不健康からの自由、神様の完全性の中で生きる自由

ヤコブの手紙5章13〜16節

  

                       不健康からの自由、神様の完全性の中で生きる自由

  

 

   オープンドアで、またオンラインで参加して下さっている皆さんお早うございます。今日もまた、皆さんとご一緒に神様の言葉を受け取ることができて嬉しく思います。 

   今朝のメッセージも、“〜からの自由、〜への自由”のシリーズを続けて行きたいと思います。その目的は、神様が私達にそうなって欲しいと望んでおられる、私達が自由に外に出て行って、自由な人間として、精一杯生きて活動的に生活ができるために、神様が与えたいと思っておられる私達の生活の一部を発見することです。

 

   ヤコブ、イエス様の兄弟(若しくは異父兄弟、もっと正確に言えば、イエス様の父親は神様であるように、ヤコブの父親はヨセフです。)は、私達がどのような人生に直面しても、それらに備えることについて書いています。 どんな人の道にも、良い時と悪い時がやって来ます。 しかし、それは私達の対応の仕方によって大きな違いをもたらすのではないでしょうか。ですから、ヤコブは、(13節)で、“ 困っている人がいるなら、祈るべきです。幸せであるなら、賛美をしなさい。”と書いているのです。

 

   状況が喜ばしいものであっても、苦しいものであっても、もしあなたが、それらを神様にお任せするなら、何かしら良いことがもたらされるのです。

   物事がうまく運んでいる時には、その状況への対処として、ただ単に楽しんでいたり、それに感謝しないで、その良いことを他の人と分かち合おうともしなかったり、それが永遠に続くよう期待していながら、そのように進まないと騙されたと感じる、そんな反応が可能です。 しかし少しでも健康のことや健康であることに繋がることへの反応は、そのことの故に神様を褒め称え、感謝し、神様や他の人と共に喜ぶということになるのです。

  私達が、この場所に集まっている一つの大事な理由は、正にそのようにすることなのです。

 

  私達は困難な時に、苦しみ、腹を立て、いつも否定的になることも可能です。何か悪いことが起こった時、ある人々の最初の反応は、長い間慣れ親しんだそんな反応に頼り、これを使って再び力を得ようとすることです。

 またある人々は、 他の人々と神様を自分から締め出してしまいます。また、他の人々を自分の苦痛に引き寄せる傾向の人もいます。これは多分、少なくとも苦しんでいるのは自分だけではないと確かめたいというような場合です。(もし自分が不幸になるのなら、少なくとも自分の周りに幸せな人がいないことを確かめたいというものです。)

  苦痛、苦しみに対する様々な対応は、これらに直面する人々の多さと同じくらい多様なのです。

 

   あなたはどのように対応しますか?   悪い時は全ての人に、いつの日か、ある程度やってきます。 しかし、特定の問題にあなたが直面し、そこを通る時、あなたはどのような人になりますか? 自分がなれるどのような人になら、自分の戦い(葛藤)をするのを許しますか? 

 神様は私達に、祈りを通して対処せよと言われます。神様は、私達が神様との関係を通して人間として継続的に成長する者となるよう、私達を助けることができます。良い時も悪い時も、そのどちらも、神様の助けによって、最終的には私達を強めることになるのです。それこそがクリスチャンを象徴することで、クリスチャンの勝利の人生なのです。問題が全くない人生ではありません、しかし復活の力によって生きるのです。死は様々な形で私達の実際の生活の部分にありますが、遅かれ早かれ、 命が勝利するのです。神様が勝利するのです。神様は、私達がこの地において毎日、希望とこの知識がもたらす自信を持って生きるように助けるという選択をされているのです。

 

  ヤコブがこれまでのところで書いている問題は、とても一般的なものです。しかし、ここでヤコブは肉体的な健康について焦点を当てています。(14節) ”病気の人がいれば、教会の長老に来るように言い、祈ってもらいなさい。“  ギリシャ語で ”病気“とは、ここでは、”弱い“という意味です。その脈絡において、ヤコブが語っているメッセージでは、ただ単に病気の人だけを意味するのではなく、怪我人またはハンディキャップを持っている人、あるいは高齢者、更には、完全に健康であること、健康・完全に生活すること、神様を信じる人々に神様が意図するシャローム(神様が共にいてくださる)の完全性にうちに生きること、これらから私達を妨げるすべてのことまで及びます。

 

  健康についての重要な点の一つは、相関的であるということです。神様は通常、人々との健全な関係を通して健康を与えることを選びます。

  キリストにあって共に祈るために、皆さんが誰かを呼びかけるという単純な行為は、皆さんがコミュニティに属していることを示しています。健康のことや人生についてキリストの名前によって共に祈るという事には何か意味があるのです。

 神様がエデンの園で “人が独りでいるのは良くない。”(創世記2章18節)と言われた時、神様はその意味を知っておられたのです。人はコミュニティの中で生きるように創造されているのです。このことこそ、神様が私達を設計された仕方なのです。

  神様も三位一体のように、コミュニティの中で存在しておられ、神様の家族として生きることによって、キリストのようになるよう私達を教えています。

 ですからイエス様は“2人でも3人でも私の名前によって共にいる時には、私もそのところにいます。”と仰っているのです。(マタイ18章20節)

 

  キリストが教会を作ったのはこのことの故です。キリストは信仰について、私的で個人的なものであるとせず、むしろ生活を共有することであるとしているのです。

 ですからクリスチャンは積極的に教会生活に関わる必要があります。私は、神様が、家族と一緒に、最も重要な社会的なグループである教会生活をすることを欲しておられると信じています。

 クリスチャンが他の仲間の信者と繋がっていないという時は、何か重要なことが間違っているというサインです。神様は教会を“キリストの身体”(コリント第一の手紙12章27節)と呼ばれていることを思い出してください。教会から切り離されているメンバーにとっては、片腕が身体から切られているようなものです。このような状態では信仰が死に始めるのは驚くことではありません。

 

 ヤコブ書5章14節に戻ります。健康上の問題を抱えている誰かが祈ってもらう時、誰が祈ってくれているのでしょう? 聖書のこの部分では”長老(複数)“とあります。異なる教会には、多少異なった指導システムがあるように思えますし、聖書にもそうあります。

 オープンドアでは”チームリーダー“と”執事“が立てられています。教会の中には、メンバーをチームで病気のメンバーを定期的に訪問させているところもあります。そのような状態で祈るためには効率性からしても、牧師でなければならないということはありません。メンバー1人や比較的少数のメンバーによって全ての事がなされる必要もないことは、教会が全体としてより力強いということです。教会全体が祈る時、そこには遥かに強い力があり、私達の宣教は私達の社会と世界により強いインパクトをもたらします。

 

  ヤコブは、” 主の御名によって油を塗るよう彼らに願いなさい。“(14節後段)と続けています。聖書では、油は様々なもののシンボルとなっていおり、その中で、神様の祝福、守り、健康上のギフト、安定、繁栄を表しています。聖書の教えをできる限り文字通り受け取るようにするクリスチャンは、誰かの健康問題のために祈る時には油を瓶ごと使います。

 もし皆さんが私に、自分のため或いは誰かにために、このように祈って欲しいのなら、ただそう言って下さい。私は喜んでそうします。私は15節に書いてある神様の言葉による約束に基づいてそうします。”信仰を持つ者が捧げる祈りはあなた方を良くして、主があなた方を癒して下さいます。“

 

  そのように神様が言っています。ですから私は、これを加減するつもりも、うまく釈明するつもりもありません。ですが、信仰を持って神様の言葉を受け入れ、最善を尽くしながら理解していきましょう。

 

  神様の癒しを本当に信じて良いのでしょうか? 勿論そうです。そこには唯一つの意味しかありません。それは自然なこと、または超自然なことなのですが、すべての癒しは神様のギフトです。

 私達の主は当たり前の方法を通して(例として、良い薬や診察)、超自然的な方法(聖書の話で見ることのできる奇跡)を通して、そして死を通して癒しをされます。

 

  この三つのことを、もう少し詳しく一つづつ見ていきましょう。まず最初に、当たり前の方法による癒しについてで、神様の言葉が明らかに健康に繋がることとして教えられている、生活上のリズムや習慣のことです。例えば、神様のご命令(アドバイスでも、ガイダンスでも、お勧めでもありません)である、一週間の内1日を休むことは、数えきれない人々に、燃え尽きること、病気やもっと悪いことを避けるための助けとなっています。

 神様のトップ10の法律(十戒)の一つに違反したり、安息日に働くことは、遅かれ早かれ、皆さんの健康に身体的、精神的、またはそのどちらものダメージを与えることでしょう。

 

 神様の教えに反するような生活スタイルを選ぶことは、霊的なことが緩やかになったり、また自然治癒が阻害されます。私は、心配、恐れ、また嫉妬等を含む罪のことについて話しているのです。 ヤコブの良いニュースは15節後段にあります。”罪を犯したなら、それは赦されます。“

 心の中に秘密を抱えていることは、身体の中に毒を抱えているのと同じです。

 キリストのコミュニティに属さないこと、祈りの欠乏、聖書で神様が人々に教えている生活と離れた生活をすること、これらすべては私達の命にダメージを与え、神様が私達にそうなるように望んでおられる、人として完全に生きることにダメージを与えます。病気は神様の罰から来ている可能性がありますが、私は、もっと多くの不健康の原因が、私達自身の愚かな選択の結果であると思います。

 

  私達の大きな希望は神様の恵みにあるのです。ヤコブは後でこう付け加えています。”お互いに罪を犯していると認めなさい。あなた方が癒されるためにお互いに祈りあいなさい、 “ (16節前段)

 ヤコブはここで、教会のリーダーのために祈ることを制限していません。私達は皆お互いのために祈ることを続けるべきです。私達が心から祈り合う時に、その相手と対立したままでいることは難しいことです。人との関係性の癒しは祈りを通して可能なのです。私達がお互い正直に、お互いの罪を告白する時に、祈りは最も自然な形でなされるのです。ヤコブはここで、小さなグループのことを語っているように思えます。私達は、信仰上のことを助けてくれるキリストにある良き友人の集まりが必要です。これは今、私達がオープンドアで小さなグループを作りたいと話し合っている理由です。

 

 2番目は、神様は超自然的な癒しをされるという事です。勿論、私達は信仰を通してのみこれを受け入れることができるのです。このことを信じるために科学を否定する必要はありません。しかし、人生には科学では説明のできないことがあることを知らなくてはなりません。例えば、私達は、人々が「私は病気だったのですが祈ったところ、今は癒されました。」と言っているのを知っています。医者は時々「正直、この患者は亡くなると思っていたが、癌がどうしたものか消えてしまった。」等と言います。私達は、人々がこのような場合に癒しのために祈るのを知っています。私達は、自然の法則だけではなく、それと同時に、神様の御手がそれぞれの人の人生に働かれるということを信仰によって言えるのです。主の癒しである可能性を受け入れないということは、他の何かの、科学への信仰とか、人間の霊、運、その他諸々とかの信仰を必要とします。私達には、明確、完全、かつ合理的に証明できる信念だけを持つことはできません。人生はこのようにはいかないからです。

 

 3番目は、神様は死を通して癒しを与えられるということです。もうお気づきのことと思いますが、私は、死についてその性質とは違ったカテゴリー(範疇)で扱っています。不思議に思えるかもしれません。例えば、生命尊重運動家の人々は、人の命を自然死の概念から守るという事について話をします。それは生命の始まりにおける中絶に反対し、終わりにおける安楽死や自殺に反対することを意味します。しかし”自然死“という言葉を使う人々でさえ、聖書の教えに基づく議論をしばしばします。そこで私達は、神様が人を神様と共に永遠に、また他の人と平和に生きるという目的で創造されたことを知るのです。死、病気、老衰、その他全てこれらに結びつくことは、罪の究極的な結果であり、神様がデザインされたように人生が作用しなかったことの究極的な結果です。この重要な知恵によれば、死とは自然なものではなく、自然なことを壊すことです。十字架と復活も、その意味は、神様が、恐ろしく、邪悪で、非神性な現実に打ち勝って、永遠の命を信じ、それを得た者達への贈物として使っているということです。

  

  このように死を見る時、私達は、それぞれの人に対する神様の良い計画として(そこに)神様が働かれることを理解し始めることができるのです。神様が私達を神様の家にいざなう時、私達はこの世を去るのです。しかし私達は、もっと、もっと良いところへ行きます。そこは天国にある神様の家で、そこで私達は永遠に神様とその命を神様の御手の中で信頼して預けた全ての者達と共にいることができるのです。

 

  これは最も広い意味で言う神様の癒しです。神様はそれを(癒し)、神様に助けを求め、信仰を持って御許に来る全ての人に、全ての状況においてお与えになります。これが、ヤコブが、“いつ”、“もし”、“いつまで” などの資格のない主の癒しについて約束する時に考えていたことのように思えます。これは、神様は、皆さんが信仰を持って願うならいつでも癒して下さると、皆さんが確信できることです。

 

  しかし、ここで正直になってみましょう。もし、あなたや、あなたの愛する誰かが病気のため入院しているとしたら、天国での永遠の命だけが知りたいことではないはずです。今現在のことだって知りたいですよね。それでは、聖書は、皆さんが信仰を持って癒しを願うならば、神様はいつも直ちに完全な癒しを与えて下さると約束しているのでしょうか?

そんなことはありえないのです。

 

   私達は、偉大で包括的な聖書の真実と様々な時における私達の特定の状況を結びるける時には、 大変に注意深くあらねばなりません。神様の御意志は全ての人々の全てに状況において同じではありません。これは“御利益“の福音ではないのです。神様は、私達が、祈りや断食やその他のことをして、正しいボタンを正しいやり方で押すことで私達がコントロール出来るような、巨大なコンピュータではないのです。神様は癒されます。しかし、癒しを行う方は神様です。それは、油を使ったり、両手を置いたりまたはハリーポターの魔法の呪文のように正しい言葉を使うというようなことではありません。それは祈りそのものでさえなく、神様の愛であり、愛の神様なのです。

  

  皆さんの牧師の一人として、皆さんが癒しという問題をめぐる罠にとらわれないよう強くお勧めします。一つの罠は、もし十分な信仰を持っていさえしたら、神様は、皆さんが望むやり方で皆さんを迅速に癒して下さるに違いないというものです。これは神様を試みてコントロールしようとすることです。一方で、癒しを求めて祈っても、直ぐに癒しを受け取れない時、自分を良いクリスチャンではないと信じてしまう罠です。それは、神様が、苦しい時期を通るように招き導いているかもしれません。しばしば美しい果実はそのような時を通ることによって育つと知っておられるからです。

 

   多分皆さんも経験があると思います。私も大学の一年生の時に経験しました。アメリカンフットボールをしていて膝の靭帯と軟骨を断裂させたのです。私の膝はパンパンに腫れてしまい、医者も診断できないほどでした。医者は治療の予定を組みましたが、損傷がひどかったら外科手術をすることとなるとも言いました。私は聖書の教えである神様は癒すことが出来ると信じていましたので、神様がただそのようにして下さるように祈りに祈ったのです。でも、外科手術が終わって目覚めた時、膝の痛みが癒されていないことを教えてくれました。それでも、私は祈り続けました。私は求めたのです。結果は神様の御業であることに疑いがないように膝の傷跡さえ残らないように祈ったのです。これは40年以上も前のことで、今でも膝には傷跡があります。当時医師が、この先毎日、生涯に渡って行うように私に言ったリハビリのための運動を、私は今でも行っています。この問題は私の弱い信仰のせいだったのでしょうか? または、神様が何か違うことをされた結果なのでしょうか? 私は、その当時大きな信仰を持っていたとは言えませんが、今は単に主の他の御計画であったと思います。

 

 聖書の中でも同じようなことがあります。 パウロが”肉体の棘“(”自分の身体で痛みが引き起こす問題“コリント第2の手紙12章7節後段)のために三度、これを去らせて欲しいと祈ったのですが、そうはなりませんでした。他にも、神様がその時どきにおいて、人々を癒すことができたものの、なんらかの他の理由によってそうなさらないという例があるのです。

 ですから私達は、神様が、全ても場合において肉体の完全な癒しを直ちに与えて下さるわけではないという結論付をしなくてはなりません。もし皆さんが癒しを求めて祈るけれど与えられないとしても、どうぞ神様と自分自身を諦めないで下さい。私達のお父様はそれでもあなたを愛しておられます。神様はそれでも皆さんの側においでになられ、御自身の栄光と皆さんの良きことのために力強く働いておられます。究極的には、皆さんへの神様の御意志は、健康と命であり、病気と死ではありません。

 健康についても、神様の管理にお任せすることができるように、神様の愛に期待できるのです。

 

 ヤコブは私達に、”神を敬う人の祈りは力強く、事を実現させる。“(16節後段) ということを思い出させます。ですから、今祈りによって主の元へ行きましょう。

 

 愛する父なる神様。私達は今日、あなたを、命と健康を与えられる方、保って下さる方、回復させて下さる方として、あなたに祈ります。あなたが私達に与えて下さる完全さと健康、またこれを何度も回復させ助けて下さることの故に、あなたに感謝し褒め称えます。私達や私達の周りの方々が必要とする健康のため、私達は共に、あなたの御子の名前によって命への癒しと完全性を探し求めます。それらは、神様あなたが、あなたの子供である私達が最終的に持つよう望まれていることと私達は知っているからです。不健康がもたらす圧迫から私達を自由にして下さい。あなたの力の内に生きるため私達を自由にして下さい。このことのために、あなたの知恵の中で、あなたがなにをどのように選択されたとしても、私達があなたの親切で、愛に溢れる、力ある癒しの御手の中で安息を得ることができますよう助けて下さい。キリストも御名によって祈ります。アーメン

 

参考

 

Elwell, W. A. (1996). Oil. Baker’s Evangelical Dictionary of Biblical Theology. Baker Books. Bible Study Tools. Retrieved August 12, 2018 from https://www.biblestudytools. com/dictionary/oil/