虐待からの自由、神様の正義の中で生きる自由

18. 11 2018

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 1テサロニケ 4112

 虐待からの自由、神様の正義の中で生きる自由 

 

   オンラインで、そしてここ札幌のオープンドアチャペルで礼拝に参加して下さっている皆さんにご挨拶いたします。私達は、ここ最近のメッセージで、私達がキリストを知り理解するにつれて、キリストが私達を自由にして下さることを見いだすと学んできました。

 より深い信仰へと成長することで、私達はキリストを私達の救世主として知ることになるのです。 キリストは、私達の生活にダメージを与え、蝕んでいる事柄から私達を自由にして下さっています。しかし、キリストは私達をただ自由にされたまま放って置かれることなく、私達がキリストの助言と保護の下、活動的に充実した生活をするためにも私達を自由にして下さるのです。

 

  今日の聖書の教えは、私達が見たくない又は話したくないと度々思ってしまう現実の世界の一端、虐待についてです。

  聖書の神様はただ、美しく栄光に包まれた天国に座っているのではなく、実際にこの世界の私達の生活に来て下さり、私達とともに、私達とまさに同じように働いて下さっています。来月になるとまた覚えますが、クリスマスのメッセージは、神様がその御子をこの混沌とした世界に送り私達を奴隷にしていることから自由にして下さることについてなのです。

 

  この世界に罪が入ってきてから、いつの世も虐待はずっとありました。これは身体的な虐待である家庭内暴力や性的虐待だけではなく、精神的な虐待やその他の種類のものを含んでいます。私達がハラスメントと呼ぶものは、そのような極端なものではないかもしれませんが、それでも、不公平で受け入れることができない処遇として、おおきな種別において同一です。今日では、インターネットの力によって、これらの問題をより明確に、そして絶え間なく聞くことができるでしょう。特に、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)は虐待が起きた時に普通の人々が連帯して、それに立ち向かうことができる力をもたらし続けています。

 アメリカで始まった、Me Too(私も)運動は、主に、女性に対して性的虐待をし続けているポップカルチャー、ビジネス、政治、またその他のリーダーである男性の増え続けるリストをニュースとして提供しています。

 

 キリスト教会では虐待事案などあったことがないと言いたいのですが、しかし恥ずかしいことですが、存在することを認めなければなりません。2000年代初頭、カトリックのクリスチャンは彼らの組織自体及び教会の評判に深刻なダメージを被りました。というのも司祭達が性的虐待をしていたのですが、その事実を教会が隠蔽した結果、それらの司祭達がその地位にとどまったからです。そして、この種の問題が是正されるように願っていたところ、またしても今年、アメリカのペンシルバニア州で同様の問題が新たに津波になって押し寄せてきたのです。ただ単にカトリックの友人達ばかりを非難してはいられません。最近、数人の有名なバプテストの牧師や福音派のグループを含むプロテスタントのリーダー達が、不適切な性的な関係を含む虐待と疑われる行動をしたことが明らかされたのです。

 このような恥ずべきことについて私達は何を言うことができるのでしょう? 今日のクリスチャンにとって、そのような言い訳のできない何かについて教えを受ける必要があると知ることは非常に落胆するものです。しかしながら、キリスト教会の中でも、その外部においても、これが今私達のいる世界なのです。それでは、私達はどのように応じていけば良いのでしょう。                                                                                                             

  このような事が起きた時に、神様はどのように思われ、何をされ、何を言われるのでしょうか? そして、神様に従う者として神様は私達にどのように考えて行動することを望まれるのでしょうか? これらの疑問について、 今日の聖書の教えに迫りながら考えて行きたいと思います。

 

   パウロはローマ帝国の一部であったテサロニケ(現在のギリシャ)に住む新しいクリスチャングループの人々へ手紙を書いています。キリストに従うようになる前の彼らの生活はどのようなものだったのでしょう? 聖書学者は、当時の文化では結婚している男性は度々、旧約及び新訳聖書で神様が教えている、婚姻関係の中でのみ性交渉を持つという事を守っていませんでした。奴隷を所有している男性は度々自分が束ねる奴隷と性交渉を持っていました。その地方の宗教と結びついていて売春をする、寺院所属の(が運営する)売春婦がいました。結婚している男性の妻達は主に男性の家の世話と子供を育てるために、度々その場にいたのです。

  そのような文化環境の中に、パウロは神様の愛の福音を、神様が男女をそれぞれ生涯一人だけの関係を持つ者として一緒にしたという教えと共にもたらしました。だから、テサロニケで教会に属するようになった人々は完全に異なるライフスタイルから新しい信仰へ入ることになったのです。ですから多くの人々が性的な傷跡を負わされていたことは疑いのないことです。少なくとも現在の私達の価値観で判断すると、ある人々は多分虐待されていただろうし、またある人々は他者を虐待していたことにもなると思います。しかしパウロはそのような人々に神様の言葉(1節)“ 神を喜ばせるような生活をしなさい。” と言っています。

 

  この教えの内幕は、他者を虐待している者達と虐待されている人達への言葉です。それでは最初に虐待している者に焦点を当て、虐待を受けている人に対する言葉をもって終わることにしましょう。

 

 全ての人に対してパウロは明白な呼びかけ(3節)をしています。“ 神はあなた方が聖くされることを望んでおられます。”

 神様は、私達が何を愛し、何に喜び、私達が得ること、学ぶこと、成し遂げることにおいて何に望みをおくのか、これらを含んで私達を完全に作り直したいと思っておられます。これこそがクリスチャンの生活の中心となるもので、私達は、時間やその他の資産の使い方、何を計画し、どのようなことに祈り、どのような夢を持つかにおいて、このことを第一とすることを強く意識しなければなりません。

 様々な有名な教師が確認していることですが、多くの人が天国に行きたいと言っています。しかし天国にいるということは、神様の家にいるということで、そこでは神様を永遠に褒め称え、永遠に神様を喜ぶことになるのです。 皆さんはそのような場所に永遠にいたいと思われますか?

 聖くなることなしに、そうなることはありません。もし皆さんが聖い心を持っているのなら、神様を愛し、神様の栄光のために生きることは、皆さんの一番大きな希望で最大の喜びになるでしょう。でも、自分勝手なことをしようと思うならそうはなりません。ですから、私達が天国に行く前に、私達には、永遠に神様と共にいることの準備のため、この世における時間があるのです。聖くなるためにはプロセスがあります。実際、そのことが私達がここにいる主な理由です。

  7節にあるように、“神が私達を召されたのは、汚れを行わせるためではなく、清潔を得させるためです。” パウロは、読み手が時々最も明らかなことを見逃すよう持ちかけているように思えます。 8節後段に “神はあなた方に聖霊をお与えになりました。” とあります。神様の霊は聖く、神様の家を私達の心の中に作ることを選択します。ならばどうして私達は、聖なる場所であるべきものより劣る何かを神様に用意できましょうか? ですが、私達はまだ、私達の心を神様のための本当に聖い家とする長い過程にあります。パウロは、聖い生活の一例を、誰かの弱みに付け込んだり、性的な罪を犯すことを避けることだと言っています。3節では、これらの行為を示す言葉として porneia という単語がつかわれています。英語の pornography はここから来ています。

                                                                                                            

   神様は私達に4節で “自分自身の身体を管理しなさい。” と教えています。身体(bodies という言葉のギリシャ語の意味は 容器 containers vessels ”です(当時の文化で人々は身体を魂の一時的な容器と思っていました) それで、NIRV聖書(ニュー インタナショナル リーダーズ バージョン)などの翻訳では、“身体(bodies) は読者の身体を表す言葉として使っており、その表すメッセージは、自制(自分で管理する)を持つことで、私達の身体を高潔、品行方正に使うということです。しかしほかの翻訳、新改訳聖書や新共同訳聖書では、“身体(bodies)”は読者の結婚している相手のことです。ですから、そのメッセージは、皆さんの配偶者を敬意と尊重を持って扱うということになります。どちらの原本の解釈がより正確だとしても、聖書全体の教えに照らしていけば、どちらも今日に生きる私達が聞く必要のあるものです。これらは私達に福音が私達の生活で最も親密で繊細(デリケート)なことにさえ及んでいることを思い起こさせます。私達の神様にとって、婚姻関係にある者がそれぞれのパートナーと健康的な性的関係を持つことは重要なことなのです。神様は私達が、お互いがパートナーとして敬意と尊厳を感じることができるようにお互いの性的な関係を発展させ、維持することができるよう助けたいと思っておられます。このことが結婚している男女の約する互いの関係性となる時、一方のパートナーが(男女問わず)他方に強要しようとはしないのです。同様に、そのような関係の結婚している男女は性交渉を差し控えたりしないし性交渉を拒否することを相手を攻撃する武器として使いもしないのです。

 最近、アメリカの牧師が教会のメンバーにメッセージを聞いた後で教会で時間を作り、結婚している夫婦にお互いが  “寝室での私の接し方で自分が尊重されていると感じるか?”と質問しあったということを聞きました。

 皆さんにこのようにして下さいとお願いするかどうかは分かりません。日本の方々は時々私に、  私達は 愛しています。とかお互いに直接的な言い方はしません。”と言われます。だから、そのような気持ちに直接触れる質問をすることはやり過ぎと思えるかもしれません。ですから、あぁOK、そうですね、分かりましたとは言えますが(もっとも、なんの問題もなく本当に直接的な言い方をする方々を含んで、違う種類の日本人の方々と出会ってますけど)、それでも、皆さんは皆さんのパートナーと他の種類のコミュニケーションをする必要があると思います。ご自分のやり方でされるのも良いでしょう。でも、ご自分のためにもちゃんと効果があるやり方が必要です。パウロを通して語られる神様からの明確で変わらないメッセージは10節後段にある   しかし、私達はあなた方がお互いにもっと愛し合うようにお願いしています。“ です。

 

  では、私達がそうしなかった場合、何が起きるのでしょう?  6節であるように ”罪(sin) 私達の関係に入ってきます。ここで用いられている言葉も(身体“bodies”のように) 違った方法で読まれることができます。ここでの ”罪(sin) という言葉ですが、一つの翻訳バージョンでは、 transgress( 逸脱する)” 又は go beyond(範囲を超える)“ というもので、他のバージョンでは、一線を超えるということになっています。 神様はクリスチャンの結婚において、一人の男性と一人の女性が永遠に一緒にいるという境界を設定しています。そして、神様の教えに反する選択をするとき、私達は、神様と神様が私達に用意している計画から離れてしまうことになるのです。

 新改訳や新共同訳のようなほかの翻訳では、“兄弟をふみつける(walk on your brother) となっています。 ギリシャ語では Adelphon (兄弟、Philadelphiaの語源となった “兄弟愛の街”)という言葉を使っており、男性支配の文化の下では、こうした言葉も通常、男性のみを表すものではなく人を指す言葉です。

 そのような文脈で性的な罪に関する教えを見ると、明らかに男女をともに含んでいるものと言えます。パウロは虐待について語っています。それは神様からの美しい贈り物である性交渉を、自己中心で加害的、そして醜いものに変えることなのです。

 

 6節で使われている “ take advantage of (あざむく)” という言葉は新約聖書ではここだけで、全てコリント第2の手紙(211節、72節、121718節)です。(例えば211節)

                                                                                                          

 では 私達はサタンに欺かれたくはありません。“)。  ここでのパウロの言葉使いは特定のものではありません。しかし、明らかに人々を良く扱っている訳ではないのです。

 これは明らかに、何らかの種類又は様々な種類の虐待に関係することです。パウロは明確に、当時の特定の人々にこれを述べる必要があると見たから、書いているのです。ここでのパウロの言葉使いは大変穏やかで直接的ではありませんが、大変デリケートな問題を持ち出してします。パウロは名前を出してはいませんが、テサロニケの教会で何が起きているのか私達は考えなければなりません。多分、一部の人々がキリストに出会う前に行っていた性的な種類の行為に関する誘惑に直面していた、という事だと思います。

  どうしてこんな酷いことが、その教えと生活において始めから終わりまで聖く善であったイエス様に従う、そのような人々が作ったグループ内において起こることができるのでしょう?

  クリスチャンが最も基本的な信仰の教えを誤解したり従えなかったりするときには起こり得るのです。ここでは二つの聖書の考え方が特別に重要です。その一つは神様によって正しいとされていること、もう一つは聖くなることです。(違う言葉で表すと 義認 と”聖別“ です。)

 それではこれらの二つの言葉の意味と重要な違いについて急いで見ていきましょう。

 私達を正しくするためには、神様は私達に何かをされます。でも、聖くするためには、神様は私達の内側に何かをされます。私達は神様によって罪を赦して頂き正しくされるのです。しかし、私達は、日常における考え方、言葉、行動について段々キリストに似た者となることによって聖くされるのです。私達は神様から正しくされることによって救われ、聖くなるために救われるのです。私達は唯一度のキリストの十字架上の働きを通して正しくされ、私達の思い、心、毎日の生活の中におられる聖霊の絶え間ない働きを通して聖くされるのです。(”段々と“ パウロは110節で書いています。) 私達を正しくするために神様は罪からくる罰を取り去ります。しかし、私達を聖くするために、神様は罪の力に打ち勝つのです。神様は私達が神様の下へ来る時に私達を正しくされますが、神様は私達が神様に似た者となる為に私達を聖くされるのです。正しくされる過程で、私達はイエス様を救い主として知るようになり、聖くされる過程においては、イエス様が主であることを知るのです。正しくされるためには私達は信じる(十字架上のキリスト)必要があり、聖くされるには、私達の信仰生活を生き抜くことにおいて積極的に見守り、闘い、祈り、働き、その他多くのことをする必要があります。これら信仰による人生の歩みにおいて重要な部分はイエス様に見ることができます。もっともこれらは重要な方法において互いに異なってはいるのですが。ジョン・カルヴァンが書き表したように、それは太陽の熱と光のようです。この二つは共に同じ元から来るのですが、異なった性質と役割があります。しかし、この二つを分離することもできないし、”キリストを粉々にすることはできない。“ と誰かが言ったように、ほかのイメージとして使うこともできません。もし、皆さんが正しくされることと聖くされることを取り違えるのなら、皆さんはクリスチャンとしての生活に大きなトラブルを抱えることでしょう。

 もし正しくされる又は神様に受け入れられることが聖い人間になることによってであると考えるなら、皆さんは自分自身の力で聖くなろうと努力することになり、いつも失敗することになります。そして遅かれ早かれ、フラストレーションを抱えて生活し始めることになり、喜びのないクリスチャンになるでしょう。

 一方、もし皆さんが、キリストを信じ、キリストの贈り物(ギフト)である罪の赦しを受け取ったとしても、その後のキリストとの関係に特別な必要性を見いださないなら、皆さんの生活の仕方は決して変わらないし、皆さんが必要とする霊的で道徳的な成長は決して始まりません。そして、例え皆さんが悔い改めて救われたと言っても、キリストと似た者に変わることもありません。ですから、性的な罪や他の虐待についての誘惑が来る時には、皆さんは多分、皆さんが必要とする正しい選択のための内なる力を持つことができないのです。

 

 では、どうしたら良いのでしょう。神様が私達全てに”学ぶ“ ことを望まれていると言われている箇所の4節に戻るのです。このことは、私達が未だ十分な理解を得ていないということを意味し、神様はこの事を知っており、それでも教え、導き、力を与えるために私達のところに来て下さっているのです。神様は私達のためにはまだ希望があると考えておられます。過去に私達がどんなに酷い選択をしていたとしても、神様は私達を諦めておられません。そこには、例え虐待している者に対しても恵があります。神様の限りない愛に感謝します。私達がこれを受け入れる時に希望を持って生きることを学ぶのです。

 

   しかし、このことは私達が既に罪に対して勝利しているということではありません。そこには闘いがあります。私達がどのようにしたらキリストのように歩むことができるのかを学ぶ時に、勝利することもあれば敗北することもあるのです。私達が失敗して、過去に行った悪い習慣に逆戻りすると、私達は諦め、降参したい気持ちになりますね。また”こんなことをし続けているなんて、私は本当にクリスチャンなんだろうか?“と訝しむ(いぶかしむ)かもしれません。

 しかし、現実として聖書の神様が私達に示して下さっているのは、私達が闘っている事実こそが私達がクリスチャンであるしるしだということです。神様は皆さんとともにおられます。皆さんが道を踏み外した時それと気づくように助けて下さり、元の道に戻りたいという願いを与えて下さいます。皆さんは綱引きをしています。そして列をなして立ち向かってくるあらゆる誘惑と皆さんを圧倒するその力を見ています。 ”一体どうやったら勝てるのか?“ と考えることでしょう。しかし神様のメッセージは、神様が共にいるということです。皆さんは一人だけで綱を引く必要はないのです。神様が皆さんの側にいます。そして皆さんと一緒に、それがどんなに長い時間がかかるとしても、どのような力が皆さんを間違った方向へと引いていこうとしても、神様は綱を引く用意ができているのです。” 神様はあなた方に聖くなって欲しいのです。“ 3節)

  それでは虐待を受けている人々はどうしたら良いのでしょう? 神様は悪を面前にして沈黙されません。神様は権威をもって語り、行動し、他者から悪意ある扱いを受けている人達を癒し支えたいと切望しておられます。このような公のメッセージは、特に個人的で苦痛を伴う場合に詳細に語るには最適な場所はないのかもしれません。共に祈ったりカウンセリングをすることがもっと助けになるのでしょう。しかし、聖書の神様の言葉に基づいて少しだけ言わせていただきたいと思います。

 第一に、神様は皆さんが苦しんでいる時に共におられます。そこで人々は神様を見つけることができるのです。多分他のどんな場所よりもです。イザヤ書537節は私達に、虐待を受けることがどのようなことであるかを知っているキリストの姿を見せています。 彼は打たれ苦しまれた。しかし口を開かない。彼は屠り場に連れて行かれる羊のようだ。

 皆さんが苦しめば、皆さんと同じように神様も苦しまれるのです。皆さんの苦痛は皆さんにとって神様に出会う機会となり、他のどんな方法よりも深く神様を知ることとなるものです。

 

 第二に、皆さんは神様に対して正直になることができるということです。祈りによって、皆さんが正確にどのように考えているか、皆さんの心に何があるのか神様に話しましょう。神様は既にその内容をご存知ですから、例え皆さんから出てくるものが怒りであったり混乱や何であれ驚かれることはありません。何千年もの間に信仰に生きた人々でも、詩篇429 私は我巌の神に申し上げます。「なぜあなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに嘆いて歩くのですか?」” のように言っているのですから。

 

 第3に、神様は他の人間を不公平に傷つける者達を罰して下さいます。裁くことと罰することを神様の御手に置いてしまいましょう。神様は公平にまた同時に愛と正義をもって扱うことができます。テサロニケ第1の手紙46節後段には虐待について、“ 主はこれらの種類の罪を侵す者は誰でも罰して下さいます。” と言っています。神様は親切ですが、正当なお方なのです。正義は私達の神様にとって決して小さなことではありませし、私達にとっても小さな事であってはならないのです。神様は他の人を虐待している者にフリーパスを与えてはいません。ですから私達も、どこにいても、悪に対して立ち向かうことで神様の側に加わらなければなりません。そしてこれは例え私達の中にある個人的なことででも、私達が属する組織におけることであっても同じ なのです。クリスチャンとして私達は、“ 主は打ち据えられた全ての者のために正しく公正なことをなされる。(詩篇1036節)” という約束と共に生きています。

 婚姻関係にある夫婦間のレイプのような虐待は法廷で法によって罰せられないかもしれません、しかし神様は裁かれます。(注;法廷で罰せられる例もあります。)

 

 第四に、虐待は、受けてこられたあなたにとっては、あなたの人生の一部分ですが、あなたの人生を定義(明確に)するものではありません。聖書の神様は人々に虐待を無視し、単に忘れるようにする、またその現実や重要性を否定しても良いとは教えていません。むしろ、神様はそんなあなたが虐待の先へ(乗り越えて)移動し、それが人生の中心面であり続けることから助けることができます。あなたは、誰かがあなたにしているどんな事よりも、それをはるかに超えた存在であって、神様は、あなたがご自分の人生をその真実に照らされて生きるよう助けることができます。詩篇129編節では、 ”私の敵は何度も私を打ち据え・・・・しかし彼らは闘いに勝利しなかった。“ とあります。神様はあなたに、犠牲者として人生を生きること、これを超える良い計画を用意しておられます。神様の存在と力を学んだ今、あなたは、これまでの経験や過去にいた他の人々からのコントロールから脱却して、あなたのために神様が備えて下さっている良い未来に動いていく事ができます。

 

 祈りをもって神様のところに行きましょう。

天のお父様、今日まずはじめに、私達の多くの罪を赦して下さったあなたの大きな哀れみに感謝し御前に行きます。また私達が毎日、罪を乗り超え人々の中で純粋な心と行動によって成長できるよう助けて下さい。お願いします。私達が、このような生活によってあなたに喜んで頂くことができるように助けて下さい。私達の礼拝がこの教会で賛美され語られた言葉だけでなく、あなたの愛に満たされた心から生じた奉仕の行いによるものとして下さい

  虐待やその他の不正義を受けていることで、あなたの癒しが必要な方々のために、私達は、あなたの御霊の力を通してのみ為される復元と回復の御業が行われますようお願いします。

 私達がキリストの身体として真に生きることができるため、私達があなたの癒しと正義の御業に加われる道を見つけることができますようにお願いします。

 

 キリストのお名前によって祈ります。アーメン

     

参考

 

Smith, C. (August 29, 2012). The Urgency of Personal Purity. Unlocking the Bible.           Retrieved on November 8, 2018 from https://www.youtube.com/watch?v=x        VZKZmElHs0&t=1912s