神様にギブアップ!

2018年11月11日(日)主日礼拝

「神様にギブアップ!」ルカ14:25~33 佐々木俊一牧師

■イエス様が語っておられる箇所で、いったい何を言おうとしておられるのだろうかと考えさせられることがあります。そのような場合には、他のところでは何と言っておられるのかを照らし合わせながら、その真意を理解する必要があります。今日の箇所もそんなひとつではないかと思います。

■25節~27節 さて、大勢の群集が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」

  ここでは、イエス様は、弟子に向かってではなく、群集に向かって語っています。群集は弟子とは違って、イエス様の教えを信じて従っているのではありません。彼らにはそれぞれ必要があり、その必要を満たしてくれることに関心があってあとについて来ているのです。弟子たちほどの熱心さがあるわけではないので、すぐにも離れて行ってしまうかもしれない人々なのです。そのような人々に向かって、イエス様は、弟子となるための条件を示し、どちらを選ぶのかを人々の自由意志に語りかけているのです。

ここで、イエス様は2つのことを語っています。

① 自分の父、母、妻、夫、子、兄弟、姉妹、その上自分のいのちまでも憎まない者はイエス様の弟子になることはできないということです。裏返せば、自分の父、母、妻、夫、子、兄弟、姉妹、その上自分のいのちまでも憎む者はイエス様の弟子になることができるということです。 

  これを聞いて、みなさん、つまずきませんか。当時、このことに限らず、イエス様のことばにつまずいた人は実際にかなりいたように思われます。けれども、ここでつまずいたからと言って、イエス様から離れてしまったら非常にもったいない話です。聖書を読めばわかることですが、神様の命令というのは、私たちを不幸にしたり、破滅させたりするためにあるのではありません。また、この世の独裁者や指導者たちのように、自分たちを特別扱いし、自分たちの欲求を満たすため、贅沢な待遇を追及するためでもありません。神様の命令は、公平で正しく、私たち一人一人の建て上げと幸せのためにあると言ってよいでしょう。子どもと言うのは、たいてい親の思いを理解することができません。神様がよいと思ってしていることを、私たち人間には理解できないことはよくあることです。それでも、神様に信頼して関わり続けていくなら、以前はわからなかったことが、後になってわかるということがあるのです。

  イエス様は、けっして、父、母、妻、夫、子、兄弟、姉妹を憎むように促しているのではありません。家族をないがしろにしたり、捨てたり、暴力をふるったりするように勧めているのではありません。福音書にこんな箇所があります。年老いた親のために取っておいたお金を当時の宗教家が献金させようとするのをイエス様がきびしく非難しているのです。聖書には、親や家族を大切にするように教えている箇所が、他にもたくさんあります。それでは、ここでイエス様は何を言いたいのかと言うと、それは、何よりも誰よりも神様が言われることを尊び、第一にするように言っているのです。特に、イエス様が言うところの救いの信仰を受け取ること、信じることが何よりも優先すべきことであることを言っています。イエス様を信じ受け入れる時、親や夫、妻、子、兄弟姉妹が反対することがあります。国によっては、自分の命さえ危険にさらされることもあります。日本も例外ではありません。信仰の自由は国で認められています。ても、社会や家族の人間関係の中に、キリストへの信仰を邪魔しようとする妨げが現実にあるのです。信仰を選び取ることによって、場合によっては、何かを犠牲にしなければなりません。しかし、そうだとしても、イエス・キリストの救いを選び取ることは、人にとって最も重要なことなのです。

② 自分の十字架を負ってイエス様について来ない者は、イエス様の弟子になることはできないということです。つまり、自分の十字架を負ってイエス様について行くなら、イエス様の弟子になることができるのです。

  「自分の十字架」とはなんでしょうか。大きくて重い木の十字架を背負って世界中を旅して回っている人がいます。札幌に来たこともあります。その十字架には小さな車輪が付いていました。彼は、そのようにしてキリストを人々に紹介し、証していました。すばらしい働きです。しかし、「自分の十字架」を負ってとは、そのようなことを意味しているのでしょうか。そうではありません。

  「自分の十字架」の意味することは、いくつか考えられます。答えは一つというわけではなくて、神様はいくつかのことを私たちに十字架を通して教えていると思います。その中の二つのことをお話ししたいと思います。

ローマ帝国の時代において、重い罪を犯した人は十字架上で処刑されました。当時の人が十字架ということばを聞くと、まず第一にそのことが思い起こされたのではないでしょうか。罪人は、自分で十字架を背負って、刑を受けるその場所まで移動しなければなりませんでした。自分で背負うその十字架は、人々にとって、まさに罪と死を意味していたのです。しかし、多くの人々は、犯罪者でもないのにどうして十字架を背負わなければならないのかと思うでしょう。誰も自分が死刑になるほどの重い罪を犯しているとは思っていません。でも、神様の見方によるならば、例外なく人はみな罪人なのです。そして、罪人は裁かれなければなりません。ところが、神様は正しいお方であるとともに、愛であるお方です。それゆえ、神様は、罪人を救う計画を立てました。イエス様が、罪人の罪をすべて背負って、代わりに十字架上で裁かれたのです。

  自分の十字架を負うとは、自分が罪人であることを認めることです。イエス様について行くとは、イエス様が救い主であることを認めて、その救いの恵みを受け入れることなのです。こうして、人は、イエス様の弟子となるのです。

そして、二つ目のことは、イエス様を信じて歩み始めると、その信仰のゆえに嫌なことも経験することがあります。イエス様を信じるといいことばかりではないのです。嫌なことも起こってくるのです。たとえば、さきほど言いましたが、イエス様を信じることによって家族や社会から疎外感を受けたりからかわれたりすることがあります。それは、ある意味、信じる者にとっての十字架です。信仰のゆえに、場合によってはのしかかる苦しみに耐えて行かなければなりません。

■28節~32節 「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠く離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。」

  ここは理解に苦しむところです。みなさんはどう考えますか。一つ目のたとえでは、家を建てようとするとき、費用はいくらかかるか、その費用をどう工面するか、設計・デザインの業者や建築業者についてどうするかなど、考えて計画をたてなければなりません。よく考えないで建て始めてしまうなら、失敗してしまう恐れがあるのです。ここにもあるように、建て始めはしたものの、完成しなかったということも起こりえるのです。

  二つ目のたとえでは、戦いにおいて勝つためには、状況や情報の把握が重要です。勝ち目がないとわかったときには、犠牲を最小限にとどめるために、できる限り、一刻も早く手を打つ必要があります。のんきにしている猶予はないのです。

  この二つのたとえの共通点は、自分の今置かれている状態についてよく考えて、きちっと把握して、その上で、どうすべきかを決断しなければならないということです。私たちには、人生で非常に重要な決定をしなければならないときがあります。そんな時は、時間をかけて十分に考える必要があるのです。

■33節 「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」

  イエス様の弟子になるための三つ目の条件が語られています。

③自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。つまり、自分の財産全部を捨てるならば、イエス様の弟子になることができるのです。このことが文字通りのことを意味しているならば、世界中からクリスチャンはほとんど消えてしまうのではないでしょうか。

  日本語の聖書では、「自分の財産全部を捨てないでは」とか、「自分の持ち物を一切捨てないならば」となっています。けれども、いくつかの英語の聖書を見ると、財産とか持ち物のような自分の所有物としてはっきり言及されてはいません。言語ではどうなっているのでしょうか。32節のたとえの内容と関連して考えるならば、「降参する、降伏する」ということではないでしょうか。降伏すると言うことは、つまり、自分の財産を含めて何から何まで相手の物になってしまうわけです。考えてみてください。私たちと神様の間には和解が成立しました。どのように和解が成立したのでしょうか。神様が人間に対して降伏(give up)したのでしょうか。それとも、人間が神様に対して降伏(give up)したのでしょうか。もちろん、私たち人間が神様に対して降伏(give up)したのです。神様に対して人間には勝ち目はありません。降伏するしかありません。私たちはどのように降伏したのかというと、イエス様を救い主として受け入れることをとおして降伏したのです。イエス様を救い主として受け入れると言うことは、神様に対してギブアップしたと言うことです。それが、現在の私たちの状態です。それがクリスチャンの状態なのです。この状態をしっかり覚えてください。イエス様を救い主として信じているということは、私たち自身も私たちの財産も神様の物になってしまっているということです。しかし、神様は大変寛大で寛容なお方ですから、私たちが今神様から預かっている私たち自身の体もすべての持ち物や財産も自分の物であるかのようにふるまっていても、神様は何も言いません。実際に、自分の持ち物や財産をすべて捨てなければ、弟子にはなれないと言っているのではありません。ただ、多くの人々がお金を神様のように思っていることが問題であり、また、お金に心が縛られていることが問題なのです。全財産を捨てるとは、お金に全幅の信頼を置くのではなくて、真の神様を神様として認め、何よりも第一に、神様に信頼するということです。神様を信じ、神様に信頼して歩み始めると、以前のようなお金との関係は徐々に崩れ去って行きます。自分の心にお金が占める割合は、どんどん小さくなって行きます。お金に頼まないで、神様に頼むようになるからです。お金を愛さないで、神様を愛するようになるからです。自分のお金は、神様のみこころを考えて使うようになるでしょう。神様のみこころを求めつつ、お金を用いるとき、以前よりも有効にお金を使えるようになります。また、自分のため、自分たちのためだけでなく、他人の幸せのために、また、神様の働きのために、心を配って用いることができるようになります。それこそ、イエス様の弟子としての歩みです。

  私たちクリスチャンは神様にギブアップした存在です。であるならば、神様の御心であることについては、私たちはけっしてギブアップさせられることがありません。そして必ず、神様の御心は私たちを通してなされるのです。私たちの働きを通して、また、私たちの行いを通して、神様は御力を表してくださいます。そのことを信じて進んでいきたいと思います。それでは、お祈りします。