できると信じよう!

2018年10月28日主日礼拝<できると信じよう!>民数記13:25~31

佐々木俊一牧師

■前回は、怪力サムソンの事をお話ししました。旧約聖書は、元々、ユダヤ人の間で継承されてきたものです。それは、救い主の現れに備えるためのものです。救い主がこの地上に来られた時に、その人が本当に救い主なのかどうかを知るために必要な情報が旧約聖書には書かれてあります。弟子たちには、イエスと過ごした3年半の経験と体験とイエス直々のことばがありました。しかし、彼らは、ナザレのイエスが救い主であることを人々に知らせるために、彼らの体験だけによらず、旧約聖書を調べたのです。旧約聖書にある救い主の情報をもとに、イエスが救い主であることを確認しました。そして、彼らは、最初ユダヤ人だけに宣べ伝えました。しかし、ユダヤ人以外の人々もイエスのことを聞いて信じるようになりました。それに反対する勢力がありましたが、彼らはそのことについても旧約聖書で異邦人への宣教が神のみ心であることを確認しました。イエスの弟子たちの役割は、イエスが救い主であることをイエスのことばと彼らの体験と旧約聖書の情報をとおして明らかにすることでした。そして、それをユダヤ人にも異邦人にも宣べ伝えることでした。もちろん、それは聖霊の助けと導きがあったからこそできたことです。当時、イエスが救い主であると信じたユダヤ人は、一部のユダヤ人だけでした。しかし、それでも、福音は世界中に拡散していきました。そして、今の時代においても、新約聖書にある救い主イエス・キリストの影を旧約聖書の中に見出し、イエス・キリストこそが救い主であると信じるユダヤ人が起こされているのです。イエスを救い主と信じるユダヤ人の視点を持って旧約聖書を見ることは、ユダヤ人ではない私たちにとっても、とても有益なことであって、私たちの信仰を立て上げてくれるものだと私は思います。新約聖書にあるへブル人への手紙は、そのような視点を感じさせる書だと思います。その中には旧約聖書の事がたくさん出て来ます。今日はへブル人への手紙からではなくて、旧約聖書から見ていきたいと思います。

■もう5年以上も前のことですが、朝日新聞の第一面の天声人語にこのようなことが書かれてありました。同じことを見聞きしても、人によって異なるとらえ方をするということです。紹介するお話は作り話のようですが、実際にありそうな話です。今の世界は、昔と違って、発展途上国の人々でさえビジネスのための大切なお客様です。どんなに安い商品であっても、買う人が大勢いるなら採算が取れるのです。

  ある企業がアフリカの国々で靴の商売を計画しました。マーケットリサーチのために二人の社員を派遣しました。その後、この二人の社員が戻って来たので、彼らの報告を聞きました。一人は、「まったく見込みがありません。住民は誰も靴を履きません。」と報告しました。もう一人は、「無限の見込みがあります。住民はまだ誰も靴を持っていません。」と報告しました。見てきた状況はまったく同じはずですが、二人の視点と分析結果はまったく違っていました。前者は、語っていることは事実であってまったく正しいのですが、未来に何の希望も可能性も見出していません。否定的であり、消極的であり、悲観的です。後者も、同様に、語っていることは事実であってまったく正しいのです。しかし、前者とは違って、未来に希望と可能性を見出しているのです。肯定的であり、積極的であり、楽観的です。クリスチャンは、後者の方でありたいと思います。

■似たような話が聖書にもあります。それは、エジプトから脱出して、モーセに導かれてついに神様の約束の地、食物が豊かに実るカナンの地に入ろうとしていたイスラエルの民に起こった出来事です。

  モーセは、カナンの地がどのようなところなのかを調べるために、12人の人々を派遣しました。リサーチの目的は、住んでいる民は強いのか弱いのか、多いのか少ないのか、土地は良いのか悪いのか、町は城壁で囲まれているのかどうか、そして、その土地になっている果物のサンプルを持って来ることでした。そのリサーチは40日に及びました。12人の調査隊は戻って来て報告しました。その中の一人が言いました。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこの果物です。しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、その上、私たちはそこでアナクの子孫(背が高く、体が大きい人々)を見ました。ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」12人のうち10人がこれと同じ考えでした。

   残りの二人、ヨシュアとカレブの調査結果は同じでした。やはり、豊かな土地と強い民が住んでいることを認めていました。しかし、この事実を見る視点が違っていました。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」「必ず、それができるから。」ヨシュアとカレブはカナンの地を占領できると思いました。その根拠は、神様の約束のことばでした。神様が彼らの先祖、アブラハムに語って以来、イスラエルの民が語り伝えてきた神様の約束のことばです。そして、ヨシュアとカレブは言いました。「主は私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」ヨシュアとカレブは、神様の約束のことばとともに、助けてくださる神、守ってくださる神、勝利を与えてくださる神、祝福してくださる神がともにいるから、大丈夫だと思っていたのです。

  この二者の間にある根本的な違いは何でしょうか。それは、同じ状況にありながら、自分たちとともにいて現実に働いてくださる神様を認めているかどうかの違いです。そして、自分の考えや思いよりも神様の考えや思いを第一にし、尊んでいるかどうかの違いです。

  神様はこのところをとおして、カナン(パレスチナ)の地がイスラエルに属するのか、それとも、パレスチナに属するのかを最重要課題として論じているわけではありません。目に見えない領域における原則について説明しているのだと私は思います。

  民数記14:1~4を見てみましょう。「全会衆は大声を上げて叫び、民はその夜、泣き明かした。イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。『私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ、主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。』そして互いに言った。『さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。』」

  私たちが、状況や状態にだけに心を支配されるとき、私たちは、主がともにおられるのだということを忘れてしまいます。そして、もうだめだとあきらめてしまうことがあります。さらに、不平を言い、不満を言い、つぶやいてしまうのです。しかし、そんな時でさえ、もしも私たちが、神様と神様のことばに心を向けるなら、希望と平安が再び私たちの内側から湧き上がってくるのを体験するでしょう。

■クリスチャンにはすばらしい祝福が備えられています。だからと言って、クリスチャンには何の問題もないわけではありません。クリスチャンであっても、この地上においては、許される困難があります。でも、神様はむやみやたらにそのようなことを許されるのではありません。神様には目的や考えがあるようです。最終的には、すべては、私たちの幸せのためであると、聖書は言います。申命記8:12~16にこのように書かれています。「あなたが食べて満ちたり、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れが増え、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。主はあなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、あなたの先祖たちの知らなかったマナを食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたを幸せにするためであった。」イスラエルの民に許された多くの困難は、最終的に彼らを幸せにするためであったということがわかります。もしも、祝福だけが私たちにあるのなら、いつしか私たちは神様のことなんて隅っこ置いてしまうようになるでしょう。時として許される困難は私たちに神様のことを思い起こさせます。そして、困難の先に、神様はまた、祝福を用意してくださっています。

  神様は、できないところから、できるに変えることの出来るお方です。自分にはもうできない、もう無理だと思うとき、神様が向きを変えて進むように導かれる場合と、そうではなくて続けて前進するように導かれる場合とがあります。そのような時、まずは、祈って神様に聞きましょう。聖書のことばに目を留めてみましょう。「必ずそれができるから」という信仰に導かれるときがあります。その時は、状況や状態に関わらず、失敗を恐れないで、できると信じて、努力して前に進んで行きましょう。もしかしたら、そのことをなすために、自分が思っている以上の時間がかかるかもしれません。もしかしたら、その結果、失敗ということも考えられなくはありません。しかし、失敗は無駄なことではありません。私たちにとって成長するためにとても貴重な体験です。また、失敗を通らなければ次のステップに進めないことも多くあるのです。失敗への恐れは私たちにとって、イスラエル人にとっての巨人、アナク人のようなものかもしれません。自分たちよりも強そうに見えるアナク人を恐れていては、前には進めません。

■モーセに導かれて、一度はカナンの地に入るように導かれたイスラエルの民でした。しかし、彼らがあまりにも状況や状態に心を奪われてしまったものですから、神様のことを忘れて、ただ、敵の大きさと強さに翻弄されてしまいました。結局、1回目のチャンスを逃してしまいました。その後、モーセのあとを受けてリーダーとなったヨシュアに導かれて、1回目の失敗から40年を経て、ついにカナンの地に入ることが出来ました。

  ヨシュアの意味は、イエスと同じ意味です。「救い」です。モーセは「律法の」象徴です。律法によっては誰も約束の地に入ることはできません。イエス様の救いによって約束の地に入ることが出来るのです。救いに関しては、イエス様によって必ずそれができるのです。モーセとヨシュアのことをとおして、ここでも神様は、イエス様の事や救いの事を表しているのだと思います。救いがあれば、私たちの人生はいつでも成功です。であるならば、何をやるにしても、できると信じて大胆に進んで行きましょう。それではお祈りします。