キリストの愛によって働く信仰

2018.8.26主日礼拝

「キリストの愛によって働く信仰」ガラテヤ5:6、13~15、6:15

佐々木俊一牧師

■テレビをつけると、高校野球の次はジャカルタでのアジア大会です。水泳やバドミントンで日本人選手の活躍が話題になっています。バドミントンは48年ぶりの団体優勝だそうです。48年前というと1970年です。私は13歳でした。そんな時からアジア大会があったんですね。1972年に札幌で行なわれた冬季オリンピックは覚えていますが、1970年のアジア大会は覚えていません。

 スポーツの大会では、メダルを獲得できる人とできない人がいます。ほとんどの選手はできません。それでも、各国から勝ち抜いてきた選手たちは、日々体を鍛え、メンタルを鍛え、時には食べたいものも食べず、したいこともしないで練習に励んで本番に備えてきたことと思います。大会に出場するためには、幾多の困難を乗り越え、多くの犠牲を払わなければなりません。以前、ある選手がこんなことを言っていたのがとても印象的でした。「やっと終わった。これでゆっくり休める。」それまでの練習が相当きつかったのだと思います。その上、競技を前にして襲ってくる緊張感やプレッシャーと戦っていたはずです。メダルは取れなかったけれども、そこには、やりぬいたという達成感と満足感があるように思いました。

 聖書には、私たちの人生を一つの競技にたとえて語っているところがいくつかあります。勝利を得るために忍耐が必要であり、鍛錬が必要であり、自制が必要であり、考えることが必要であり、目標をしっかり定めることが必要であることが書かれています。人生には、山あり谷ありで大変なことが多いです。クリスチャンとして生き抜いていくための戦いもあります。ある時には、そのことのために犠牲を払わなければなりません。けれども、人生の終わりに近づいた時に、人生をふりかえって、「やっと終わる。これでゆっくり休める。」と思えるならば、最高ではないかと思います。クリスチャンは死ぬまで引退はありません。生涯現役です。天国に行けばゆっくり休めます。死ぬまで神様に一生懸命仕えましょう。この世の金メダルは取れないとしても、自分はできることはやったという満足感があるならば、そして、神様から金メダルを頂けるのだという期待感を持てるならば、それは、とてもよい人生の終わり方だと思います。そのような人生の最期を迎えることができるように祈りたいと思います。

 今日は、「キリストの愛によって働く信仰」というタイトルでお話をしたいと思います。キリスト教の教えの中心は「イエス・キリスト」です。さらに、その中にある中心的な教えは「愛」です。しかし、歴史を振り返ると、クリスチャンと自称する者たちが数限りない残虐な行為を繰り返してきたことも事実です。それらの行為は、旧約聖書の誤った解釈から出た結果であると言えます。旧約聖書を読むと、確かに、異教徒に対する戦いが肯定されているかのように思えます。それを「聖戦」というふうに考えている人々がいます。「聖戦」という名の下に、悲惨な戦いが行われてきたことは否定できません。けれども、旧約聖書の解説書としての役割のある新約聖書を読むならば、私たちの戦いは、目に見える人や民族や国に対する戦いではなくて、目に見えない悪しき霊的な存在に対する戦いであるということがわかります。キリスト教の中心的な教えは、戦いではなくて、愛であるということを常に忘れてはなりません。

■6節に「割礼」ということばが出てきます。割礼とは、神様と人との間に交わされた約束のしるしのことです。印鑑やサインのようなものです。この約束のしるしについて初めて語られたのは、神様がアブラハムと契約を結んだ時です。神様はこの時、アブラハムにこのような約束をしました。「もしも、あなたが、あなたの先祖の地、生まれ故郷を出て、わたしが示す地に行くならば、わたしはあなたの子孫を祝福して、大いなる国民としよう。」というものでした。アブラハムは神のことばに従って、神の示すカナンの地(パレスチナ)に向かって行きました。そして、アブラハムとその一族に属する男たちはみな、割礼という神様との約束のしるしを体に刻みました。それから、500年後には、モーセという人が登場します。このモーセが神様から律法を受けた人です。イスラエルの民は、再度、神様と契約を結びます。この時もまた、イスラエルの民は、約束のしるしとして割礼を受けました。その後、割礼は、神に選ばれた民としてのアイデンティティとなり、他の民族との違いをはっきりと表すものとなりました。そして、それは、彼らのプライドになったのです。割礼を受けることは、彼らにとって、律法を守ることによって神の約束を受けようとする意志表示です。ですから、それは、神の約束を受けるために、イエス・キリストは不要であるという告白にもなりえるのです。

 私たちは、信仰により、義をいただく望みを熱心に抱いています。イエス・キリストを救い主として信じる者は、すべての罪を赦され、正しい者として認められ、永遠のいのちを受けて神の御国に入るのだという望みを持つことができます。また、私たちは、御霊(聖霊)により、義をいただく望みを熱心に抱いています。イエス・キリストを信じる者は、約束のしるしとして、体に刻まれた約束のしるしではなくて、こころに刻まれた約束のしるし、御霊(聖霊)が与えられています。御霊(聖霊)は救いの保証であると聖書は言っています。体に刻まれた約束のしるしもこころに刻まれた約束のしるしも、覆い隠されて目には見えないところに刻まれたしるしであるということは、とても興味深いことです。

 キリストにあっては、肉に刻む割礼を受ける、受けないは大事なことではありません。何が大事なのかというと、愛によって働く信仰だけが大事なのであるとパウロは言っています。「愛によって働く信仰」とはどういうものでしょうか。

■ここで使われている「愛」ということばは、ギリシャ語で「アガペー」と言います。「アガペーの愛」について聞いたことがあるかと思います。聖書には、アガペーの愛とフィレオの愛が出て来ます。聖書には出て来ませんが、ギリシャ語には、エロスの愛というのがあります。性的な愛です。フィレオの愛は兄弟愛とか友愛を意味します。フィラデルフィアの語源はこの言葉にあります。アガペーの愛は、自己犠牲的な愛、自己中心ではなく他者中心の愛です。アガペーの愛は見返りを期待しません。私たちには、このアガペーの愛はあるでしょうか。

■私がまだ若いクリスチャンのころ、教会に何人かの求道者の方々が来ていました。ある日、私は、その中の一人から、「君には愛がない。」と言われ、責められました。私は返すことばがありませんでした。自分としては、いろいろとお世話をしたり助けたりしているつもりではあったのですが、たぶん、私の言動に何か問題があったのだと思います。あの時のことを振り返って、私は何と言うべきだったのか考えたことがあります。率直に、はっきりと、「私には愛がありません。ただの人間ですから仕方ありません。」と答えるべきだったと思いました。人にはアガペーの愛はありません。アガペーの愛を期待するならば、人にではなくて、神様に期待すべきです。

 人は、どちらかというと、愛するよりも愛されることを求める傾向があると思います。生まれて来たすべての赤ちゃんは、愛されることを求めています。私たちは成長する過程の中で愛することを学んでゆきますが、子どもの時には、愛を受けるニーズがとても大きいのです。愛することができるようになるためには、その土台に、愛されるという体験がとても大切です。愛されたという体験の上に、愛する人が築かれていくのです。しかし、そうだとしても、人の愛はアガペーの愛にはほど遠いものです。

■「愛によって働く信仰だけが大事なのです。」と聖書に書かれています。この「愛」とは、誰の愛なのでしょうか。私たち人間から出てくる愛でしょうか。それはあり得ないと思います。私たち人間にはアガペーの愛はありません。この「愛」はイエス・キリストの愛だと、私は解釈します。イエス・キリストの愛は、私のこんなにひどい罪深さを赦してくださいました。イエス・キリストの愛は、私の弱さを理解し、憐れんでくださいました。イエス・キリストの愛は、私を責めたりしません。イエス・キリストの愛は、私の恐れや不安を取り除き、勇気を与えてくださいました。イエス・キリストの愛はありのままの私を受け入れてくださいました。イエス・キリストの愛は、たとえ人が私を見捨てたとしても、私をけっして見捨てたりはしません。しかし、勘違いしないでください。キリストの愛は甘やかしの愛ではありません。弟子に向かって語られた厳しいことばを覚えているでしょうか。キリストは私たちをつぶすためではなくて建て上げるために時にはそのようにされるのです。このキリストの愛が私たちの内にあって働いています。その働きによって養われた信仰が、太陽の光を月が反射するように、私たちをとおして表されるのです。私たちのキリストへの信仰がキリストの愛を映し出すのです。

■キリストの愛によって働く信仰はどうして大事なのでしょうか。ガラテヤ6:15にこのように書かれています。「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」ガラテヤ5:6では、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは愛によって働く信仰です。」ということでした。キリストの愛によって働く信仰が大事なのは、それによって、私たちは新しく造り変えられるからです。地上には地上の体があり、天上には天上の体が私たちのために備えられています。私たちは、その体をいつか必ず受けることが約束されています。新しい創造は、神の御国に行って始まるのではありません。この地上にあって、もうすでに始まっているのです。私たちは御霊によって新しく生まれました。そして、キリストの愛によって働く信仰が、私たちの新しい人を造って行きます。新しい創造は現在進行中なのです。新しい創造のためにはイエス・キリストの愛にどう応答するのかが大切です。今、私たちは、新しい創造の途上にあるのです。

■13節と14節で、「愛をもって互いに仕え合いなさい。」とパウロは言っています。この愛も、アガペーの愛です。そして、次に、律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです、とパウロは言っています。自分自身がキリストの愛によって赦されて、愛されているように、隣人をキリストの愛をもって、赦し愛するようにパウロは言いたいのだ、と私は解釈します。しかし、私たちにはそのようなキリストの愛がありません。ここで、パウロは私たちに完全さを求めているのではありません。大事なことは、神のことばによって気づかされた時、そのことばに従うということです。私たちは神のことばに従うとき、私たちにはアガペーの愛はないかもしれませんが、しかし、従うことを通して、アガペーの愛が豊かに表されるのです。先ほど、太陽の光を受けて月はその光を反射するように、神様は私たちをとおして神様のアガペーの愛を表してくださるのです。そして、何度も何度も愛するというレッスンを繰り返す中で、愛することが以前よりも容易になってくるでしょう。それでも、なお、私たちは失敗してしまう時があるかもしれません。しかし、愛によって働く信仰は、私たちのそんな弱さをも足りなさをも罪をも包み込んでしまうほどの力があるのです。そのような恵みがなければ、私たちの力だけでは、絶対に律法を全うすることはできません。

■パウロは自分のことを罪人のかしらと言っています。それだけ、パウロは自分の罪深さを自覚していたのだと思います。だからこそ、パウロは、キリストの愛によって働く信仰の力を誰よりも理解していたのだとも言えます。その力によってパウロは隣人を愛し、教会を愛し、主にある兄弟姉妹を愛し、神を愛しました。そして、多くの人々をキリストの救いへと導くことができました。

 私たちは、キリストの愛によって働く信仰の働きを、もっともっと見たいと思います。自分自身がどんなに多く赦されているのか、どんなに愛されているのか、イエス・キリストの愛の大きさ、深さ、広さ、長さを、今一度、思い起こす時間を持っていただきたいと思います。そして、イエス・キリストの愛に応答していく者として歩みたいと思います。私たちもさらにキリストの愛によって働く信仰によって、隣人を愛し、主にある兄弟姉妹を愛し、教会を愛し、神様を愛していきましょう。それでは、お祈りします。