イエスを信じて本当によかった!

2019年2月24日(日)主日礼拝

「イエスを信じて本当によかった!」ルカ10:3~11  佐々木 俊一牧師 

「さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もし、いないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。その家に泊まっていて、出してくれるものを飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。どの町に入っても、あなたがたを受け入れてくれたら出されるものを食べなさい。そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた。』と言いなさい。しかし、町に入っても、人々があなたがたを受け入れないならば、大通りに出て、こう言いなさい。『私たちは足に着いたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てていきます。しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい。』」

■イエス様のことばによって、私たちはどれだけ慰めを受けたり、励ましを受けたり、希望を与えられたりしたことでしょうか。けれども、今日の聖書箇所のように、厳しく感じられたり、受け入れるのが難しく感じたり、何をいいたいのだろうかと頭をかしげたくなるようなことを、時として、イエス様は言われることがあります。昭和の時代ならまだしも、今の時代に生きる人々にこんなことを言ったら、絶対に非難されること間違いなしです。もちろん、その当時も、イエス様の言われることに反対する人はたくさんいました。

 今日は11節までお読みしましたが、最初は、9節までのつもりでした。でも、10節と11節も入れるように導かれました。11節より後になると、さらにもっと厳しい内容になっています。どの時代に生きていても、こんなことを人々に向かって言うには、相当の覚悟と勇気が必要です。

 ふつう、人は心地よい話には耳を傾けますが、心地よくない話には耳を傾けません。聖書には、心地よい話と心地よくない話の両方が書かれています。分析したわけではありませんが、聖書全体で言うと、心地よくないと感じる話の割合の方が少し多いような気がします。特に、旧約聖書はそうです。また、パウロの書簡もそうです。何か叱られているような気がしませんか。

 ある日、イエス様は弟子たちに、ご自身が十字架にかけられて死ななければならないことをお話ししたことがありました。すると、弟子の一人ペテロがイエス様のことを思って、「イエス様にそんなことが起こるはずがありません。イエス様、そんなことを言わないでください。」そんな感じでイエス様をいさめたのです。その時、イエス様はペテロのことをひどく叱りつけました。

 私たちが今日の聖書箇所のところで、「イエス様、人々に向かってそんなひどいこと言わないでください。あまりにも愛がなさすぎます。かえって逆効果です。」もしも、そんなことを言ったら、イエス様はどんなリアクションをするでしょうか。私たちは、神様の見方と人の見方は違うことを知る必要があります。そして、私たちクリスチャンは、神様の言われることをよくよく考え、どうして神様はそのような見方をするのかを学ぶ必要があると思います。

■3節 イエス様は12弟子以外に、さらに70人を弟子と定めて、イエス様が行こうとしていたすべての町や村へふたりずつ先に遣わしました。イエス様はここのところで、こんなことを言っています。「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。」 このことばは、今の時代に生きる私たちにとっても、真実です。イエス様のことを伝えるために世に出て行くことは、小羊がたくさんの狼の群れの中に入って行くようなものなのです。それは、危険を意味し、傷つけられることも覚悟しなければなりません。

■4節~6節 このところは、当時のユダヤの習慣とも関わりがあったのではないかと私は思います。ですから、今の時代に、お金も持たず、旅行かばんも持たず、靴も履かないで伝道の旅に出るようなことはしないでください。

 アブラハムの時代から、旅人をもてなすことは神様から受けた大切な教えであると考えられていました。弟子たちのことを旅人としてもてなす人々は、きっと神様の教えを大切にしている人々だったのです。また、弟子たちにとっては、これは、神様の働きを体験する良い訓練の時となったことでしょう。

 それから、イエス様は、弟子たちにこう指示しました。「どんな家に入ってもまず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。」 『平安』には、平和、繁栄、健康、祝福といった意味もあります。これは、祝福のことばです。人がイエス様のことを伝えるために、まず初めにすることは、祝福することです。祝福することによって、人間関係は始まります。そして、親しくなって行くのです。

 私たちの役割は、人々に無理矢理イエス様のことを押し付けることではありません。イエス様を信じる・信じないは、人それぞれが自由意志をもって決めることです。私たちの役割は、第一に、出会った人々を祝福することです。祝福することをとおして、ここに書かれてあるように、「平安の子」を見出すことができるのです。

 ある場合には、「待ってました」とばかりイエス様のことを話したらすぐに信じたという人がいます。聖書にもそのような人が出てきます。あるいは、時間をかけてじっくりと対応しなければならない場合もあります。この例も聖書に出てきます。代表的なのがパウロです。この場合には、忍耐が必要です。どちらにしても、まず、私たちがすることは、祝福することです。祝福する時、人は心を開きます。アナニヤはクリスチャンを迫害していたパウロを祝福しました。それに対し、パウロは心を開きました。

 そして、導かれるなら、イエス様のことを語るのです。導かれなければ、そこには私たちの役割はないということです。責任を感じる必要はありません。そこに平安の子がいたら、私たちの祈った平安はその人の上にとどまります。けれども、もしいないなら、その平安は私たちに返ってくるのです。それは、つまり、私たちを通して神様が働かれることであり、それは、聖霊の働きであると私は思います。私たちはやることはやって、あとは神様に任せるだけです。

■7節~9節 私たちの生き方を、イエス様を伝えることにフォーカスし、人々の救いを優先しようとするならば、私たちの好みや考え方をある時には控えなければならないことがあると思います。自分の権利を主張しすぎないようにしなければならないこともあるでしょう。相手の気持ちや相手の立場をリスペクトする態度が必要です。私たちはイエスの救いを伝えるという目的からはずれないようにしなければならないのです。そして、機会をうかがってイエスの救いのことを分かち合うのです。もしかしたら、向こうからイエス様のことを教えてほしいと言ってくるかもしれません。

 Ⅰペテロ3:15に、「あなたがたの希望について説明を求める人々には、誰にでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」と書いてあります。用意しておきましょう。

■話は少し変わりますが、商品を売るときに、販売テクニックの一つとして、その商品の特徴を一言で言い表す擬音語が人々の注意を効果的につかむのだそうです。たとえば、「お肌がツルツル」とか、「血液がサラサラ」とかいう表現は非常に効果的に用いられるそうです。もしも、この擬音語を使って、イエス様や救いのことを表現するとしたら、みなさんはどう表現するでしょうか。「イエスを信じて、・・・。」「イエスを信じて、心がポカポカ」、「イエスを信じて、私はピカピカ」というのはどうでしょうか。わざわざ、擬音語を使わなくても、よりよい言い方があるかもしれません。たとえば、「イエスを信じて、明るくなった」「イエスを信じて、悩まなくなった」「イエスを信じて、心が自由になった」「イエスを信じて、素直になった」「イエスを信じて、命が守られた」などです。できるだけ、短いことばで表現してみましょう。イエス様を信じて本当によかったと思えることを短いことばで表わしてみると、人々にもっと関心をもってもらえるかもしれません。

■イエス様はあなたにとって何でしょうか。イエス様はあなたに何をしてくれましたか。私の事について少しお話ししたいと思います。

赤面恐怖症(対人恐怖症):私が小学校4年生で初めて生徒会の委員会に出た時のことです。私はとても緊張していましたが、とても張り切ってもいました。ですから、積極的に発言しようと心に決めていました。そして、思い切って発言しました。そしたら、一部から笑い声が聞こえました。私は急に恥ずかしくなって、顔が真っ赤になってしまいました。すると、一人の女の子が、「ゆでたこだ。」と大きな声で笑い始めました。私はもっと恥ずかしくなって、もっと真っ赤になってしまいました。その時から、私は人前に立つと顔が赤くなってしまうようになりました。それ以降、それが私の最大の悩みとなりました。私はこの悩みを解決するために、いくつかの方法を試してみました。でも、何も変わりませんでした。私の心の内にはいつも恐れと敗北感と孤独感と恥の思いがありました。そんな暗い少年時代を過ごしていましたが、22歳の時に一人のアメリカ人宣教師に出会いました。彼は私にイエス様のことを伝えました。私はイエス様を救い主として信じ受け入れました。イエス様を信じてすぐにではありませんが、徐々に私の悩みは軽くされて行きました。人がどのように私のことを見ようとも、神様は私のことをたとえ顔が赤くなっても軽蔑したり笑ったりはしないということが、私にとって大きな力になりました。そして、私はいやされました。

 他にも、神様が私にしてくださったことは、まだまだたくさんあります。神様は私を変えてくださいました。時にはやさしく、時にはきびしく、神様の愛はけっしてあまやかしの愛ではありません。悪いことは悪い、良いことは良い、はっきりとしつけてくださいます。しかし、神様のなさることは、いつも私にとって最善でした。

■神様はみなさんお一人お一人にもとてもすばらしいことをしてくださっているはずです。そのことをぜひ誰かに分かち合っていただきたいと思います。伝える者がいないと誰もイエス様のことを信じることができません。ともに伝える者になりましょう。

 若くてもそうでなくても、神様はある人々を伝道者に、宣教師に、牧師に、神様のフルタイムの働き人として導いています。厳しい道ですが、神様の導きに従ってください。そうでなくても、イエス様を信じてよかったと思うことを素直に誰かに伝えて行きましょう。まず第一に、祝福することです。そして、導かれるならイエス様がどんなに素晴らしいことをしてくださったのかをお話ししていただきたいと思います。それではお祈りします。