのだと思います。イエス様は十字架の苦しみの向こう側にこれらのことを見て、十字架の苦しみへと進んで行ったのです。イエス様は一粒の種として地に落ちました。そして、死にました。しかし、その結果、実を豊かに結ぶことができました。

■私たちの命はイエス様によって買い戻された命です。私たちの命は誰のものですか。イエス様のものです。そうだとしたら、私たちの命は誰のために使うべきですか。イエス様のためです。

 私たちに許される理不尽な苦しみや困難があります。その苦しみや困難は私たち与えられた十字架、私たちが通らなければならない十字架であると言えます。主のために、あえてその十字架を受けてください。そして、その十字架の苦しみの向こう側には、必ず神様の勝利を見ることを信じましょう。私たちは、その十字架の苦しみの向こう側に、必ず実を豊かに結ぶのを見るのです。

 また、私たちは、自分を犠牲にしなければならないような時があります。そのような時は、地に落ちて死んだ一粒の麦のことを思い出してください。その犠牲の向こう側に、神様が必ず、実を豊かに結ばせてくださる計画があることを覚えましょう。私たちはいろいろな場面で自分を犠牲にしなければならないことに遭遇します。それを損なことと思わないでください。それは、神様の栄光を見る機会であると信じましょう。そして、喜んでイエス様に従い続けて行きましょう。それではお祈りします。