神の国のルール

テーマ「神の国のルール」/中心聖書箇所:ルカによる福音書17:20-21

さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

■みことばについて

 今日読んでいただいたみことばは、パリサイ人がイエス様に神の国について質問し、イエス様が答えられるというところです。パリサイ人というのは律法主義の人々で、旧約聖書の律法を忠実に行い、律法を行うことで神様に義とされることを求めた人たちでした。でも彼らにはメシアを待ち望む信仰があったので、イエス様に「神の国はいつ来るのか。」という質問をしたようです。この地上にメシアが治める神の国を望んでいたのでしょう。それに対してイエス様は、「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。」と答えています。そして、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」と答えておられます。神の国はどこか遠いかなたにあるのではなく、私たちの周りに私たちの内にあるとイエス様は言われました。イエス様を主と信じ受け入れられた方たちはこの世に生きながら、神の国に生きているのです。実際に目に見えるのはこの世であっても、神の国を体験しながらわたしたちは生きて行くことになります。では神の国はどのように動いているのでしょうか、神の国はどのように働いているのでしょうか。 今日は「神の国のルール」というテーマで、3つのことがらから見ていきたいと思います。

■その1 与えるものは祝福される。「受けるよりも与える方が幸いである。」使徒20:35

 私は結構テレビを観ているのですが、何か月か前に面白い番組がありました。うろ覚えだったのでスマホで調べてみたところ、「ためしてガッテン」で紹介していたことだと分かりました。最近のUCLAの研究によると、人に親切にすると、免疫細胞が活性化して炎症物質が減るので、遺伝子に傷がつかず、寝たきりを防げたりするそうです。がん、心筋梗塞などの病気はもともと細胞の炎症がもとになっており、細胞が炎症し続けることで病気になるそうです。ですから炎症をいかに防ぐかが大切になってきます。人に親切にすると、免疫が活性化して病気のもとの炎症物質が減るので、健康で長生きできる、ということなのです。面白いですね!人は遺伝子の中で誰かのためになることをすると細胞が喜ぶように設定されているようです。私が見たブログの最後は「神さまが作ったのかも、と思えるような神秘的な人間の体の秘密ですね。」ということばで締めくくられていました。1日に3回の親切が大切なようです。

ストレス社会ということばを聞き始めてもう何年くらいになるでしょうか。お互いに冷たくし合っていることがストレスになっているのかも?親切にし合えば楽になるのかも?(もともとそのように造られているのだから。)と思ったりします。聖書は何千年も前からそう言っていますよね。

■その2 主に捧げると返って来る。

「わたしはこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(第二コリント9:6-7)と書かれています。

 先々週このみことばに押し出されてあるところに献金しました。実は私の友だち夫妻で被災地支援をしている人がいて、彼らは前にもお話ししていますが、サマリタンズパース(サマリア人の財布という意味)という団体に属していて、そこから派遣されるという形で働いています。日本人ですが、長年カナダに移住していて、東日本大震災をきっかけに日本に戻り、被災者支援とそれをとおしての宣教活動をしています。東北・関東豪雨や熊本地震、旦那さんの方はシリア難民支援でギリシャにも行っておられました。今回西日本豪雨災害の被災者支援で今は広島県の呉市で泥出しをしているとメールがきました。彼らからメールを受け取る前にサマリタンズパースから私のところに「被災者支援ボランティア募集」という名目でメールが届いていました、それに添えられた写真に友だち夫妻が映っていて、やっぱりどこの被災地にも彼らは行くんだな~、すごいな~と思わせられました。私にはそこで働く体力はないけれど何かしないとな、と思いました。

ほんとに自分は被災された人たちのために何もしていないな~と思いました。そして、その夜たまたま読んだ聖書の箇所が第二コリント9章でした。献金しよう、と決心しました。今回被災者よりも被災者の支援に当たっている友だち夫妻にすることが導かれましたので、そうしました。彼らには経済的なバックボーンがまだないようだったので。私は週に2回アルバイト的な仕事をしているのですが、ちょうどその1か月分の額を捧げました。正直、1か月分か~とちょっともったいない気がしました。でも捧げました。すると、ちょうど1週間後の先週の木曜日、驚いたことに全く別のところから同じ額だけ返ってきたのです。もちろん返ってくることは期待していた訳ではありませんがそのようになりました。

 お金を捧げるということは全てを捧げることのひとつの表れです。主に捧げて行くときにすぐにではなくても困ったときに返ってきたり、別の形で返ってきたりします。

■その3 最後のルール

 その3のルールは後程まとめたいと思います。

 私たちがこの教会に導かれてから、早いものでもう10年を過ぎました。主人が正式に牧師として着任してからは9年半くらいになります。そのころからおられた方たちは私たちが導かれた経緯をご存知かもしれませんが、半分くらいの方たちはご存知ないと思います。

 私たちは以前江別市で牧会していました。自分たちで開拓した教会で、ある教団に属して7年間、その後その教団を出て単立で4年間合計で11年間仕えました。詳しくはお話ししませんが、その教会を閉めなくてはならなくなり、また閉めるように主に導かれて扉を閉ざすことになったのですが、このことは私たちにとって最もつらい出来事のひとつになりました。これまですべてを捧げてこの教会に仕えてきたからでした。しかも40歳前後から50歳という人生で一番盛んな時を使い果たしました。いよいよ閉めなければならなくなった時、心のやり場がなくて、(前にも進めなければ後ろに戻ることもできない。)どうしてよいのか分からなくなりました。今までもってきた希望やビジョンは何だったのか、主に仕えてきた献身の思いは何だったのか、自分が追い求めてきたものは何だったのか、自分の子どものように愛し育んできた教会だったのですごく悲しくてどうしてよいのか分からなくなりました。そして最後に辿り着いたのは「自分に死ぬ。」ということでした。もちろん自殺ではありません。「今までもってきた夢、ビジョン、希望、願い、というものすべてを捨てる。」ということです。そうすると自分ではなくなってしまうので、自分に死ぬということに等しいと思いました。本当につらかったです。自分たちで開拓した教会を自分たちの手で閉めなくてはならないというのは非常に無念なことでした。

 教会最後の礼拝の日は3月の最後の日曜日でした。(私たちはこの教会を閉めたらもう行く教会はないから、自分たちで家庭礼拝かもしくはネット礼拝をしようと話していました。)この日はイースターで、なんかオープン・ドアとかいう教会の午後のプログラムで賛美の奉仕をするように頼まれていました。主人は三熊さんと母教会が同じで、以前からその教会で1、2度賛美の奉仕をさせてもらっていました。私たちの教会も賛美が盛んなところだったので、私たち夫婦はもうひとりの姉妹と共にオープン・ドアで賛美させていただくためにやってきたのです。午後の集会が終わってから千江子さんが多分声を掛けてくださったのではないかと思うのですが、千江子さんに何げなく、「私たち、今度の日曜日から行く教会がないんです。だって教会を閉めた牧師夫婦が行ったらどこの教会も迷惑でしょうから。」とか何とか言ったんです。そしたら千江子さんが「良かったらこの教会に来てください。」と言ってくださったのです。今考えると、社交辞令だったかな~と思うのですが、私はそのことばを真に受けてしまって、次の日曜日にちゃっかりオープン・ドアという教会に来ていました。

 そしたら何かいやに歓迎されたのです。やけに歓迎された。変に歓迎されたのです。顔がニヤニヤしている方もおられ、ヒッヒッヒッという声が聞こえてくるようでした。「飛んで火に入る夏の虫」とか言っておられる方もおられました。「ん~、なんだろこれ?」と思いました。後になって分かるのですが、オープン・ドアでは何年もフルタイムで働く牧師を探していたということで、(ジム先生は牧師と大学の先生という二束のわらじをはいてこられ、この教会をおひとりで牧会していかれるのは無理になってきていたため、日本人のフルタイムで働ける牧師が必要だった。)そこに前の教会での牧会を終えた牧師が向こうからやってきたのでした。そして1年後主人は正式にオープン・ドア・チャペルの牧師として就任させていただいたという訳です。こういうことは普通はないですし、聞いたこともありません。主はほんとにユニークなことをなされます。ひとりひとりに対してそれぞれに違う取り扱いがあるように。

 この教会に導かれ、またさまざまな主のお取り扱いを通して私は神の国の一つのルールを学びました。それは「クリスチャンは死んでも復活する。」というルールです。(その3 死んでも復活する。)もちろんこの肉体の命が亡くなったとき、天において復活させられるでしょう。でも、この地上において死ぬような辛いことがあってもそこから復活させられるのです!前より良い者としてです!私は自分に死ぬと決め、それくらい苦しいところを通ったのですが、主が様々なことを通してなんか以前よりもすばらしい命に生き返らせてくださったのです。古い自分から解放されたのです。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(第一コリント15:20)キリストがまずよみがえられました。キリストは初穂なのです。初穂とは収穫物の一番初めの物で神様に捧げられるものです。そして初穂があるということは必ずそれに続くものが収穫されるということです。それに続くのはだれでしょう?私たち主を信じる者たちです。キリストが復活されたので私たちも復活するのです。

■まとめとすすめ

 「天のみ国は、畑に隠された宝のようなものです。」と書かれていますが、畑の中に隠された宝を探すように神の国を求めていきたいと思います。またその中で現わされる主の栄光を見て行きたいと願います。最後にこのみことばを読んで終わります。「みことばはあなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあってみ国を継がせることができるのです。」(使徒の働き20:32)みことばに育てられていくとみ国を相続する者とされていくのですね。神のみ国を継ぐものとされていきたいと願います。