神のわざが現れるために

2018年6月24日(日)主日礼拝

「神のわざが現れるために」

ヨハネ9:1~5 

佐々木俊一牧師

 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」

■今日の聖書箇所をとおして、イエス様の思いと考え方にふれたいと思います。イエス様は道の途中で、生まれつき目の不自由なひとりの男の人に出会いました。その時の出来事は、イエス様がどのようなお方かを私たちにおしえてくれます。それは、また、神様がどのようなお方かを知ることでもあります。

■1節~2節 生まれつき盲目であったこの男の人は、道端で物乞いをしていました。彼は生きる楽しみもなく、将来の希望もなく、でも、生きるためには物乞いをするしかなかったのだと思います。

  弟子たちはその男を見て、イエス様に質問しました。「先生、彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

  ユダヤ人の律法的な考え方からすると、罪と神の裁きには密接な関係があると考えるのが普通でした。たとえば、出エジプト記34:7(民数記14:18)を見ると、「恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者。罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、3代、4代に。」と書かれています。常にということではありませんが、神様の判断により父の罪を子に報いるということがあったようです。旧約聖書には、イスラエルの歴史を中心に、人間の罪深さが隠すことなくはっきりと書かれています。そして、罪の結果として、神の裁きがありました。それが、病であったり、飢饉であったり、戦争であったり、数々の災難であったのです。律法によるならば、罪を犯せば容赦なく裁きなのです。しかし、そのような対応は、イエス・キリストによって変えられました。イエス・キリストの十字架がそれを変えてくれたのです。

■ヨハネ3:14~15に、 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠の命を持つためです。」とあります。これはどういうことなのでしょうか。旧約聖書には、イエス・キリストの十字架を思い起こさせる出来事がいくつも見られます。その一つに、民数記21章の出来事があります。モーセがエジプトからカナンの地にイスラエルの民を導くために、40年かかりました。距離的には500キロメートルしかありません。しかし、彼らは40年間荒野をさまよい続けました。それは彼らの罪の結果でした。イスラエルの民は、何度もモーセに逆らいました。自分たちの手で神々の像を作りそれを礼拝しました。そのようなことに対して神の裁きがくだったのです。それらのことが、ヨハネ3:14~15に書かれていることと関連しています。民数記21:6~9を見るとそれと同じことが書かれてあります。神は、彼らの中に燃える蛇を送ったとあります。燃える蛇とは猛毒の蛇だと思われます。蛇は彼らにかみつき、多くが死にました。彼らは罪を認め、モーセに助けを求めました。神はモーセに言いました。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば生きる。」モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけました。蛇にかまれた者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、死なないで、生きたとあります。

  旗ざおは、T字形をしていました。T字形とはほぼ十字架の形です。そんな形の旗ざおの上にモーセは青銅の毒蛇を取り付けました。イエス様は言いました。「モーセが荒野で蛇をあげたように、人の子もあげられなければなりません。」これは、どういうことでしょうか。蛇は人々に死をもたらしました。しかし、死をもたらす蛇(実際は本物の蛇ではなく、その象徴である青銅の蛇ですが)はT字形の旗ざおにつけられて処分されたのです。かまれた人々がそれを見ると、いやされ、そして、救われました。十字架にかけられたイエス様が旗ざおに取り付けられた青銅の毒蛇なのです。青銅の毒蛇は死と罪の象徴です。しかし、死をもたらす罪は十字架につけられて処分されたのです。罪を犯した人々がそれを見るといやされたように、十字架の上のイエス様を仰ぎ見る者は、いやされ、そして、救われるのです。それは、霊的な意味でいやされるということであり、救われるということです。

■3節 弟子たちの質問に対するイエス様の答えは、その人が罪を犯したからでもなく、その両親が罪を犯したからでもないというものでした。多くの場合、いかなる不幸も罪と直接的な因果関係はありません。関係があるという考え方は、かえって、迷信的な束縛を生じさせたり、差別や偏見をもたらすことになりかねません。イエス様の見方は、マイナスをプラスに、否定的なことを肯定的なことに変えてくれます。それは、イエス・キリストの十字架の恵みのゆえにそうなのです。だからこそ、私たちは、イエス様の十字架のみ技に感謝し、ほめたたえるのです。

  人は誰でも、病気にもなるし、困難にもあいます。クリスチャンでもそうでなくてもみな同じです。しかし、違う点があります。それは、いかなる困難も神のわざが現れるためであるということです。もしも、私たちが、神に祈り、神により頼んで歩むならば、神様はそのことに必ず目を留めてくださるお方です。聖書には、神様が信頼に値するお方であることを表しているみことばがたくさんあります。それらの中から、2箇所見てみたいと思います。

① ヘブル12:11「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」 「懲らしめ」とは、訓練ということです。訓練によってつぶされてしまったら、それは訓練とは言えません。それは、神様が一番ご存知です。訓練は私たちにとって辛いことですが、しかし、そこから得るものは非常に大きいのです。これらのことをとおして、もしも、私たちに神様への信頼が増し加えられ、大きな平安を得ることができたのなら、それこそ、神様のわざが私たちに現われたということになります。

②Ⅱコリント1:10 「神は、これほどの大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。また、将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」

  パウロのなした宣教の働きは非常に大きなものです。しかし、その分、パウロが通った困難も他とは比較にならないほどに大きなものでした。何度も何度も危ない目にあいました。しかし、その度に神の守りがありました。そんなパウロの信仰がこのⅡコリント1:10のことばに表されていると思います。神様は、神様に仕える者、神様に信頼する者を、けっして、見捨てることはありません。

■4節~5節 このみことばは誰に向けて語られているのでしょうか。もちろん、これは弟子たちに対してでしょう。イエス様の3年半の公生涯の中で、後半になると、命が狙われるようになりました。イエス様が捕らえられると、次は弟子たちに危険がおよび、しばらくの間、身動きがとれなくなくなってしまいました。

  また、このことばは現代に生きる私たちに語られたことばでもあります。現在、ヨーロッパでは、宗教について語ることは一般的にタブー視される傾向があります。フランスでは信仰の自由はあっても、お互いの異なる信仰を尊重するために、伝道する自由が制限されていると聞きました。日本ではまだ伝道する自由があります。しかし、その自由もいつまでも続くかわかりません。

■オープン・ドア・チャペルでは毎週日曜日に必ず三つのことを祈っています。①新しいクリスチャンを生み出す教会、②新しい教会を生み出す教会、③新しいリーダーを生み出す教会となるように、お祈りしています。これらの祈りは、初代牧師のトム・ホエリー牧師の時代から継承されてきた祈りです。

  神様は、お一人おひとりの人生の中に、神様のわざを現わすために働いておられます。ですから、時には私たちの前に困難や問題が立ちはだかることがあります。また、神様は、一つ一つの教会をとおして、神様のわざが現わすために働いておられます。神様は、オープン・ドア・チャペルをとおして、神様のわざを現すために働いておられるのです。神様は、オープン・ドア・チャペルをとおして、どのように神様のわざを現されるでしょうか。私たちは大きな教会になることを目指す必要はありません。また、有名な教会になることを目指す必要もありません。しかし、新しいクリスチャンを生み出す教会、新しい教会を生み出す教会、新しいリーダーを生み出す教会にはなりたいと思います。それらのビジョンを実現するためには、私たちは、個人として、教会として、いくつかの難しい問題を乗り越えなければならないかもしれません。それらは私たちがもっと強い信仰を得るために必要なチャレンジになるのだと思います。でも、きっと大丈夫です。神様はそのような中に働いて神様のわざを現してくださるお方です。そのことを心に留めて、ともに神様に祈り、ともに神様に誠実に仕えていきたいと思います。そして、一緒に神様のわざが現されるのを見ていきましょう。それでは、お祈りします。