罪を治める

2018年7月22日(日)主日礼拝 「罪を治める」ローマ6:6 佐々木 俊一牧師

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」 

■今日はローマ人への手紙6章6節からお話をしたいと思います。今日の聖書箇所の中に、「罪」と言うことばが出てきます。「罪」と言うことばについては、先週、三熊さんがメッセージの中でその意味を再確認さてくれました。「罪、ギリシャ語でハマルティア」、それは、「的外れ」と言う意味です。

 多くの日本人は、罪と言うと、何か犯罪をイメージしてしまうかもしれません。ですから、「あなたは罪人です。」と言われると、非常に抵抗があります。自分は警察に捕まるようなことは何もしていない、と反論したくなると思います。けれども、聖書で言う罪とは、もちろん、犯罪も含みますが、それだけではありません。憎しみや妬み、利己主義や自己中心も罪なのです。

 罪には、神様の計画や目的から外れた生き方をさせる力があります。そのような生き方は、神様が造った世界に悪影響を及ぼし、良いものを破壊します。現在、地球の自然や環境がおかしくなってきています。それは人間の欲に任せた行為の結果とも言えるでしょう。人間の社会においても、人の心がおかしくなってきています。人は多くの自由を手に入れたはずなのに、人間関係で悩む人がたくさんいます。精神病院はますます増加し、どこの病院も患者でいっぱいです。多くの人々が互いに傷つけ合っています。時には、命さえ平気で奪っています。罪には壊す力があります。夫婦関係を壊し、親子関係を壊し、家庭を壊し、社会を壊します。家族のあり方は、特に神様の関心事です。夫婦や親子、家族の中にある愛をとても喜ばれます。私たちはそんな神様の思いを大切にすべきです。とは言っても、人間に罪の性質がある限り、それらは起こるべくして起こったとも言えます。罪を治め、罪をコントロールするということは、人間にとって非常に難しいことです。それは、聖書を見ても現実を見ても明白ですし、昔も今も変わっていません。

■イエス様はこのようなことを言っています。「医者を必要とする者は健康な人ではなく、病人です。わたしは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」と。イエス様のことばには本当に慰められます。イエス・キリストを必要としているのは、正しい人ではなくて、罪人であるということです。イエス様は、宗教指導者たちが罪人としてレッテルをはっていた取税人や遊女、いかがわしい職についている人々とよく食事を共にしました。そして、神のみ国とその教えについて話しました。すると、罪人と呼ばれる人々の中から、イエス様を信じ従う者たちが起こされました。彼らのその後の人生は変えられていきました。また一方では、罪人の友となったイエス様のことを軽蔑し妬む人々、パリサイ人、律法学者、祭司と呼ばれる宗教指導者たちがいました。彼らは、イエス様の教えを否定し、その働きの邪魔をしました。そのような彼らに対しては、イエス様は大変厳しいことばをもって戒めています。イエス様が厳しい態度をとられたのは、罪人に対してではありません。イエス様の教えを否定し、救い主なるお方を否定し、自分たちこそが正しいと主張した人々に対してです。

■自分が罪人であることを認め、イエス・キリストを救い主として信じる人々は、イエス様に招かれた人々です。その人の罪は赦されて、神の子とされ、将来神の御国の住人となります。

 イエス様を信じる証として、私たちはバプテスマを受けます。その時、私たちは足のつま先から頭のてっぺんまで水に浸かります。それは何を意味するのでしょうか。それは、死です。ローマ6:6に、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、・・・」とあります。私たちの古い人、つまり、罪のからだ、その思索や思いは、イエス・キリストとともに十字架にかけられて死んで、葬られてしまったのです。そして、足のつま先から頭のてっぺんまで水の中に沈められた後、何が起こるのでしょうか。水の中から出て来ます。それは、イエス・キリストが十字架で死なれた後に新しいからだでよみがえられたように、私たちも新しく生まれ変わったことを意味します。残念ながら、私たちは、バプテスマの時に新しいからだでよみがえるのではありません。それは、将来起こることです。しかし、確かなことは、霊において新しく生まれ変わったと言うことです。それが、聖書的な見解です。肉体は依然として罪のあるままですが、霊においては新しく生まれ変わったのです。

■次にローマ6:6で気になる言葉として、「罪の奴隷」というのがあります。「罪の奴隷」とは何でしょうか。「罪の奴隷」とは、罪に縛られている状態、罪に振り回されている状態、罪にコントロールされている状態、罪に支配されている状態、罪を罪とも思わずに罪を平気で自由にやっている状態です。その結果、罪から来る報酬を刈り取ってしまうことになります。ローマ6:23に書かれてあることがそれです。

 私たちがイエス・キリストを救い主として信じたのは、罪の奴隷という立場から自由になるためです。私たちの古い人、罪の奴隷は十字架にかかって死んだのです。私たちは今、古い自分を生きているのではなくて、新しい自分を生きているのです。私たちは、古い人、罪に従って生きることに対して責任も義務もありません。私たちはもう罪を犯さなくてよいのです。

■私は以前、イエス・キリストを救い主として信じ、バプテスマを受けたなら、自動的に罪を犯さなくなるのだと思っていました。でも、それは全くの誤解でした。私は正しく聖書を理解していなかったのです。バプテスマを受けた後も罪深い気持ちに悩まされる自分がいました。もしかしたら自分は救われていないのではないだろうかと思いました。本当に自分はイエス・キリストを信じているのだろうか、と自分の信仰を疑うこともありました。そんなことを誰かに相談することなどできませんでした。恥ずかしいですし、あなたは救われていませんと言われるのが恐かったのです。ですから、まじめなクリスチャンのふりをしながら悩んでいたのを覚えています。

 私のように悩まなくても済むように、ここで、簡単にまとめてみたいと思います。

① イエス・キリストを信じても、罪の性質が無くなったわけではない!だから、クリスチャンも罪をおかすことがあるのです。

② イエス・キリストを自分の救い主と信じている者は、けっして罪に定められない!罪をおかしてしまったからと言って、神のみ国に入る資格を失うわけではありません。

③ 私たちの古い人はキリスト・イエスとともに十字架に付けられた!私たちの過去・現在・未来の罪はイエス様とともに十字架につけられました、これらの罪によってもはや私たちが神の裁きにあうことはありません。そして、十字架に付けられたのは、私たちがやってしまった罪だけではありません。私たちの古い人も十字架に付けられたとあります。ですから、私たちはもう罪の奴隷ではありません。私たちは古い自分に従わなくてよいのです。それでも、私たちが罪をおかしてしまうとしたら、ローマ7:15~17に書かれてあることがそれに対する答えとなるでしょう。それは、罪を行っているのは、もはや私(新しい人)ではなく、私のうちに住みついている罪(古い人)であるということです。※ここが、クリスチャンの甘えのより所、原因になっていることがある。   

 私たちは今、新しい自分を生きています。しかし、時々、古い自分が姿を現すことがあります。つまり、罪をやってしまうということです。そう言う意味で、古い自分も自分の一部です。私たちには、古い自分(罪)を治める責任があり、コントロールする責任があります。私たちが古い自分(罪)に従って歩む責任がないとは、そう言うことです。私たちは古い自分(罪)を治める責任があるのです。

■皆さんは、創世記4章にある、カインとアベルのお話しを知っていると思います。有名なお話です。神様はカインに向かって、「あなたは罪を治めなければならない」と言いました。けれども、カインは自分の罪を治めることができませんでした。そして、人類初の殺人が起こってしまいました。カインは、激しい嫉妬により弟のアベルを殺してしまったのです。罪を心の中だけで留めることができずに、つまり、治めることができずに、その罪を実際にやってしまった時、人は必ずその罪の代償を人生のどこかで支払わなければなりません。カインもそうでした。

 私たちは、罪に治められるのではなくて、罪を治めなければいけません。罪にコントロールされるのではなくて、罪をコントロールしなければいけません。そうしなければ、支払う代償は非常に大きいのです。特に、主にある兄弟姉妹に対し、欺くような行為や踏みつけるような行為をするならば、神様は黙ってはいないということが聖書に書かれていることを前回のメッセージで少しだけお話ししました。それは、その人を滅ぼすためではなくて、そうならないように悔い改めに導くためです。Ⅰコリント11:32やⅠテサロニケ4:6にある事例がそのことを語っていると思います。

 このようなことをお話しするのは、教会においても、クリスチャン家庭においても、いろいろな混乱が生じているからです。最近は、パワーハラスメントやセクシュアルハラスメントが問題になってきています。私たちクリスチャンは、罪の奴隷ではなくて、罪を治める者として神様によって立たされていることを覚えたいと思います。

   そのために、私たちは、日々神様と神様のことばに思いを向けて、神様と共に歩む者でありたいと思います。そして、自分の罪のことでも、他人の罪のことでも、神様の御心がなされるように、もっと積極的に罪を治める者として行動できるように祈りたいと思います。それではお祈りします。