何があっても主から離れない!

2018.9.23主日礼拝「何があっても主から離れない!」

詩篇51:1~13 佐々木俊一牧師

■先日、リトル・トゥリー・テクアウェイで芳飯を味わいながらバイブルディスカッションの時を持ちました。バリーさんが詩篇103篇をとおして導いてくれました。3つのグループに分かれてその箇所を思い巡らし、お互いに分かち合いました。そして最後にまとめたものを各グループの代表が発表しました。とても有意義な時間を過ごすことができました。ダビデによって書かれた詩をとおして、私たちは神様の恵みをより深く知ることができました。

■私も詩篇をよく読みます。それは、ダビデの生き方や信仰の姿勢が私にとってとても参考になるからです。それは、良い事においてもそうですし、悪い事においてもそうなのです。また、良い時においてもそうですし、悪い時においてもそうなのです。

 今日は、まず、詩篇51篇を一緒に見ていきたいと思います。初めに、「指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテシャバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」となっています。

「指揮者のために。ダビデの賛歌。」とあります。これらの詩篇は神に礼拝をささげる時に歌われたものです。ダビデは楽器を担当する者たちや歌う者たちを選んで神様に礼拝をささげました。当時、エルサレムには二つの幕屋がありました。ギブオンの山にはモーセの幕屋がありました。そこでは律法に従って動物のいけにえがささげられていました。その一方で、シオンの山にはダビデの幕屋がありました。そこでは感謝と賛美と祈りをもって礼拝がささげられていました。興味深いことに、この時、モーセの幕屋の至聖所にあるはずの「契約の箱(神の箱)」はダビデの幕屋に置かれていました。契約の箱とは、地上の神の御座であり、神の臨在を表すものです。Ⅰ歴代誌16章を見るとそのことがわかります。このことによって、モーセの幕屋で行われていた伝統的な礼拝には神様がおらず、ダビデの幕屋で行われていた新しいスタイルの礼拝には神様がおられることを意味するのです。つまりこれは、将来の礼拝についての預言的な出来事です。イエス様が言われたように、これこそが霊と真によってささげられる礼拝なのです。

■次に、「ダビデがバテシャバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」となっています。バテシャバはダビデの妻の一人です。しかし、以前のバテシャバの夫は兵士のウリヤでした。

 マタイの福音書1章にイエス・キリストの系図があります。その中に5人の女性だけ名前が出て来ます。タマル、ラハブ、ルツ、バテシャバ、マリヤです。みな訳があってとても肩身の狭い境遇にあった女性ばかりです。もっと系図にふさわしい女性がいたのではないかと思うのですが、神様はこの5人の女性を選びました。タマルは、訳があって義理の父ユダに子を産みました。ラハブは、訳があってエリコの町のカナン人の生き残りでした。彼女は遊女でした。しかし、イスラエル人サルモンに子を産みました。ルツは、モアブ人でしたが訳があってイスラエル人の中に住むようになりました。ルツはカナン人ラハブの息子ボアズに子を産みました。ボアズはダビデの曽祖父です。バテシェバは、訳があってダビデにソロモンを産みました。家系図の中では、バテシェバの名前は伏せられていて、ウリヤの妻となっています。そして最後に、マリヤの夫、ヨセフにイエスが生まれた、とは書かれていません。訳があって、イエスはマリヤから生まれた、になっています。それは当然です。マリヤはヨセフによってではなくて、聖霊によってイエスを身ごもったからです。イエス・キリストの家系図に出てくる女性たちはみな訳があって大変な目にあった方々ばかりでした。しかし、共通して言えることは、彼らには真の神様へのしっかりした信仰があったと言うことです。

■ここでバテシェバについてお話ししたいと思います。詩篇51篇の初めに、「ダビデがバテシャバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」となっていました。英語の聖書では、はっきりと、「ダビデがバテシェバと姦淫を犯したのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」となっています。たぶん原語がそのようになっているのだと思います。ダビデがバテシェバと姦淫を犯したことが、すべての不幸の始まりでした。

 Ⅱサムエル11章と12章にこの一連の出来事が書かれています。バテシェバはダビデの子を身ごもりました。ダビデはその事実を隠すために偽装工作を企てました。バテシェバの夫ウリヤを戦場から呼び戻し、家に帰らせて休みを取るように言いました。しかし、ウリヤは立派な人でした。家に帰ってバテシェバと過ごそうとはしませんでした。自分の仲間が戦場で戦っているのに、自分だけが家でゆっくりくつろぐことはできない、とダビデに言いました。結局、ウリヤは自分の家に帰ることなく再び戦場に戻って行きました。ダビデの企ては失敗に終わりました。そして、ダビデの企ては、ウリヤ戦死の偽装工作へと進んで行くのです。それは、ウリヤの上司でありダビデの部下であるヨアブとの間で綿密な計画を立てて行なわれました。

■ダビデの犯した姦淫の罪と殺人の罪は、ダビデとヨアブ以外は誰にもわかるはずがありませんでした。しかし、神様は見ておられました。預言者ナタンはその事実を神様から知らされたのです。そして、ダビデのもとに行き、その事実を暴露しました。ナタンはダビデに言いました。「わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。」そして、主はこう言われました。「聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。」ダビデはナタンに言いました。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言いました。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」ダビデはこの出来事によって死ぬことはありませんでした。王位が奪われることもありませんでした。ダビデの罪は神様のみ前に赦されたのです。しかし、この罪によってまかれた種の結果を一生かかって刈り取ることになります。この時から、ダビデの家庭は不和が生じ、壊れ始めました。王国は内部に権力争いが起こるようになりました。ダビデの家庭も王国も不安定になり、平安を失って行くことになります。

■詩篇51:1~4を見てみましょう。 ナタンによって罪を暴露された時のダビデの心情です。ダビデは自分の罪を認めて、その罪を悔いていることがわかります。ダビデは神様が恵み深く、情け深く、あわれみ深いお方であることを知っていました。ダビデは神様に自分の罪を拭い去り、洗い去り、完全にきよめてくださるように願い求めています。

 次に、詩篇51:5~9を見てみましょう。ダビデは生まれながらの罪人であることを告白しています。7節で、ダビデは、ヒソプでその罪を除き、きよめてくださるようにお願いしています。ヒソプとは、植物の名前です。しそ科の雑草で花は香りがしません。けれども、葉をちぎったり、茎を折ったりすると良い香りが漂うのだそうです。イスラエルの民がエジプトを脱出する際、家の門柱とかもいに小羊の血を塗るためにこのヒソプを用いました。7節にあるヒソプは、イエス・キリストを表していると言ってよいでしょう。ヒソプは折られたり痛めつけられたりするとよい香りを出すのです。イエス・キリストも同じように十字架の上で痛めつけられ砕かれて、そして、その血潮は私たちの罪を取り除き、罪なき者にしてくださいました。私たちは雪よりももっと白くなるほどにきよめられ、完全に罪なき者とされたのです。

 詩篇51:10~13を見てみましょう。 ダビデは、姦淫と殺人によって人を不幸にしておきながら、どうしてここまで大胆に神に願い求めることができたのでしょうか。あまりにも調子が良すぎると思いませんか。しかし、それほどまでに、神様の恵みは大きいのだと言うことができるのです。ダビデは、自分が人を裁くことのできるような正しい人間ではないことや、王としてふさわしい人間とは言えないことや、自分が生まれながらにしてどうしようもないただの罪人であることを思い知らされたことでしょう。そして、自分の生まれながらの罪深さを自分の力ではどうすることもできないことや、それについてはただ神様に願い求めるしかないことに気づかされたことでしょう。ですから、ダビデは何が何でもただ神様に願い求めるしかなかったのです。「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」つまり、それは、御霊によって新しく生まれることです。「私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。」ダビデは聖霊の力と恵みを体験していたのです。ですから、ダビデにとって聖霊は重要でした。「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。」人は罪を犯し、罪の中にいるとき、主にある喜びが消えてしまいます。また、主を礼拝することや主に仕えることが喜びではなく苦痛になってきます。そして、だんだんと礼拝することができなくなってしまうのです。ダビデが自分の罪を秘密にしている間、そのような状態だったのでしょう。「私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。」ダビデは自分ほどの罪人を赦してくださり再びやり直す機会を与えてくださった神様の愛と恵みを体験したはずです。そして、ダビデは、そんな神様の愛と恵みと救いの道を人々に教えたいと心から思ったのだと思います。そうすることによって、罪人の多くが自分の罪を悔い改め、そして、神様のところに戻ってくることを確信したのだと思います。

■このように、ダビデは、自分にとって時が良くても悪くても、いつも神様につながり続けようとしました。ダビデは何があっても神様から離れようとはしませんでした。たとえ、罪を犯して神様に捨てられるのではないかというような危機感を感じたときでさえ、何としても神様につながり続けようとしました。そのダビデの必死な思いはダビデの心から注ぎだされる詩篇のことばとなっているのです。詩篇62:5~8でダビデはこのように歌っています。

私のたましいは、黙って、ただ、神を待ち望む。

私の望みは、神から来るからだ。

神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。

私はゆるがされることはない。

私の救いと、私の栄光は神にかかっている。

私の力の岩と避け所は、神のうちにある。

民よ。どんな時にも神に信頼せよ。あなたがたの心を神のみ前に注ぎ出せ。

神はわれらの避け所である。

 8節に「民よ。どんな時にも神に信頼せよ。あなたがたの心を神のみ前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。」とダビデが歌っているように、私たちはどんな時にも神に信頼すべきです。たとえ、今日の箇所のダビデのように、自分はもう赦されない罪を犯してしまったと思うような時においても、神様のみ前に正直に自分の気持ち、思い、考え、心を注ぎだしてみるべきです。何があっても主から離れてはならないのです。神様は私たちが思っている以上に慈しみ深く、情け深く、赦しの神であることを私は信じます。多く赦された者は多く愛します。ダビデのように、罪赦された者は赦す者として歩みましょう。そして、多くの罪人が神様のところに戻って来るように、神様の愛と恵みと救いの道を宣べ伝えましょう。それではお祈りします。