サムソンの十字架

2018年10月14日主日礼拝「サムソンの十字架」士師記16:28~31

佐々木俊一牧師

■今日のメッセージタイトルは「サムソンの十字架」です。サムソンの十字架?何それ?

なんか変なことを言うんじゃないだろうか。異端的。そんな風に思われる心配もあります。私たちは言葉の使い方に注意しなければいけません。「十字架」という言葉は旧約聖書には出てきません。「十字架」という言葉の意味として、苦しみとか、困難とか、使命とか、従順などの意味で用いられることがあるかと思います。その意味で、今日はあえて「サムソンの十字架」というタイトルでお話しをしたいと思います。

■旧約聖書に「士師記」という書があります。そこに、12人の士師が出て来ます。「士師」とは、「治める者、裁く者」という意味です。旧約時代のいつごろかというと、ヨシュアとサムエルの間、BC1300年とBC1100年の間くらいでしょうか。今から3000年以上前のことです。サムソンは12人目、最後の士師でした。その後しばらくしてから、イスラエルでは周辺の国々に対抗するために強い指導者、王様を立てるようになっていきます。

■士師記16章には、ペリシテ人が出て来ます。ペリシテ人と言ったら、エラの谷でのダビデとゴリアテの戦いを思い起こすのではないでしょうか。ゴリアテは3メートル近い巨人でした。そして、ペリシテは、パレスチナの語源にもなっていると言うことを以前にお話ししました。ある意味、イスラエルとペリシテの戦いは、時を超えた長年にわたる戦いとも言えなくありません。しかしながら、ペリシテ人とパレスチナ人は民族的に異なると聞きました。ペリシテ人は、もとは海洋民族でした。ですが、パレスチナ人はアラブ民族であり、遊牧民です。でも、ガザという地名はサムソンの時代にすでにありました。場所もほぼ現在と同じです。

  ペリシテ人には、「ダゴン」という神がいました。もちろん、それは本当の神様ではありません。単なる偶像です。彼らは神殿に集まって、ダゴンにいけにえをささげ、お祝いをしていました。「我々の神は敵サムソンを我々の手に渡してくださった」と言ってダゴンの神をほめたたえていました。彼らはサムソンを連れてきて、見世物にし、笑いものにしていました。この時、この場所には、ペリシテ人の有力者たちを含めて3000人以上の人々が集まっていたと思われます。

■サムソンという名前はみなさんよくご存知かと思います。体が大きいとか背が高かったとは書かれていませんが、怪力男であったことは確かです。サムソンについては、士師記13章から16章の4章に渡って書かれています。父親の名前は、マノアと言います。母親の名前は記されていません。マノアの妻とだけ書かれています。マノアの妻は不妊の女で、子どもを産んだことがありませんでした。そのマノアの妻に、ある日、主の使いが現れました。そして、「あなたは身ごもり、男の子を産む」と告知されました。このようなパターンは聖書の他の箇所にも見られます。神様は子供が欲しいのになかなか与えられない女性をよく用いられるようです。

  さらに、その子はナジル人であることが告げられました。「ナジル人」とは、「聖別された者」という意味があり、神様の働きのために特別にささげられた人なのです。ナジル人には厳しいきまりがありました。ぶどう酒や強い酒を飲んではならず、死体などの汚れたものに触れてはならず、そして、髪の毛を切ってはなりませんでした。サムソンがナジル人としてそのきまりに忠実であったかどうかについては疑わしいところがありますが、髪の毛を切ってはならないと言うことについては忠実に守っていたようです。サムソンの怪力の秘密は髪の毛にあったからです。

■サムソンの生きていた時代背景について少しお話しをしたいと思います。士師記13:1に、「イスラエル人はまた、主の前に悪を行ったので、主は40年間彼らをペリシテ人の手に渡された」とあります。ヨシュアの時代は他の民族に圧勝し、領土をどんどん広げていきました。しかし、ヨシュアの死後、イスラエルの民には以前のような強さはありませんでした。逆に、他民族の支配を受けるようになってしまいました。それとともに、神様との約束を捨てて、偶像礼拝やその習慣に妥協し、影響を受けてしまったイスラエル人が増えていったのではないかと推測します。サムソンの時代においては、ぺリシテ人の方がイスラエル人より強かったのです。ですから、ぺリシテ人がイスラエル人を支配していました。

  しかし、そんな中でも、サムソンの両親はしっかりと真の神様を信じて従っていた人々であったと思われます。サムソンの結婚についても、イスラエル人との結婚を望んでいました。それに対して、サムソンはというと、自分の気に入ったぺリシテ人女性との結婚を望みました。その時のことが、士師記14章に書かれています。サムソンとそのペリシテ人女性とは結婚式をあげました。ところが、その結婚は失敗に終わってしまいます。

■サムソンは結婚式の場でどういうわけか自分が招待した30人の客になぞなぞを出しました。もしもその答えがわかれば、高価な亜麻布の着物30着と晴れ着30着をあげると約束しました。もしもわからなければ、反対に着物30着と晴れ着30着をくれるように要求しました。そのなぞなぞというのは、「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た。」というものです。なぞなぞと言っても非常に個人的な体験をもとに作られたなぞなぞです。他の人が答えられるような問題ではありませんでした。食らうものと強いものが同じ答えです。そして、食べ物と甘い物が同じ答えです。それが何かというのが問題です。

  サムソンが招待した30人の客人たちは三日考えてもその答えがまったく分かりませんでした。そのため彼らは、サムソンの妻を脅迫して答えを聞き出そうとしました。その脅迫とは、サムソンをくどいて答えを教えろ、教えなければ父親とその女とを焼き殺すぞ、というものでした。やることがなすことがとにかく激しく野蛮だったのです。サムソンの妻は、何とかその答えを聞き出しました。そして、その答えを彼らに教えました。ぎりぎりセーフで彼らはサムソンに答えを伝えました。サムソンは、彼らが自分の妻から答えを聞き出したことに気が付きました。すると、その時、主の霊がサムソンの上に下ったとあります。そして、彼らをやっつけるのではなくて、アシュケロンという町に住んでいる他のペリシテ人30人を襲って晴れ着を略奪し、それを彼らに与えました。その後、サムソンは怒って父の家に帰ってしまいました。それからしばらくたって、サムソンは一匹の子ヤギを持って妻の家に戻ってきました。そしたら、妻の父親が出てきて、娘はサムソンに嫌われたと思って結婚式に来ていた客の一人にあげたと言うのです。それを聞いたサムソンは、怪力を用いてジャッカル300匹を捕まえました。しっぽとしっぽとをつなぎ合わせてその間にたいまつを取り付けました。それに火を付けて300匹のジャッカルをペリシテ人の麦畑やオリーブ畑に放しました。彼らの畑は燃えて大損害を受けました。今度はペリシテ人が仕返しのために、その父と娘を火で焼き殺してしまいました。目には目を、歯には歯を、報復に対しては報復を繰り返し続けました。

■サムソンは再度ペリシテ人に仕返しをし、その後しばらくの間、身を隠しました。しかし、その間に、ペリシテ人がユダの町を襲って仕返しをしました。ユダの町の人々は、ペリシテ人に報復するのではなくて、サムソンを探し出してサムソンをペリシテ人に差し出そうと考えました。サムソンには仲間であるイスラエル人を傷つけるつもりはまったくありませんでしたから、サムソンを見つけるとサムソンは抵抗することなくイスラエル人に捕らえられて、ペリシテ人に差し出されてしまいます。

  このところで、サムソンと仲間であるイスラエル人との関係がどのようなものであったのかを考えてみたいと思います。この時代、イスラエル人はペリシテ人の支配を受けていました。それは、規模としては比較にはなりませんが、ずっと後の時代になってイスラエルがローマの支配を受けた時のように、支配されている状態から自由になりたいと願いつつも、サムソンがペリシテ人をやっつけるたびにペリシテ人の報復があるので、サムソンのこともあまりよく思っていなかったのではないかと思われます。

  イエス様がこの地上におられた時、多くのユダヤ人はこの方がローマの支配から自分たちを自由にして自分たちの国を作ってくれるのだと期待しました。けれども、その期待が薄れてくると、今度はこのイエスという男のせいでローマから何か報復されるようなことがあれば大変だ、イエスをどうにかしなけらばいけないと思うようになります。このところをとおして、サムソンの置かれた状況が、救い主イエス・キリストが置かれた状況を預言的に表しているように私には思えます。サムソンには、どこかイエス・キリストを表しているところがあると言ってよいと思います。

■その後も、サムソンとペリシテ人の間で報復合戦が繰り返されました。そして、ついに、サムソンはデリラという女性を愛したことで、サムソンの怪力の秘密が暴かれ、ペリシテ人に捕えられてしまうことになります。彼らはサムソンの両目をえぐり出し、青銅の足かせをかけてガザの町の牢屋に閉じ込めました。サムソンはそこで石うすを引かされて何とか生きていました。時は過ぎて、サムソンの剃られてしまった髪の毛が、また伸び始めていました。

  サムソンは、ダゴンの神殿に集まってお祝いをしていたペリシテ人たちの前に連れ出されました。そして、見世物にされ、笑いものにされました。この時、3000人以上のペリシテ人がいました。

■士師記16:28~29 サムソンは主に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、このひと時でも、私を強めてください。私のふたつの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」そして、サムソンは、宮を支えている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それによりかかった。

  これは、サムソンの最後の祈りです。サムソンが大勢のペリシテ人から辱められ、馬鹿にされ、非難された時のサムソンの祈りです。この時ほどサムソンが神の御前に自分を低くし、従順であったことはありませんでした。サムソンは、二本の柱にちょうど十の字になるような形で両手を広げて立ちました。この時のサムソンの祈りが、特に初めの部分はイエス・キリストが十字架に架けられた時の叫びにも似たような祈りを表しているように思えます。また、二本の柱に両手を広げて立つ様は、イエス・キリストが両手を広げて十字架に架けられている様を表しているようにも思えます。この最後のサムソンの姿は、サムソンに与えられた、どうしても通らなければならない苦しみであり、使命であり、そして、サムソンは従順に神の御心に従いました。

  こうして、サムソンは死んでゆきました。31節にあるように、彼の兄弟や父の家族の者たちがみな下って来て、彼を引き取り、父マノアの墓に彼を運んで行って葬ったとあります。イエス様が神様の働きを始められたころ、ナザレの人々にも兄弟たちにも冷たい態度で迎えられました。けれども、イエス様が十字架に架けられ死んでよみがえられた後は違っていました。イエス様の兄弟がクリスチャンとなり弟子となっていました。もしかすると、サムソンも兄弟や親類の者たちから理解されていなかったのかもしれません。しかし、サムソンの最後の姿を知った人々は、サムソンから多くの勇気と希望をもらったのではないでしょうか。そして、神への信仰と従順を回復していったのではないでしょうか。確かに、この後、イスラエル人はペリシテ人に対する弱腰の姿勢は消えていきました。そして、それは、ダビデへと引き継がれ、イスラエルの国が確立していったのです。

  終わりに、サムソンの上に主の霊、つまり、それは聖霊です。聖霊の力と働きがサムソンをとおして現わされました。その用い方には議論の余地があるでしょう。それはそれとして、イエス・キリストを信じる者たちは聖霊を受けていることを覚えてください。それは、もちろん、救いのためですが、それだけではありません。この地上で、神様に仕えるため、神様の働きをするためです。

  私たちには、時として私たちが望まない困難や苦しみの中に置かれることがあります。けれども、そこにはいつも神様が共にいてくださることを覚えましょう。そして、そのような中にあっても、その出来事に翻弄され、その中に落ち込んでいくのではなくて、かえって、その出来事をバネにして、神様の働きに用いられる者、神様に仕える者になってゆけるように祈りたいと思います。それではお祈りします。