神の恵みの中、どう生きるか

2019年3月24日主日礼拝「神の恵みの中、どう生きるか」コロサイ1:6 佐々木俊一牧師

「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」

(コロサイ1:6)             

■この聖書箇所は2018年度の聖句として私が選んだものです。教会標語としては、「神の恵みを本当に理解する!」でした。コロサイ1:6にあるように、神の恵みを本当に理解した時以来、その福音が勢いをもって世界中に広がって行ったことが書かれています。今日は、「神の恵みの中、どう生きるか」というタイトルでお話をしたいと思います。

 コロサイという町は、トルコ南西部にありました。現在のパムッカレ(温泉の豊富なところです)という世界遺産のあるところから南へ少しくだったところです。コロサイにあった教会はパウロが行って直接始めた教会ではありません。パウロの同労者であるエパフラスが始めた教会であると言われています。ここは、ピレモンへの手紙のピレモンや、その手紙に出てくるオネシモもいたところです。コロサイ4:13を見ると、そこには、ラオデキヤとヒエラポリスという町の名前が出て来ます。そこも教会のあった町で、コロサイと同様に、パムッカレの近くにあります。トルコにはローマ帝国時代、教会がたくさんありました。その時代の遺跡が至るところにあります。

■ローマ帝国時代、トルコには、ユダヤ人もギリシャ人もたくさん住んでいました。初代教会時代においては、トルコはアルテミスの女神をはじめとして、数多くの偶像があったところです。そのような環境の中にあっても、クリスチャンの数が増えていきました。偶像の影響を受けて生きていた人々にとって、福音はどのように聞こえたのでしょうか。特に、アルテミスの女神は、人々の思い入れが非常に強く、多額の富を産み出すビジネス手段でもありました。ご利益宗教として人々の熱心な信仰の対象であり、その祭りは刺激的な楽しみと満足によって多くの支持を得ていました。

 人は、ある商品について、それが本当に役に立つものであり、必要なものであると納得するならば、どんなに高いお金を払ってでも手に入れようとするでしょう。当時、偶像礼拝が当たり前の世の中で生きていた人々の中から、割合からすると少ないとしても、かなりの多くの人々が福音を聞いて受け入れました。それは、彼らが聞いた福音が、彼らにとって本当に必要なものであると理解したので、受け入れたのです。それでは、私たちは、福音をどのように理解しているのでしょうか。私たちは、福音が本当に必要なものであると納得しているでしょうか。考えてみたいと思います。

■まず、「恵み」とは、どういうものでしょうか。「恵み」とは、受けるに値しない者がただで受けることができるものです。それに対して、「報い」とは、働きや行ないに対して価する分を受けるものです。「祝福」とは、恵みも報いも両方を含むと思います。神の祝福とは、ただで受ける恵みもあれば、神様に従った結果、行ないによって受ける報いもあるのです。 

 たとえば、太陽や水の恩恵は、どんな人でも受けることのできる、言わば、恵みです。しかし、聖書のことばに、「互いに愛し合いなさい。」とありますが、これは、互いに愛し合ってこそ受けることのできる祝福があるのです。愛し合わなければ受けることはできません。神様に従った結果、受けることのできる祝福です。互いに愛し合うことは、とても難しいことだと思いませんか。クリスチャンになったからそんなこと簡単だよと言えればよいのですが、そうではありません。クリスチャンでもクリスチャンでなくても、すべての人間にとって難しいことです。ですから、互いに愛し合うことをとおして受ける結果よりも、互いに愛し合わないことをとおして受ける結果の方が、人間の社会ではよく目につきます。

 あるいは、このようなことも言えます。クリスチャンでもクリスチャンでなくても、神様のことばに従うならば、その結果として祝福を受けるのです。幕末から明治時代にかけて、多くの日本人が聖書のことばに感動しました。感動した人々の中には、クリスチャンになった人もいれば、クリスチャンにならなかった人もいます。しかし、どちらにしても、聖書のことばを良きものとして取り入れた結果、彼ら自身が祝福を受け、そして、日本にも良い影響と祝福をもたらしました。神様は聖書のことばを通して、クリスチャンもノンクリスチャンも用いてくださったのです。

■さらに、恵みと報いについて考えてみたいと思います。聖書のたとえ話の中に、朝から働いた者にも、昼から働いた者にも、夕方から働いた者にも、ブドウ園の主人はみんなに1デナリずつあげたと言う話があります(マタイ20章)。そのことで、朝から働いていた者が主人に文句を言いました。朝からずっと暑い中を我慢して働いてきたのに、涼しくなった夕方から働いた者と同じ1デナリとはいったいどういうことなのか、と抗議しました。彼の訴えは、正しいと思いませんか。けれども、それに対して主人は、朝から働いていた者とは最初から1デナリの約束だったのだから、何も不当なことをしていないと言いました。そして、夕方から働いた者については、働きたい気持ちはあっても誰も雇ってくれなかったという状況や生活のことを配慮してくれたのでしょう。同じように1デナリをあげたいのだと言いました。これは、恵みを表しているのではないでしょうか。

 また、こんなたとえ話もあります(ルカ19章)。ある主人がしもべたちに1ミナずつ与えて旅に出ました。戻って来た主人は留守の間にしもべたちがその1ミナでどんな商売をしたのかを報告させました。あるしもべはその1ミナで10ミナ儲けました。あるしもべはその1ミナで5ミナ儲けました。主人は彼らの忠実なことへの褒美として、10ミナ儲けた者には10の町、5ミナ儲けた者には5の町の管理を任せました。小さいことに忠実な者には大きな報いがあったのです。つまり、このたとえ話は、行なったことへの報いを表しています。この二つのたとえ話は両方ともに神の御国のことを言っています。

 福音とは、まず、第一に何でしょうか。それは恵みです。ただで受けることのできるものです。ただというのは、働きや行ないによるのではなくて、信仰によるものであるということです。ですから、信仰がなければその恵みは恵みとして働きません。信仰とは何でしょうか。それは、イエス・キリストを救い主として信じる信仰です。私たちは罪を持ったままで神の御国に入ることはできません。イエス・キリストを救い主として信じるならば、その信仰によって、罪のない者として認められます。そして、永遠のいのちを受けて、神の御国に入ることができるのです。神の御国に行ったことのある方はここにはいないと思います。この地上も捨てがたい所ではあるかもしれません。が、聖書によるならば(Ⅰコリント2:9)、この地上よりもはるかにまさって素晴らしい所のようです。私たちはイエス・キリストという恵みによって神の御国に入るのです。

 神の愛は無条件の愛と言われます。けれども、実際のところ、救いは無条件ではありません。救いは、イエス・キリストを信じる信仰によって働き始めるのです。その意味で救いの条件は、イエス・キリストです。イエス・キリストが鍵なのです。救いの条件は、良い行ないではありません。救いの条件が良い行ないであるならば、誰も神の御国に入ることはできないでしょう。なぜならば、私たちは悪い行ないもしてしまうからです。もちろん、私たちが良い行ないをすることは、神様が望んでおられることですし、喜ばれることです。現在、私たちは、良い行ないを練習しているところなのです。

 福音は何よりも恵みですが、報いも含まれていると私は考えます。神の働きのために労したり、神の働きのためにささげたり、神の喜ばれることを行なうこと、いわゆる、良い行いに対しては、その報いを必ず与えてくださいます。この地上でその報いを受けることもあるでしょう。もしも、受けることがないとしても、神の御国には必ず、天に積まれた宝のように、その報いが用意されているのです。

■私たちは、日々、神様の恵みの中を生きています。そのような中で、私たちは、何を大切なこととして覚えつつ、生きて行ったらよいのでしょうか。夢をかなえることでしょうか。目標を達成することでしょうか。成功を手にすることでしょうか。夢をかなえることができたのなら、目標を達成することができたのなら、そして、成功を手にすることができたのなら、それは素晴らしいことです。喜びましょう、そして、神様に感謝しましょう。でも、夢がかなわなかったとしても、目標が達成できなかったとしても、そして、成功できなかったとしても、そんなに落胆することはありません。大切なことは、どのような中にあっても、神様に対して、人に対して、自分に対して、どのように生きたのかということです。私にしてみたら、大きな教会の牧師として死んだとしても、小さな教会の牧師として死んだとしても、有名でも無名でも、大切なことは、神様に対して、人に対して、自分に対して、どのように生きたのかということです。神様にとっては、大きな教会の牧師であろうと小さな教会の牧師であろうと、有名であろうと無名であろうと、そんなことは重要なことではありません。

 罪の赦しと永遠のいのちは、恵みです。私の罪が赦されるために、イエス様が十字架にかかって死んでくださいました。こうして、罪の問題は解決しました。イエス・キリストは、救い主として私に絶対に必要だと信じる人は、誰でも神の御国に入るのです。

 私たちの命はこの地上において、神様の恵みによって生かされています。この地上でこんなに幸せになってもよいのだろうかと思うくらいの祝福を感じておられる方もいるでしょう。それはそれでいいのです。神様に感謝しましょう。でも、大切なことは、その中で、神様に対して、人に対して、自分に対して、どのように生きたのかということです。また、クリスチャンなのに、次から次へと大変なことばかり、クリスチャンならもっと楽な生き方をさせてくれてもいいんじゃないのかと感じておられる方もいるかもしれません。大丈夫です。必ず脱出の道が備えられています。必ず神様のみわざを見ます。ここでも大切なことは、そのような中で、神様に対して、人に対して、自分に対して、どのように生きたかということです。

 ヨハネ21章で、ペテロがヨハネのことで興味深いことを言っています。イエス様がペテロがどのような死に方をするのかを教えてくれました。きっと、ペテロはそれを聞いて恐れを感じたのでしょう。ペテロはイエス様に、ヨハネはどうなのかと尋ねました。すると、イエス様は、「わたしが来るまで彼が生きながらえるのを望むとしても、あなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」と答えられました。ペテロにはペテロの生き方があり、死に方がありました。イエス様はただ、「わたしに従いなさい」とペテロに言われました。神様はそこにご自身の栄光を現そうとしておられたのです。

 私たちが、神様の恵みの中、どう生きるのか、神様にとってはとても大切なことのようです。イエス様は、「わたしに従いなさい」と言われます。神様はそこにご自身の栄光を現そうとしておられるのです。そのようにして、福音が届けられ、広がって行くのだと思います。それではお祈りします。