静まれ、やめよ、力を捨てよ

2019年1月6日主日礼拝

「静まれ、やめよ、力を捨てよ」詩篇46:10~11  佐々木俊一牧師

■新年あけましておめでとうございます。2019年です。21世紀になって19年目です。約20年前には2000年問題というのがありました。2000年に入るとコンピューターが誤作動を起こしてインフラや流通などに大きな混乱をもたらすのではないかと心配されました。でも、大丈夫でした。

 100年前はどうだったでしょうか。1919年、日本は大正8年です。第一次世界大戦が終わった後、その後始末をしていた時代です。ロシアは社会主義国家になったばかりでした。社会主義は東ヨーロッパや世界に向けて波及し始めていました。経済的には世界的な不況が続いて20年後には第二次世界大戦が勃発します。ついでに、1919年7月、日本で初めて乳酸菌飲料カルピスが発売された年でもあります。

 今年5月には日本の年号が変わります。どういう年号になるのでしょうか。平成の時代は、日本は戦争を体験しなかったという点においてはその年号の実質通りだったと言えます。けれども、世界の出来事を見るとそうではありません。また、自然災害などを見ても平成の時代だったとは言えません。これからの時代はどのようになっていくのか、目を覚まして見ていく必要があります。 

■今日のメッセージタイトルは、「静まれ、やめよ、力を捨てよ」です。かなり乱暴で命令調です。こいうのは、今の時代受けません。タイトルを見るだけで聞く気がしなくなるでしょう。あえてこのようなタイトルにしたのは、そのように神様が言っているからです。こんな調子で私が言ったら非難されますが、神様が言うならば誰も口答えできません。

 先週、「静まって知れ(still)」というヒルソングの歌を歌いました。この歌のもとになっている聖書箇所が、詩篇46篇10節です。詩篇の多くはダビデによって書かれたものです。しかし、ここでは、コラの子たちによると書かれています。コラと言えば、有名な話がモーセに逆らったレビ人のコラ族です。彼らはモーセに敵対したので神様に滅ぼされてしまいました。でも、彼らの子どもたちは生かされて、このように神様に用いられているのです。

 46篇は、「神はわれらの避け所」で始まり、同じく、「神はわれらの避け所」で終わっています。11節では「とりで」になっていますが、「避け所」になっているものがあります。神様はいつどんなときにも私たちにとって、避難所であり隠れ場(refuge)なのです。

■1節から3節のところを要約すると、「どんなことがあったとしても私たちは恐れない。なぜなら、神は私たちの避け所であり、力であり、苦しむ時実際にある助けであるのだから」とコラの子たちは歌っています。

 4節を見ると、「川がある」と言っています。その川があるところは、神の聖なる住まいであり、神の都と呼ばれているところです。その都とはどこでしょうか・・・。そうです。エルサレムです。エルサレムは神の都であるゆえに、神がおられるところなのです。そして、神がおられる限り、エルサレムは揺るがないのです。

 5節を見ると、「神は夜明け前にこれを助けられる」とあります。これとは何でしょうか。エルサレムのことです。ここでは、エルサレムは神の助けを必要としているようです。

 6節を見ると、「国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ」となっています。諸方の王国は揺らいでいるのに、エルサレムだけは揺るがない。でも、神の助けを必要としている。これはいったいどういうことなのでしょうか。

 これは、ユダ王国のヒゼキヤ王の時代、BC700年頃に起こった出来事で、アッシリヤ帝国がエルサレムに攻めて来た時のことを言っているのではないだろうかと言われています。その時のことが、イザヤ書36章と37章に書かれています。

 命を保つために絶対不可欠なものの一つは、水です。アッシリヤの王は、エルサレムの水源を手中に収めました。けれども、ヒゼキヤ王は事前に他の水源を確保していました。それは、ギホンの泉からシロアムの池までの流れを、見つからないようにするため地下道を掘って隠したのです。その跡が現在、遺跡として発掘されています。

 多くの国々がアッシリヤに征服されました。このときすでに、北王国(イスラエル王国)もアッシリヤに征服され、捕囚の身となっていました。しかし、ユダ王国は、神様によってアッシリヤに勝利したのです。「神は夜明け前にこれを助けられる」と書いてあるように、アッシリヤがエルサレムを包囲した後、夜が明けて見ると、アッシリヤの兵士18万5千人が一人残らず全滅していました。イザヤ書37章の終わりの部分を見てみましょう。「主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、18万5千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。」その後、イザヤが言った通り、セナケリブはニネべで殺され、アッシリヤは衰退していきます。

■10節~11節 今日のメッセージタイトルは、「静まれ、やめよ、力を捨てよ」です。これは訳が違うだけです。「静まれ(静まって)」は口語訳、「やめよ」は新改訳、「力を捨てよ」は新共同訳です。訳によって随分印象が違います。英語では、「still」が多かったです。他にもいろいろありました。「still」をストロングのコンコルダンスで調べてみました。見ると、原語の発音が「ラーファー/raphah(rawfaw)」となっていました。意味は、「弱くなる、やめる、捨てる、静まる、休む、など」です。

 アッシリヤの王はイスラエルの神を冒涜し、エルサレムの住民とヒゼキヤ王を脅しました。しかし、それに対してヒゼキヤ王は、何も答えないで、ただ黙っているように命じました。そして、ヒゼキヤ王は預言者イザヤに神の助言を求めました。イザヤはヒゼキヤ王に神から受けたことばを伝えました。そのことばは、ヒゼキヤ王とエルサレムの住民に、自分たちが信じている神様がどんなに偉大な方かを思い起こさせました。その神様が自分たちを必ず助けてくださるという神様への信頼が湧き上がってきました。さらに、ヒゼキヤ王は神に祈り、神をほめたたえました。それによってヒゼキヤは、神の守りの確かなことを確信し、平安を得たのです。

■10節と11節を見てみましょう。「やめよ」とは、自分の気持ち、恐れや心配、不安や怒り、そんな気持ちで何かを決めたり行動したりするのはやめよ、ということです。私たちは、そうする前に、何もしないでまずは神様の前に静まるべきなのです。

 「力を捨てよ」とは、自分の力、自分の能力、自分の強さ、自分の考えを捨てよ、と言うことです。それに頼ったり従ったりする前に、まずは神様の前に静まるべきなのです。そして、自分の力や人の力に頼るのではなくて、神様に頼り、神様にまかせるのです。そうしたら、気持ちが落ち着いて、安らぎが来ます。その方がかえって、どうしたらよいのか、神様の答えに気づかされることがあります。自分の力や自分の考えで決めたりやったりする前に、まずは神様の前に静まるべきなのです。

 また、私たちが信じている神様こそが本当の神様であることを覚えましょう。そして、その神様が今も生きて働かれる、実際的な助けを与えてくれる神様であることを覚えましょう。聖書にある私たちが知っている神様は、昔も今もこれからも変わることがありません。私たちの不安定な気持ちを平安へと変えてくれる神様は、私たちを取り巻く困難な状況をも変えることのできる神様なのです。

■もう一つ、神様がやめよ、捨てよと言っていることがあります。それは、Ⅱ列王記17:33に書かれていることです。見てみましょう。「彼らは主を礼拝しながら、同時に、自分たちがそこから移された諸国の民の習わしに従って、自分たちの神々にも仕えていた。」このようなことがあるんですね。ヒゼキヤが王様になる前、ユダ王国の民は、真の神を礼拝しながら、アシェラやバアルなどの偶像をも礼拝していたのです。ヒゼキヤ王はそのような偶像の習わしをユダ王国から取り除きました。偶像を捨てて真の神様だけを礼拝するように導きました。偶像礼拝に限らず、神様の喜ばれないことはやめようという気持ちが大切です。いつもそのことばかりに気を付けて生きる必要はありませんが、自分のうちに神様の喜ばれない何かがあることに気づかされた時には、私たちは素直にそれを認めて、やめよう、捨てようという決心が大切です。あるいは、やめたい、捨てたいという気持ちを正直に神様の前に表す態度が大切です。

■詩篇46:4~5はエルサレムのことを表していましたが、それはまた、イエス・キリストを信じている私たち自身のことをも表しています。「その流れ」とは、永遠のいのちへの水です。泉のように湧き出て、かれることがありません。その水とはまた、聖霊を意味しています。聖霊なる神が私たちのまなかにおられるのです。ですから、私たちは揺るがないのです。神は必ず私たちを助けてくださいます。神様はいつも私たちとって避け所なのです。

 2019年、私たちは神様とともに歩みたいと思います。そのために、何よりもまず、神様の前に静まりましょう。そして、神様こそが神であることを知りましょう。その上で、私たちは考え、決め、行動し、2019年を進んで行きたいと思います。それでは、お祈りします。