負けて勝つ!

2018.9.9主日礼拝「負けて勝つ!」Ⅰペテロ5:5~6、8~9a

佐々木俊一牧師

■『幸いな人』という月刊誌をみなさん知っているでしょうか。先週、見本として3冊送られてきました。見たい方はどうぞご自由に見てください。その本の初めの所に興味深いアンケートが載っていました。どのようなアンケートかと言うと、以前教会に行っていたけれど今は行っていないクリスチャンの方々を対象にとられたアンケートです。どのようにアンケートをとったのか、何人の人がアンケートに答えたのか、はっきりしたことはわかりません。ですがその結果に、なるほど、とうなずける部分があったので紹介したいと思います。

 アンケートに答えた人の約67%の人が5年以上教会に通っていました。次に約22%の人が1年から2年、3年から4年の人と1年未満の人がそれぞれ約7%でした。教会を離れてから何年たちますかという質問に対しては、50%の人が5年以上、約29%の人が1年未満、約14%の人が1年から2年、約7%の人が2年から3年でした。教会から離れた理由として、約31%の人が信徒同士の人間関係、約19%の人が牧師との人間関係、同じく約19%の人が教会になじめなかった、同じく約19%の人が結婚・転勤・病気を機にということでした。教会に戻りたいですかという質問に対しては、戻りたいと答えた人が約70%でした。多くの方が教会に戻りたいと思っています。けれども、戻れない状態にあるようです。この70%の人が自分に合った教会に行けるようになれば良いと思います。

 人間関係の問題というのは教会に限ったことではありません。会社でも学校でも人間の集まるところどこでも起こりえます。教会も例外ではないのです。

 今日は、「負けて勝つ!」というタイトルでお話をしたいと思います。人間関係の問題とどう関係があるでしょうか。Ⅰペテロ5:5~6、8~9aを見ながらともに考えていきたいと思います。  

■5節で、「若い人たちよ。長老たちに従いなさい。」とあります。「若い人」とは字のごとく若い人を意味していると言ってよいでしょう。そして、「長老」とは教会のリーダー的存在です。人に福音を宣べ伝え、神のことばを教え、訓練し、育てる人々です。職務として牧師に近いと言えるでしょう。彼らは召命を受けてその職務に就きました。彼らは若い人たちより年上の者であり、人としてもクリスチャンとしてもある程度の成熟さを兼ね備えた人であったでしょう。しかしながら、聖書にはテモテのような若いリーダーもいました。今の時代にもそのような若い世代の牧師がいます。ですから、「長老」とは年齢によって制限されるものでもありません。また、逆に、60代、70代、80代でクリスチャンになったばかりの人は、クリスチャンとしては「若い人たち」の中に入る場合もあるでしょう。あるいは、長い間クリスチャンであっても、新しい教会に来たばかりの人は、その教会では「若い人たち」の中に入るかもしれません。これらの事はケースバイケースですが、ここでパウロは、それらの意味も含めて、若い人たちは長老に従うように言っているのだと思います。

 次にパウロはここで、「みな互いに謙遜を身に着けなさい。」と言っています。「謙遜」ということばは、ギリシャ語ではあまり良いイメージではありません。「低いもの、卑しいもの、奴隷的な心の態度」という意味があるようです。「身に着けなさい」は、奴隷が仕事着を身に着けるときに使われたことばだそうです。「みなが互いに低くなりなさい、相手のことを自分よりも優っていると思いなさい。自分を低くして互いに仕え合いなさい」と私たちはパウロをとおして神様から言われているのです。

 そして、パウロは「みな」と言っていますから、「謙遜を身に着けなさい」ということばは、若い人々だけではなく長老に対しても言われていることばです。長老と若い人々との関係はトップダウンのような上下関係ではありません。誰かが偉くて誰かが偉くないというような関係ではありません。基本的にすべてのクリスチャンは主にある兄弟姉妹であって、対等な関係です。ですから、互いに自分の考えを率直に言い合える関係でなくてはなりません。

■互いにへりくだるとき、そこには神の恵みが満ち溢れます。しかし、互いに高ぶるならば、そこには神からの敵対があるのです。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」と書かれてあるとおりです。

 互いにへりくだる者たちが多い教会は大変祝福されます。反対に、互いに高ぶる者が多い教会は祝福されません。どうしてへりくだる者の多い教会は祝福されて、高ぶる者の多い教会は祝福されないのでしょうか。Ⅰペテロ5:8~9を見てみましょう。ここに、悪魔、あるいは、サタンという存在について書かれています。聖書を読むならば、悪魔が架空の存在ではないことがわかります。ペテロは、「敵である悪魔」と言っています。その悪魔はほえたけるライオンのように食い尽くすべきものを捜し求めながら歩き回っているというのです。パウロは悪魔についてこのように言っています。エペソ6:11~12を見てください。「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」と書かれています。悪魔はクリスチャンや教会を陥れるために策略を持っているのです。もしも、私たちがこの目に見えない悪魔の策略を認めないならば、私たちは知らないうちにその策略の中で血肉の戦いをしてしまうことになるでしょう。血肉の戦いとは、人と人との争いです。その争いが大きくなると、宗教間の戦いになったり、民族間の戦いになったり、国と国との戦いになったりします。そのような争い事は悪魔が喜ぶことです。私たちの神は、本来、戦いを好みません。平和を喜ばれる神様です。

 これは、教会においても適用できることです。悪魔は私たちの罪や弱さを用いて策略を働かせます。そうして、教会の中に問題を起こし混乱を引き起こすのです。たとえば、私たちは同じ救い主イエス・キリストを信じる者ですが、いろいろな事柄について異なる意見を持っています。誰もが自分の意見が一番正しいと思っています。そこで私たちがもし口論の末に相手を打ち負かしたとしても、それによって相手の人との関係を失ってしまうならば、あるいはどちらかが教会から去ってしまうことになるならば、それはまんまと悪魔の策略に引っかかってしまった結果なのです。見た目は自分が勝ったように思えても、それは霊的な意味で負けです。

■私たちは、悪魔の策略の中にあってどのように勝つことができるでしょうか。それは、「負けて勝つ!」ということです。その1番の模範を示してくれたのが、イエス・キリストです。ピリピ2:6~8にこう書かれています。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです。」イエス・キリストは神であられるお方なのにご自分を低くし、十字架の死まで従いました。悪魔の策略の中でイエス・キリストは十字架で死んだのです。イエス・キリストの死は、誰が見ても負けという結果でしかありませんでした。しかし、これが実は勝ちへの道だったのです。イエス・キリストは十字架に死にましたが、死の力を打ち砕いて復活しました。それは、人にとって大きな希望となりました。イエス・キリストを救い主として信じる者には聖霊が与えられます。聖霊によって私たちをもよみがえらせてくださるのです。悪魔はそこまで考えが及ばなかったようです。このようにして、イエス・キリストは人に負けて勝ち、悪魔に負けて勝ったのです。

■私たちもイエス様の「負けて勝つ!」やり方に学びたいと思います。へりくだりの中に神様が豊かに働いてくださいます。しかし、高ぶりは悪魔の得意とする領域であってそこに働くのです。私たちの教会では神様が豊かに働いてほしいと思います。そのためには、パウロが言うように私たちは互いに謙遜を身に着けるように努めたいと思います。神様はへりくだる者に恵みを与えます。また、神様はへりくだる者をちょうど良い時に高くしてくれます。「負けて勝つ!」それが神様の導きであると思ったら、ぜひ、そのことに従ってください。そして、神様のなされることを見てください。私たちが神様の御心に従い信仰的に勝ち続けていくとき、私たちの信仰は堅く立って行くのです。そして、ますます神の恵みと神のみわざを見ていきましょう。