人となった神、イエス

2018年12月9日主日礼拝「人となった神、イエス」ピリピ2:6~8

佐々木俊一牧師

■イエスの母マリヤとイエスの父ヨセフについて、少しお話ししたいと思います。父ヨセフの先祖はイスラエルのダビデ王です。そして、栄華を極めたソロモン王です。それから1000年が経つと、その子孫の一人であるヨセフは、貧しい大工(石工)になっていました。一方、マリヤは、祭司の家系でした。しかし、ルカの福音書のマリヤの方の家系図をたどるならば、ヨセフと同様、ダビデ王ともつながっています。

 彼らは、ガリラヤ湖の西側にあるナザレという町に住んでいました。子どもの頃から、彼らの親同士の間で結婚の約束をしていました。彼らには、貧しくとも信仰がありました。神を愛し、神に従い、神の約束を信じる信仰深い家庭の中で育てられたのだと思われます。そんなある日、彼らにとって、人生がひっくり返るような出来事が起こりました。マリヤとヨセフは結婚していないのにもかかわらず、子どもができてしまったのです。聖書にこのように書かれています。「聖霊によって身重になった。」つまり、マリヤの胎の中にいる赤ちゃんは、男女の自然の法則によらず、神様の直接の働きかけによって、その体が形造られたということです。創世記の最初の人、アダムもまた、神によって直接形造らた人です。聖書では、そのアダムが第一のアダムと呼ばれ、イエスが第二のアダムと呼ばれる理由がここにあります。両者ともに人としてオリジナルなのです。また、アダムの意味が、「神の血」という意味であることもとても興味深いことです。

 み使いは、生まれてくる子どもに名をイエスとつけるように言いました。マリヤにはじかに、ヨセフには夢で言いました。マリヤにとってもとヨセフにとっても、そのことは神様からのことばであることを確信させる出来事であったのではないでしょうか。

 み使いがイエスという名をつけるように言ったのには理由がありました。「イエス」という名前には、「救い」という意味があるからです。「イエス」という名前は、ギリシャ語の言い方であって、へブル語では「ヨシュア」、アラム語では「イェシュア」になります。旧約時代に、エジプトから脱出したイスラエルの民を約束の地、カナンに導いたのは、ヨシュアでした。「ヨシュア」の意味は「救い」です。「イエス」とは、まさに、救い主なるお方にふさわしい名前で、この方こそご自分の民を約束の地、神のみ国に導くことのできるお方なのです。  

■ミカ5:2にこのような預言のことばがあります。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」 

 イザヤと同年代に生きた預言者ミカによって語られました。ここを読むと、イスラエルを永遠に治める王、つまり、イスラエルにとっての救い主は、ベツレヘムから出ることになっているのです。ベツレヘムは、「ダビデの町」とも言われていました。なぜならば、そこは、ダビデが生まれ育った町であり、その先祖に与えられた土地であったからです。

 ローマ帝国の皇帝、アウグストの時代に、帝国内のすべての人々は住民登録をするようにという命令が出ました。ヨセフはユダの子孫であり、ダビデの子孫だったので、住民登録のために、ユダヤ地方のベツレヘムまで行かなければなりませんでした。ナザレからベツレヘムまではおよそ150キロメートルです。当時の交通機関と言ったら、徒歩かロバです。身重なマリヤは半年くらい前にベツレヘム方面のエリサベツの所に行ってきたばかりでした。それにしても、その旅はふたりにとって大変厳しいものだったと思います。

 住民登録の時、ベツレヘムはたくさんの人でどこの宿も空いていませんでした。そのため、ヨセフとマリヤは部屋がとれず、宿の家畜小屋に泊まることになりました。イエス様はそこでお生まれになりました。これが、神の計画した時でした。マリヤもヨセフも、もし、アウグストの命令がなければ、ベツレヘムに来ることはなかったでしょう。こうして、イエス・キリストは聖書に示されたとおりに、ダビデの家系の中にあって、また、ベツレヘムでお生まれになったのです。

■ところで、どうして、神の御子なるお方が、こんなに臭くて汚いところで生まれなければならなかったのでしょう。柔らかくて暖かな布団ではなくて、堅くて冷たい飼い葉おけに寝かされました。豪華な王宮ではなくて、あまりにも粗末な宿の家畜小屋で生まれたのはどうしてなのでしょう。

 ピリピ2:6~8にこう書かれています。「キリストは、神のみ姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして(特権を主張されずに)、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」 

 「キリスト」とは、「油注がれた者」という意味です。それはまた、「救い主」を意味しています。「イエス・キリスト」とは、「救い主イエス」ということになります。

 イエス様は神であられるのに、神としての特権を主張されませんでした。お生まれになった時から、イエス様はこのみことば通りに歩まれました。

 イエス様はナザレに住み、貧しい大工のヨセフの長男として育ちました。ある人々は、イエス様はマリヤの不貞によって生まれた子どもであると噂していたことも考えられます。父ヨセフの仕事を手伝い、公に神様の働きをされる30歳まで家業を手伝っていたのだと思われます。神様の働きを始めた時、周囲の人々は、イエス様をただの貧しい大工の息子ではないかと見下げました。今まで大工の息子だったのが、学校にも行っていないのに、聖書を教え始めたのですから、戸惑いやねたみも働いたのでしょう。地元ナザレでは、イエス様は激しく拒絶されました。それにもかかわらず、イエス様は、神の御子としてのアイデンティティが揺らぐことはありませんでした。もちろん、イエス様ご自身、神なるお方ですから、そのことを自覚しておられたことは言うまでもありません。そして、坦々と神の働きを進めて行きました。

■イエス様は私たちに良き模範をいつも示してくださいます。私たち人間のアイデンティティは人の言う言葉によって大きな影響を受けながら形成されます。親を初め、自分を取り巻く人々の評価が自分の価値を決めて行くのです。ある場合には、人々のことばや評価によって、自分は生きる価値がない、愛される価値がないと思い込むほどに傷ついてしまうとがあります。

 完全に人であり、完全に神であられるお方、イエス様は、この地上において、人々によってどん底まで卑しめられました。しかし、その中で、イエス様は、神に愛されている者としての尊厳と価値を私たちに示してくださっています。人間一人一人の価値は、人間が決めることではありません。神様が決めることです。そして、神様はすでに、人間一人一人のことを高価で尊いと言ってくださっているのです。何が出来るのか、何を持っているのかによって価値が決まるのではありません。また、人から自分がどのように扱われようとも、どのようなことを言われようとも、それによって価値が決まるのではありません。神様はそのような言葉や行為の一切をはねつけてしまわれます。私たちは人の言うことを恐れることはないのです。神様は私たちをどう見てくださっているでしょうか。それが私たちにとって大きな問題です。幸いなことに、神様は一人一人の人間を深く愛しておられます。そして、聖徒、つまり、クリスチャンは特別だとも言っています。神様の祝福が特別にクリスチャンの上に注がれているのです。また、その祝福を誰かと分かち合うのが私たちクリスチャンでもあります。

 どんなに人々によって卑しめられたとしても、イエス様はいつも、神様のみこころを求め、神様のみこころを行なうことに専念していました。イエス様にとって重要なことは、神様のみこころがなることでした。これもまた、私たちにとって良い模範であり、祝福されたクリスチャンライフを送るために大切なことだと言えます。もしも、私たちが不当な扱いを受けたとしても、神のみこころを坦々と行い続けるならば、私たちの神の子としてのアイデンティティはますます強められ、神様との関係はよりいっそう深められていくことでしょう。

■人となられた神の御子イエスは、神であられるお方なのに、そのあり方を捨てて自分を無にして仕えるものとしての姿をとり、卑しめられるような扱いを受けたにもかかわらず、神の御子としてのアイデンティティを貫き通しました。

 この地上の歩みは、楽しみもありますが大変なことも多いです。けれども、それは必ず報われます。イエス様のあとについて歩み続けるなら、その報いはとても大きいのです。その報いをこの地上で受けることもありますが、中にはこの地上では受けることのできない報いもあります。しかし、その報いは必ず天において用意されています。

 イエス様は私たちにとって良い模範です。私たちは神様に愛されています。誰が何と言おうと、誰がどのように扱おうと、私たち一人一人は父なる神様にとって大切な存在です。神様の愛すべき子どもとしてのアイデンティティをしっかりと自覚しましょう。そして、クリスチャンとしてのアイデンティティをイエス様に習ってますます輝かせていきたいと思います。それではお祈りします。