聖さと愛

2018年7月8日主日礼拝<聖さと愛>Ⅰテサロニケ4:2-9佐々木俊一牧師

■現代の世の中において、愛について語るならば多くの人々の共感を期待できると思います。その一方で、聖さについて語るならば、今時、そんな古い考えに従うことに価値を見出す人はあまりいないように思います。このような傾向は、キリスト教界においても同様だと思います。愛には価値を見出すけれども、聖さにはあまり価値を見出しません。しかしながら、クリスチャンにとっては、聖さも愛と同様、大切にすべきアイデンティティだと思います。クリスチャンは地の塩であると言われています。クリスチャンの塩気として、聖さも愛も両方が必要です。

  今日は、テサロニケ(テッサロニキ)の教会に宛てたパウロの手紙から聖さと愛についてお話をしたいと思います。テサロニケという町はギリシャ北部にある港町です。現在、人口は約100万人で、アテネに次ぐ第二の都市だそうです。

  テサロニケに宛てたパウロの手紙は二つありますが、それらを読むと、テサロニケの教会ほどパウロに褒められている教会はありません。パウロは彼らの信仰を非常にほめているのです。しかし、当時、テサロニケのクリスチャンほど厳しい迫害の中にあった人々はいませんでした。彼らの信仰がそんな厳しい迫害の中で培われた信仰であることを覚えておいていただきたいと思います。

■今日の説教箇所を読む限りにおいては、テサロニケの教会はとても愛に満ちた教会だったように思われます。9節で、パウロはテサロニケの教会の人々に、「兄弟愛については何も書き送る必要はありません。あなたがたこそ互いに愛し合うことを神から教えられた人々だからです。」と言っています。それに対して、「聖さ」に関しては、多少なりとも問題点があったのかもしれません。パウロはテサロニケの教会の人々に、「神のみこころはあなたがたが聖くなることです。」と3節で教えています。英語で「sanctification」ですから、日本語では「聖化」のことです。私たちは、イエス・キリストを救い主として信じた段階で、神のものとして「聖別」されるのです。それは、救いを意味します。そして、バプテスマを受け、クリスチャンとして歩み始めます。私たちは天に召されるまで、聖霊の働きによって、私たちの内面や行いが取り扱われます。そして、キリストに似た者に変えられてゆくという過程を生きて行きます。これを、「聖化」と言っています。これはクリスチャンにとって、生きるべき姿勢であり生きるべき模範です。しかし、聖くなることが救いの条件ではありません。

  テトス3:5~7を開いてみましょう。「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。」 救いは、私たちの正しい行ないによって受けるのではなく、神様のあわれみ、つまり、イエス・キリストの十字架のみわざのゆえに、信仰によって受けるのです。ですから、それは、まったくの恵みなのです。神様のみこころは、私たちが聖くなることですが、そのことが救いの条件ではないことを私たちはとらえる必要があります。

■「許す」という言葉があります。現在、一般的には、二つの意味をもって「許す」が使われているようです。一つは、「許可する(allow, permit)」という意味での「ゆるす」です。「日本では、車の運転は18歳から許される。」など。もう一つは、「罪や過ちを赦す(forgive)」という意味での「ゆるす」です。これら二つの意味をもって、「許す」が使われています。しかし、聖書の「ゆるす」は、「許す」ではなくて「赦す」を使います。「許す」と「赦す」では、意味がかなり違います。こういった違いを知ったうえでお話を聞いてほしいと思います。

■許さない神: レビ19:2を開きましょう。「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」 神様は、聖いお方なので、神の民も聖い者であることが要求されています。ですから、律法を破ること、つまり、罪を犯すことは、絶対に許されないことなのです。罪を犯せば必ず、その代償を払わなければなりません。罪によっては、自分の命をもってその代償を払わなければなりませんでした。

  旧約聖書で、律法を破ることは絶対に許されないということは理解できると思います。しかし、新約聖書でも同じなのでしょうか。答えは、同じです。新約聖書でも罪を犯すことは絶対に許されません。神は聖いお方なので、罪を犯すことを許すことができないのです。

■赦す神: Ⅰヨハネ4:8~10を開きましょう。「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら、神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としてみ子を遣わされました。ここに愛があるのです。」 神は聖いお方なので、罪を許しません。しかし、神は愛のお方なので、罪を赦します。その赦しは、イエス・キリストが人のすべての罪を負って十字架でなだめの供え物として死んでくださったからです。もしも、私たちが罪を犯したとしても、イエス・キリストの十字架のゆえに、神はその罪を赦すお方なのです。※社会的責任を免れるということではありません。

■ここで人の弱さということについてお話ししたいと思います。人にはそれぞれに弱さがあることを神様はご存知です。自分の力ではどうすることもできない弱さです。もちろん、私にもあります。以前、強迫神経症についてNHKのテレビ番組で取り上げていました。あるひとりの男性の悩みは、他人から見れば非常に奇妙と思われる行為を行わないと自分の気持ちが落ち着かなかったり、恐れや不安におそわれたりするのだそうです。本人としては、自分は大丈夫なのだということを確認するための行為なのですが、それが何度も繰り返されることによって他人の目には異様に見えるのです。その男性は、そのような行為を人前でやってしまった時の惨めさや孤立感や拒絶感に長い間苦しんできました。彼の願いは、こんな人間もいるのだということを知ってほしいということと、受け止めてほしいということでした。

  私はこの男性の気持ちがよくわかります。私も小学4年生の時に、非常に精神的な打撃を受けた出来事を体験しました。それ以来、人前に立つと顔が赤くなってしまうので、人前に立つことを避けるようになってしまいました。何とか直したいと思いましたが、自分の意志や力ではどうにもなりませんでした。

  ショッキングな体験や問題のある環境、あるいは、悪い習慣を繰り返す中で、私たちは知らないうちに、自分の意志の力の及ばないところで自分が出来上がって行く場合があるように思います。あることへのこだわりやリアクションが、自分の意志の及ばない脳のある部分に刻まれてしまうような感じがします。一度そのような傷を受けると、自分の力ではなかなか直せません。

  罪もそれと似たようなところがあるのではないでしょうか。私たちは神の恵みの中で、キリストに似た者に作り変えられる過程の中にあります。私自身、変えられた部分がたくさんあります。しかし、まだまだ、変えられていない部分もたくさんあります。生きている間に、完全に変えられることはないでしょう。罪というのは実にしつこいものです。自分でどうすることもできないことは神様にゆだねるしかありません。イエス様はどんな罪をもった人間をも赦し、受け入れる用意ができています。イエス様は、イエス様を救い主として信じる者はだれでも、手を広げて抱きしめる用意ができているのです。

■「聖さ」ということが価値のないものとしてみなされる時代に、私たちは生きていると思います。また、罪とか不品行とか、そういったことについての定義が、揺れ動いて変わっていこうとしている時代にあるように思います。

  テサロニケの教会は、愛のある教会でした。しかし、先ほど言ったように、聖さについては何らかの問題があったのかもしれません。ですから、パウロはここで聖さについて語っているのではないでしょうか。聖さということを軽んじると、それは不品行な行為に向かわせます。その結果、6節に書かれているようなことが起こります。兄弟姉妹を踏みつけたり、欺いたり、傷つけたり、裏切ったりするようなことが起こるのです。聖さがあまりにも軽んじられると、傷つく者が増えます。その多くの犠牲者は子どもたちです。聖さが崩れると愛も崩れます。家庭は壊れ、教会も壊れ、社会も壊れていきます。しかし、神様はそれを放ってはおきません。主はこれらすべてについて正しく裁かれると書かれています。ある英語の聖書では、復讐するとか報復するとかの意味のことばが使われています。けれども、クリスチャンに対する神様の裁きは、滅ぼすためではありません。悔い改めのためです。神様は悔い改めに導くために行動を起こされるでしょう。それはある意味恐ろしいことです。なぜなら、痛い目に合わせられるからです。しかし、神様はご自分の愛する子を時には悔い改めに導くために懲らしめられることがあります。

■私たちは、聖さについて聖書的な理解をする必要があります。私たちの聖書理解の中に偏見や差別をもたらす考えがあるのなら、今一度、聖書全体から、その理解が本当に神様のみこころなのかどうか、正しいのかどうかを見極めて、必要があれば、改めなければなりません。しかし、逆に、私たちは時代の流れに妥協して押し流されてしまわないように、気を付けなければならないとも言えるのです。

  人も、家庭も、教会も、社会も、健全であるために、聖さと愛のものさしを保つことが必要だと思います。そして、クリスチャンは、地の塩として、聖さと愛を目標として歩むことが必要だと思います。

  神様は聖いお方ゆえに、罪を許さないお方です。しかし、神様は愛のお方であるゆえに、罪を赦すお方です。私たちはイエス・キリストの十字架の恵みの中で、神の聖さと愛に目を向けて自分自身もそのように歩めるように学んでいる過程の中にあります。さらに、イエス様の跡につき従って、神の聖さと愛のある、地の塩として生きていけるよう努めたいと思います。