神の宝、主を敬う者たち

2018年8月12日主日礼拝(召天者記念礼拝)

「神の宝、主を敬う者たち」マラキ3:13~17佐々木俊一牧師

「あなたがたはわたしにかたくななことを言う。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。今、私たちは、高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。」と。

  そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主のみ名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。「彼らはわたしのものとなる。万軍の主は仰せられる。わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」(マラキ3:13~17)

■今私は、三浦綾子さんの「旧約聖書入門」という本を読んでいます。三浦綾子さんと言えば、「氷点」が一番有名でしょうか。私が小学生の頃、テレビドラマになったのを覚えています。19年前に天に召されました。 三浦綾子さんは、旧約聖書入門だけでなく、新約聖書入門という本も書いています。文学者の書く聖書入門書とはどういうものかと思って十数年前に買ってみましたが、まだ読んでいませんでした。読み始めると、とてもおもしろいです。三浦綾子さんはクリスチャンになる前、「神」という言葉を聞いただけでせせら笑うタイプの人間だったそうです。「神なんかいるものか、クリスチャンは大嫌いだ、死んでもクリスチャンになるものか」と思ったそうです。そのような人が、日本で影響力のあるクリスチャンになりました。

■今日は旧約聖書の最後の巻であるマラキ書を見てみたいと思います。マラキは旧約聖書に出てくる最後の預言者です。み使いガブリエルが祭司ザカリヤに現れて、バプテスマのヨハネの誕生について告げるその時まで、約400年の間、預言者をとおして神のことばが語られることはありませんでした。この時代は、『Silent Years(沈黙の時代)』と言われています。しかし、この400年の間、何もなかったわけではなく、救い主、イエス・キリストがこの地上に来て、あがないのみわざを成すための準備がなされていたのです。

  それでは、「沈黙の時代」とは、どのような時代だったのでしょうか。バビロン帝国に捕らえられていた多くのユダヤ人たちは、バビロン帝国崩壊後、ペルシャ帝国の支配を受けました。ペルシャ帝国のクロス王は、ユダヤ人たちが自分たちの国があったカナンの地、パレスチナに戻ることを許可しました。彼らは希望に燃えて、エルサレムの城壁と神殿を再建することができました。ところが、それもつかの間、次はアレキサンダー大王で有名なギリシャ帝国に支配されることになります。その後、ギリシャが4つの国に分裂すると、その中の一つ、エジプトに支配され、その次にシリアに支配されました。シリアとの戦いの結果、独立を勝ち取ったのですが、そのあとすぐに、今度は、史上最強の帝国と言われるローマ帝国に支配されてしまいます。

  預言者イザヤやエレミヤが語った、栄光に満ちた神の国、イスラエル王国の確立は実現しないまま、他国の支配の中で時は過ぎて行きました。このような状況の中で、キリスト・イエスがこの地上を歩まれた時のステージが整えられていったのです。イエス・キリストを、妬みから十字架につけたパリサイ人、律法学者、サドカイ人などの宗教家が、この時代に形成されました。民衆は、他国による圧政からの解放を切望し、自分たちを救ってくれる、自分たちの国を作ってくれる、救い主であり、王であるダビデの子孫を待望するようになりました。この彼らの抱く希望、救い主の来臨については、創世記からマラキ書に至るまで、旧約聖書の中心テーマです。そして、新約時代において、その預言はあるところまで成就します。まだ続きがあるのです。イエス・キリストが私たちの罪に代わって十字架で死んでくださり、別の言い方で、私たちを贖ってくださり(買い戻してくださり)、三日目によみがえられました。40日の間、弟子たちに現れて神のみ国のことを教えました。それから、この地上にまた戻って来ることを約束して、エルサレムのオリーブ山から天に昇っていったことが、使徒の働き1章に書かれています。あれから、もう少しで2000年になろうとしています。救い主を待ち望んでいた、400年の沈黙の時代と救い主イェス・キリストが再び戻って来ることを約束してエルサレムのオリーブ山から天に昇って行かれた時から現在に至る2000年の時代には共通点があるように思います。それゆえに、私たちは、今日の聖書箇所から、私たちの信仰の姿勢について学ぶことができると思います。

■13節~15節 当時の世の中の価値観が、聖書の価値観からずれていく傾向にあったのではないかと思われます。高ぶる者がもてはやされ、悪い者が繁栄し幸せに見える、そんな世の中であったのではないかと思います。正しい者が正当に評価されることなく、かえって、軽視されることが多かったのでしょう。この地上の繁栄や快楽を第一に追求し、物質主義的な価値観は、現在と共通するものがあります。

  そんな世の中で、こんな声が聞こえてきそうです。たとえば、「こんなに長い間待っても、救い主イエス・キリストは来ないじゃないか。イエス・キリストが再びやって来るなんていう話は、人がうまく考えた作り話にすぎないよ。」「こんなこと信じているよりも、飲んで食べて、自分の好きなことをやっている方がずっといいよ。人生は一度限り、楽しくやらなきゃ損だよ。」「礼拝に行くために時間を裂いたり、献金にお金を費やしたりするのは意味の無いことだ。そんなことをやっても何もいいことなんてないさ。時間もお金も自分の楽しみのために使うのが一番だよ。」世の中には、実際にそう考えている人々がたくさんいます。Ⅱペテロ3章に、そのような人々に惑わされないように注意を促す箇所があります。イエス・キリストへの信仰を疑わせようとする声が、昔も今も変わることなく、外側からも、内側からも聞こえて来るのです。

■16節~17節 しかし、そのような環境の中にあっても、神を敬い、聖書の価値観から離れない人々がいたのです。「そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。」「主を恐れる者たち」とは、「主をこわがる者たち」ということではありません。「主を敬う者たち、主を尊ぶ者たち、主を愛する者たち、主を大切にする者たち」と考えるのがよいでしょう。聖書の価値観を否定する世の中にあっても、神を敬い、聖書の価値観から離れない人々がいたのです。現在も同じです。

  このような時代にあっては、共に集まり互いに語り合うということが、健全な信仰を保つためにとても重要なことだと思います。主を敬う者たちは互いに何を語り合ったのでしょうか。具体的には何も書かれていません。たぶん、神様への賛美、神様への感謝、信仰のことば、聖書の約束、互いに励まし、慰めることば、または、神様へのSOSかもしれません。神様は、神様を敬う者たちの声に耳を傾けられました。神を否定し、聖書の価値観を否定する声が大きく響く中にあって、主を敬う者たちの声がどんなに小さく聞こえたとしても、神様は、それをちゃんと聞いています。 

■今から7年前の8月、丹羽交一兄弟(妻の父)が89歳で天に召されました。大腸がんの再発によって腸閉塞を起こし、手術をしました。術後、自宅に戻ることを強く願ったので、自宅に戻りました。

  告別式のときに、丹羽交一兄弟が通っていた教会の牧師が、こんなエピソードを説教の中で話してくれました。ある牧師をゲストメッセンジャーとしてその教会に迎えた時のことです。ゲストの牧師が、メッセージの冒頭で、「この教会には、もうすでに片足を棺桶に突っ込んでいる人がいますね(つまり、もういつ死でも不思議ではない高齢の人がいますということ)・・・」と冗談のつもりで言ったそうです。その教会の牧師は、「なんて失礼なことを言うのだろう。そんなこと言わないでほしい。」と正直思ったそうです。そうしたら、いつもは口数の少ない、また、めったに表情を変えない丹羽交一兄弟が大声で、ハッハッハッハッハッと笑ったそうです。丹羽交一兄弟は、このときすでに、死の問題を乗り越えておられたんだろうと、言っておられました。日本の社会では、日常において、死についてはあまり触れないのが常識です。死の問題は、ただ、不安を与え、恐れを与えるからです。多くの人々が死の問題を解決できていないままでいます。この問題を解決出来ている者だけが、この問題を笑い飛ばすことが出来るのです。そのことを、丹羽交一兄弟を通して学ぶことができたと、その牧師は語っておられました。確かに、そうなのだと思います。イエス・キリストは死んで、よみがえられました。イエス・キリストを救い主として信じる者たちは同じようによみがえるのだということ、また、再会する希望があるのだということを私たちは知っています。だからこそ、死という問題を笑い飛ばすことができるのです。

  丹羽交一兄弟は、63歳のときにイエス様を信じました。それから、26年間、イエス様と共に歩んで来ました。何度か大病を患って、これでもう終わりかと思うときもありました。でも、それも克服して、神様に仕えることができました。80歳になるまで通信で神学校の授業を受けていました。牧師不在の時にはメッセージを担当したり、短期間でしたが海外に行って奉仕に参加することもありました。弱さや欠点はもちろんあったと思いますが、しかし、主を敬い、主を第一にする姿勢は、私にとって良き模範でした。

  妻は父親のために、術後、3つのことを主に祈ったそうです。最後まで便が出ること、食事がとれること、肺炎にならないことです。丹羽交一兄弟は、召される前の日まで、ちゃんと便が出て、食事ができて、肺炎にもなりませんでした。すべてが、神様の配慮であり、恵みであったことを感謝しています。

「彼らは、わたしのものとなる。万軍の主は仰せられる。わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える者をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」

  主を敬う者たちは、『神の宝』なのであると、預言者マラキをとおして語られています。神様は、神の宝、主を敬う者たちを、最後の最後まで尽きることのないあわれみをもって、守り通してくださるお方です。そのことを覚えつつ、感謝と平安の中を歩んで行きたいと思います。