依存症状からの自由、神様の導きによって生きる自由

 

     21.10. 2018

 

                                     ローマ人への手紙6章14〜23節

 

  

                       依存症状からの自由、神様の導きによって生きる自由

  

 

   今日も、私達がどのようにすると自由になるのか教えている様々な神様の言葉の場所へと旅をしていきたいと思います。私達は、キリストを救い主、主として知るようになると、神様が、私達を引き下げることから私達を自由にし、私達を引き上げることを私達が自由にすることができるようにして下さる、そのような方法、仕方を発見してきました。現代社会において、多くの人が自由にされる必要を認めるものの大きな問題の一つは、依存症状(不健康なのめり込み)と言った分野におけることです。

 

  私の母国アメリカでは、オピオイド中毒症が大きな主要問題となっています。アメリカで毎年、薬物の過剰摂取により死亡する人は7万2千人で、その多くがこのオピオイドを含む薬物によるものです。この数はベトナム戦争全体で亡くなったアメリカ人の数より多いのです。しかもたったの1年間にです。

 多くの人は、ビデオゲームのように、命を脅かすものではないけれど、損害を被ってしまう依存症状を持っています。英国では、フォルトナというオンライン上のマルチプレイヤーシューティングゲームに、夫婦のどちらかがのめり込んだため今年既に200件以上もの離婚が起きていることが報告されています。

 

  皆さんは多分、“良かった。私は依存症状といったものがない。”と思っておられると思いますが、今日のメッセージは真に依存症状の対処を必要としているどなたかの為のものになることを願っています。でも、私達が時に我慢できなくなる(コントロールできなくなる)買い物のような習慣についてはどうでしょう? アメリカの人々は、昨年、宝石、書籍、電話機器といったものの購入に2000年に比べて2倍のお金を使いました。物を片付けて保管しておく貯蔵庫の数も2000年に比べて2倍です。 こんなに多くの物を生産する環境に対して、一体何をしなければならないのでしょう? 

 人々がそんなに多くのものを購入するために用いる債務(資金)は、周りの必要としている人々を助けるための力(能力)に対して何をしている(どのように影響している)のでしょう?

 

これらは現代の依存症状となるもので、人間はいつの時も、使い方を誤る時に幸せではなく大きなダメージをもたらすこれらのものに頼りすぎてきたのです。今読んだローマ人への手紙6章の著者のパウロは、コリントの町の違うグループのクリスチャンに手紙を書いています。コリント人への手紙6章9節〜11節前半で、パウロは、キリストに従っていると言っているコリントの人々が未だに犯してしまっている数々の罪をコリントの人々に突き付けています。

  「 正しくない者は神の国を相続できないことを知らないのですか? 騙されてはいけません。性的に不品行な者、偶像崇拝をする者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む 者、 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することはできません。」

 

これらのリストに何があるかお聞きになりましたか? 本当に多くのことが私達全てに当てはまるのではないでしょうか? 男性、女性、高齢者、若年者、富む者、貧しい者、同性愛者、異性愛者、これらのどれかである私達全てはその生活において神様を喜ばすことのできない部分があります。私達の文化はある種の罪をことさら重いものとし、その他のことを都合よく忘れてしまう 傾向があります。例えば全ての種類の性的な罪は非常に注目を集めます、しかしパウロは、それらと共に貪欲さや真実を言わないというようなことを加え本来の正しい状態にしているのです。

 もし私が、休みの日でさえ、仕事を止めることができないのなら、私は多分、“仕事中毒”かもしれません。もし私が、誰かに話しかけられているにもかかわらず、スマホを置くことができないとしたら、もし私がちょっと自由な時間があって、特に理由もなく何かの明るく光るスクリーンを見て、その時間を埋めようとするのであれば、私は自由な人間であることをやめていることになるかもしれません。一昨日のNHKニュース放送によれば日本の中高生の93万人がインターネット使用の依存症になっています。現在の健康、体の発達、そしてその生徒たちの将来と命そのものへの脅威となっているとのことです。

  もし私が、自分の仕事でもっと収入を得ようとして、いつも、決まりや法律を無視できる方法を探しているとしたら、欺く習慣が自分の従う主人になってしまうと聖書は言っています。もし私が、お店に行って何も買わずに出て来ることができなかったら、“買い物依存症”に捕まっていると言うことです。 もし私達が正直であるなら、私達全ては多分、私達の生活のある分野においては、何らかの依存的な行動があることがわかるでしょう。

  これは小さな問題ではないのです。イエス様御自身もヨハネによる福音書8章34節前段で “罪を行なっている者は皆罪の奴隷です。” 、 ペテロの第2の手紙2章19節後段で、 “人は誰かに征服されれば、その征服者の奴隷になるのです。” と仰っています。

 またパウロもローマ人への手紙6章16節後段で、“あなた方が自分を捧げて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷となる・・“  と言っており、また、これは一般の概念ではなく、個人的なものではありますが、20節前段で、”かつてあなた方は罪の奴隷であった。“ とも言っています。 

  私達は自分自身を奴隷だとは思いたくないかもしれません。私達は自分を、自由にされた人として生き、伝統や決まりを改革していくことを恐れない、大胆で、自由に考えることのできる人間だと思いたいのかもしれません。しかしパウロは16節後段で、”自由と言われるある種の行動は本当の自由を破壊する。“ と指摘しています。より完全な自由を得ようとする私達の闘い(葛藤)においては、私達は自由を誤解し結果としてかえって私達を縛ってしまうことをしてしまう可能性も大きいのです。 

 そのような種類の問題の渦中にある人々ーそれは私達のようでもありますがーには、神様がローマ人への手紙6章にある希望の言葉を与えて下さっています。神様は、自分の人生を神様の御手の中に置いている人々に、 (1)罪は自分の主人ではない。(2) キリストが自分の主人であり、(3)キリストを主人として共に生きることは事実、自分を自由にする、と教えています。

  今日は、これら三つのことに絞って見ていきましょう。

 

 (1)キリストに従うと自分自身で決心している人々に対して、パウロは14節で、“ 罪はあなた方の主人にはなりません。 “ と強い主張をしています。パウロは、” 罪はあなた方の主人であ るべ きではない” とか ” あなた方の主人である必要はない“ と言っているのではなくて、”ならない。“  と言っているのです。同様に、6節後段では、既に ” 私達はもはや罪の奴隷ではありません。“ と言っているのです。なので22章前段で、” あなた方は罪から自由にされてい  

る。“ とあるのです。

パウロはクリスチャンである私達に、私達は罪に死んだと言っています。それはただ単に私達の罪が許されているという事を超えています。パウロはキリストに従う者達がしばしば陥る珍しくない問題をはっきりと特定しています。私達にとって、キリストの十字架上の死にもとづいて神様に許しを乞い、キリストを個人的な救い主として心に迎え入れ、自分の罪を悔い改めることは割と可能なことですが、しかしながら、その先には決して行けていないのです。もし、私達がその段階で止まってしまっているのであれば、私達は福音の一部分にしか生きていません。私達は赦しを受けているものの、罪の力からの解放を一度も経験していないクリスチャンかもしれません。自分をクリスチャンと認識して罪を赦されているのに、引き続き罪に支配の下で生活している人が多いのです。そのような人達は、自分たちの生活をキリストに支配の下に置くことを学んでいないのです。クリスチャンの信仰の中心は、イエス様が救い主であり主だという教えです。もし私達が(イエス様が)救い主であるという部分だけを受け取って、日々の私達の思い、言葉、行動をイエス様の支配下に置く方法を学ばないのであれば、私達は主であるイエス様を知ることはなく、完全に自由な人間として生きることはないでしょう。

 

メッセージバージョン訳聖書の6章2〜3節は、どのようなことが依存症状から自由にするかを明白に言い表しており、それは新しい家に例えられています。

 

” もし罪が治める国を出ているのなら、どうしてそこにある古い家に住み続けることができようか。それとも荷造りして、そこを永久に出て行ったことに気がつかなかったのですか?これはバプテスマの時に起こることです。水に入る時に古い罪の国を離れ、水から上がる時に、恵みの新しい国、新しい土地の暮らしに入るのです。“

 

私達が信仰によってイエス様を知るようになる時、私達は神様との新しい関係に入り、同時に罪に対しても新しい関係に入るのです。罪は未だに私達の敵です。しかしそれは私達の主(支配者)ではありません。罪に対する罰について、福音の核心の中心的事実は、あなたは清らかだということです。しかし、罪の力の中心的な事実は、“あなたは自由である” です。

罪はもはや皆さんの主ではありません。罪の存在はまた違う問題です。それは未だに私達の生活の一部であり、私達がこの世界にいる限り居続けるのです。

私達は決して闘わない(葛藤しない)し間違わないという人にはなれません。しかし、私達には新しい、キリストからいただいた人格があります。私達は徹底的に再び作りかえられている過程のただ中にいます。ですから、私達はもはや自分の人生の運転席にいて実際に罪と共に生きることはないのです。私達はより良いもののために作られています。またそのように現実的に合致して(従って)生きる術を学んでいるのです。

 

ビクトルユーゴの有名な小説、レミゼラブルで、ジャンバルジャンは一欠片のパンを盗んだことで19年間監獄に入れられた男です。監獄を出た彼は、いまや身体的には自由となりましたが、監獄生活は彼を強情で壊れた人にしてしまいました。その後、彼は盗みをして捕まった司祭から警察に渡されずに、正直な人としてやり直すよう導かれ親切にされます。このことはジャンにとって人生を変える出来事でしたが、そこにはまだ、古い自分と新しい自分との間の強い闘いあったのです。

ある日、ジャンの目の前で子供が一枚の銀貨を落としてしまいます。彼は足でその銀貨を踏みつけ返すのを拒みます。男の子が恐ろしさのあまり逃げて行ってしまった時、ジャンは自己と向き合わなければならなくなります。そこで彼は未だに元の人間であることを見てショックを受け恐怖するのです。彼は正直な男になりたいと思っています。しかし、そこにはまだ彼を支配する無慈悲な心があるのです。ジャンは何時間もの間、自分のしたことを深く後悔し心の内で非常に苦しみます。

ここでユーゴは、自分を支配している罪から背を向けるためのジャンの内部における葛藤と大きくなってくる決心について描写しています。ユーゴはジャンがコインを取ったことについて、” 彼は、もはや自分がすることのできない行為をしてしまった。“ と言っています。

 

私達がキリストに従うことを始める時、罪は神様が私達の内に作り始めた新しい精神、新しい心、新しい性格に反する何かになります。私達がジャンのようにキリストの内に成長するにつれて、罪を犯すことは私達の性格にない、私達が今ある性質に合わない何かになってしまうことを私達は知るのです。私達はそれでも罪を犯すことができるし、実際にしてしまう、これは疑いの余地がないのですが、それはもはや私達に相応しい行動ではないのです。私達にとっては嫌な臭いがするものなのです。

  

パウロはそれが何故かを言っています。私達がバプテスマを受けた時に、私達はキリストとその死とともに一緒に葬られたと4節にあります。8節では、“ 私達はキリストと共に死んだのです。”とあります。死んでいる者は悪いことはしませんよね? ですから、神様は、罪を犯す意思がなくなってしまうまで、私達自身が既に死んでしまっていると考えるよう教えています。言い換えるなら、私達は “私の飲酒の習慣はキリストと共に十字架にかけられた。”、 “ポルノのウエブサイト閲覧を止める葛藤はキリストと共に十字架にかけられた。”  “収入の一部を税金申告しないと言う計画はキリストと共に十字架にかけられた。” と言うことができるのです。罪はもはや私達の主(支配者)ではないからです。

 

(2)いまや、キリストは私達の主(支配者)なのです。これは良いニュース(知らせ)で22節では、” 神はあなた方を神の奴隷としました。“ とあります。次の章を読むと、罪がパウロを捕らえている支配の状況を語っていることが分かります。14節からでは引き続き次のようにも言っています。” 私は私がしたいと思う良い事をしておらず、かえってしたくないと思っている悪事をし続けています。(19節)“  パウロは、罪の力から自由になることの内なる葛藤を非常に正直に語っています。

 

最後に、彼はほとんど絶望して、尋ねています。(24節後段)”一体誰が私の身体に死をもたらすこの罪から救って下さるのか?“。 この質問の言葉の使い方が重要なのです。パウロは、” 何が私を救うのか?“ とか、”どのようにしたら救われるのか?“ と訊いているのではなく、正しい質問をしています。私達も自分の依存症状を見て、”何が“や”如何にしたら“ で始め、精神的訓練(祈り、断食、その他)や、運動、医師による投薬、アカウンタビリティグループ(日常生活の中でキリストに従うように励まし合うグループ)、カウンセリング、その他のことを通じて抜け出そうとするかもしれません。それらは往々にして良い事ですし、重要なやり方として助けにはなります。しかし、それらだけでは、神様の言葉が私達に語っている肝心な部分が抜けているので十分ではありません。それはキリスト御自身のことです。パウロは自分の質問に答えて7章25節で、”私は神に感謝します。神は私達の主であるイエスキリストを通してそれをして下さるからです。“ と言っています。

 

これこそが、パウロが6章14節後段で ” 神の恵はあなた方を自由にしています。“ と私達に言っていることの意味です。そして18節で、” あなた方は罪から自由にされています。そしてあなた方は正しい生き方の奴隷になりました。“  また6章の初めの部分で、キリストと一体化することを通して依存症状からの自由が如何にして可能かを述べています。6章4節(メッセージバージョン)では、” 私達が水の中に降ろされる時、それはイエスが葬られるのと同じようなことなのです。私達が水から引き上げられる時、それはイエスの復活のことのようなものです。“  私達はイエス様が死なれたように罪に対して死ぬものなのです。私達はイエス様のように新しい命に引き上げられ、罪にではなく、イエス様の支配によって生きるのです。メッセージバージョンが16節後段から18節でそのことを書き入れています。私の好きなところです。” あなた方の生活全で、あなた方は何をするかを罪に言わせてきた。しかし神に感謝なことには、いまやあなた方は新しい主人に聞き始めました。そのお方ご命令はあなた方を、そのお方の自由の中で堂々と自由に生きるようにされるのです。”      

  

キリストに感謝すべきは、皆さんは天におられる父の導きによって生きることを自由に選べるのです。罪はもはや皆さんの支配者ではなく、キリストが皆さんの主なのです。

 

(3)皆さんが人生をキリストの御腕に置いて、キリストを主として、キリストととともに生きる時、それは皆さんを自由にします。そこには逆説がありますね。私達は自由を、私達が望むことを、たとえそれがどのような種類のことであっても、なんでもすることができると考えます。

 

 ですが、人生はそのようにはいかないと聖書で神様が教えています。実際には、私達がなんであれ自分のしたいと思うことをすると、自分勝手で愛がない動機で始めてしまい、大きな苦労や問題が表れるのです。聖書では、私達がキリストの導きに私達自身を委ねることを選ぶ時、より平安な人生が可能であると教えています。

 例えばヤコブ書1章25節、2章12節では、興味深い言い回しを使って表しています。

 “ 自由の律法(キングジェームス訳)ただ愛深く賢い神は、人の社会を導く良い律法作る。これに従うことはなんら制限するもの自由を奪うものではなく、実際には一番大きな種類の自由な生活を通して我々を導いてくれるものだ。”

 

 神様が神様の言葉によって私達に、キリストを主とするよう言う時、神様は私達に自分の人生を諦めて別人になるようにとは仰いません。神様は、私達がどのようにして、真実で最高の自分自身を見つけ、神様の愛と知恵によって神様の子供として神様が用意して下さった人生を生きることができるかを語っておられるのです。他の言い方をすると、そのメッセージは “ 本当の自分自身になりなさい。” ということです。キリストにあって、本当の自分自身に見合うように生きなさいということ、神様によって造られた人として生きなさい。神様の子供として自分自身として生きなさいということです。 

 

 そのことのためには、自分自身ではない誰かとして生きることをやめなければなりません。でも、それは著しく困難で長い時間と本当にそのことができる前に調整が必要です。例えば多くの時差を超えて旅をして時差ボケになったと考えて下さい。このような経験がおありなら本当に自分がいるところで新しい現状に慣れるために時間が掛かるとお分かりでしょう。しばらくの間は、眠っていたいと望む時に、身体は起きる時間だと言っているような具合です。そして起きていたいと思う時に、身体はその思いに逆らって眠りを要求します。

 

  では、どうすれば良いのでしょう?  その後の生活で昼夜を逆転させ続けることもできますし、もっとできそうなのは、今いる時間帯に合わせるために、例え気分が良いとはならなくとも、自分の行動を変えるプロセスを行なっていくことです。それは時間がかかり努力も必要で、意図して自分が現実にいる場所で生活することを学ぶということです。

 

 もう一度言いますが、神様の私達への御命令は、「自分自身になりなさい。」ということです。

 

 神様の子供として造られた現実に生きるという事です。自分の考え方、言動、行動をそういったアイデンティティに合致するようにすることです。

 皆さんは、完全に赦され、愛されている神様の子供であって、ご自分の人生を父なる神様の御手に委ねているのです。この事実が皆さんの毎日の生活の指針となるのです。

 

   1865年にアメリカの南北戦争が終結したのち、多くのアフリカ系アメリカ人が法的には自由になりましたが、彼らの全ての問題がなくなり、なにもかもが突然素晴らしくなった訳ではありません。何年もの間束縛されて生きてきた後では、既に法的には認められているはずの、経済的、政治的そして社会的、精神的に現実を生きるための闘いが継続していたのです。

 

  同じように、私達が神様の子供として真実のアイデンティティに生きることを学ぶ時、私達には闘いがあるのです。私達には、私達自身についての真実を自分に対し語る習慣が必要です。私達はこの世における残りの生涯で依存する罪と闘っていくことになるでしょう。しかし、最後は神様が勝つのです。最後には、神様の助けによって私達は勝利し、罰から、権力から、また罪の存在からでさえ自由になり、神様とともに天の御国で永遠に生きるのです。

 

 このことが今日私が皆さんに届けたいよき知らせです。そのことの故に神様を褒め称えます。

 

 さあ、祈りをもって神様の身許へ参りましょう。

 

  忍耐強く、力強い、愛するお父様。聖書(第1コリント10章13節)にあるあなたの約束、私達が耐えることのできない試練をあなたはお与えにならないということを覚えます。

  あなたは、私達がその試練に耐えることができるようにそこから逃れる道をも私達に与えて下さいます。この約束をしっかりと握って掴んでいられますよう助けて下さい。あなたの助けなしには、私達は、様々な依存症状に打ち勝つことができません。ですから、私達がいつもあなたに向き直り、心の目をあなたの御顔に向けることができるよう教えて下さい。私達の全ての本当の必要を満たすため、あなたに信頼することを、日ごとに経験できますように助けて下さい。誘惑がやってきた時に打ち勝てる力をお与え下さい。私達が日々、どんなに勝利し、また失敗しても、あなたの御前であなたが与えて下さったあなたの子供であるという地位を変えるものがないことを感謝します。あなたの変わることのない驚くべき恵みに固く立つことができるようにして下さい。

キリストの力強いお名前によって祈ります。アーメン 

      

参考

 

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https://www.yahoo.com/lifestyle/em-fortnite-em-now-responsible-132351950.html

 

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http://www.online-literature.com/ victor_hugo/les_miserables/27/

 

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https://www.drugabuse.gov/related-topics/trends- statistics/overdose-death-rates

 

Semuels, A. (August 21, 2018). “We Are All Accumulating Mountains of Things: How online shopping and cheap prices are turning Americans into hoarders.” The Atlantic.

 

Smith, C. S. (May 13, 2013). “You Are Free.” Unlocking the Bible. Retrieved October 12, 2018 from

https://www.youtube.com/watch?v=9b1abBsxFls&t=389s