私のフポグラモス

2018年6月10日主日礼拝「私のフポグラモス」コロサイ1:27~29佐々木俊一牧師

「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」

■「奥義」とは何でしょうか。 英語の聖書では、「mystery」です。何か神秘的で、何か不思議なことなのでしょうか。今日の聖書のことばによるならば、奥義は、栄光に富み、栄光の望みであると言っています。何かイメージできるでしょうか。英語の方がイメージしやすいかもしれません。「glorious riches, hope of glory」です。グローリアスとグローリーですから、何かすごくてすばらしいことであることは、理解できます。その前後を読むと、奥義とは何かをはっきり書いてあります。それは、私たちの中におられるキリストであるということです。このキリストが、何かすごくてすばらしいことなのです。それは、私たちにとって、栄光に富んだ栄光の望みと言われていることなのです。パウロは、栄光に富んだ栄光の望みであるキリストをあらゆる人々に宣べ伝えるために、自分の命を惜しむことなく労苦しながら奮闘していました。そして、こうして2000年後に生きている私たちのところにも、その奥義が伝えられたのです。

■コロサイ1:28に、「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」とあります。救いは、罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じるならば、誰でも罪赦され神の国に入ります。イエス様が十字架にかけられたとき、両側にはふたりの囚人が十字架にかけられて処刑されました。片方の囚人は、死ぬ間際で罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じました。イエス様は言いました。「あなたはきょう、わたしとともに、パラダイスにいます。」このように、救いは、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じるだけでよいのです。その後のクリスチャンとしての成長は、救いの条件ではありません。そのことを覚えた上で、これからのお話を聞いてほしいと思います。

 神様の計画の中で、クリスチャンは、キリストにある成人、つまり、キリストに似た者として成長していくように導かれています。ところが、この地上においては、私たちがどんなに頑張っても完全なキリストにある成人になることはありません。なぜなら、霊においては新しくされましたが、私たちの肉と言われる部分、心や体にはまだ罪の性質があるからです。しかし、たとえ不完全でも、私たちがキリストにある成人を目標にして生きることは、神様のみこころなのです。

■Ⅱコリント5:17にこのように書かれています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

 「新しく造られた者」とは、「新しく生まれた者」と言ってよいでしょう。ヨハネの福音書3章に、パリサイ人ニコデモの話があります。イエス様がニコデモに、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言うと、ニコデモは、「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」と尋ねました。イエス様は答えました。「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」水と御霊によって生まれるとは、悔い改めと、聖霊が内に来て住まわれることを意味します。バプテスマのヨハネは水のバプテスマを授けていました。それは、悔い改めのバプテスマでした。そして、イエス様は聖霊と火とのバプテスマを授けるお方であると、そのヨハネは語っています。罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じるとき、聖霊が私たちの内に来て住まわれるのです。信じる者は、罪ある古い体の中に聖霊を持っています。これによって私たちは新しく生まれた者とされたのです。いずれ私たちは新しくされた霊にふさわしい、罪がなく朽ちることのない心と体を受けるでしょう。神の国においては、完全にキリストにある成人とされるのです。私たちがキリストにある成人となるために、まず、イエス・キリストを信じて、霊において新しく生まれることが必要なのです。

■「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」コロサイ3:9~10にこのように書かれています。

 他の訳の聖書も参考にしながら読み解いていくと、霊において新しく生まれた者がキリストの似姿に成長していくためには、キリストがどのようなお方かを知ることが重要であり、それを模範として従うことが勧められているように思います。私たちがクリスチャンになる前の私たちの体も心も霊も、神様によって造られたものです。しかし、それは罪によって汚されてしまいました。しかし、イエス・キリストを救い主として信じるとき、私たちの霊は聖霊によって新しく生まれ変わるのです。そのため、私たちは、霊においては完全です。しかし、心や体には罪の性質があって完全なものとは言えません。ですから、私たちにとってキリストの行いと言葉を学び、キリストを知ることはとても大切なことなのです。そして、キリストを模範として従うことにより、私たちは古い人を脱ぎ捨てて、新しい人がますますキリストに似せて形造られていくのです。

■Ⅰペテロ2:21「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」

ここに出て来る「模範」は、ギリシャ語で「フポグラモス」と言います。今日のメッセージタイトルは、「私のフポグラモス」です。ここで、「フポグラモス」がどういう意味なのか初めて分かりました。模範、お手本という意味です。

 当時の子供たちが文字の練習をするときに、高価な紙(パピルス)を使うことはできませんでした。紙の代わりに、ロウを塗った板の上に堅い筆(鉄筆など)で書きました。まず、教師が文字の模範を書き、生徒はその上からなぞって練習します。失敗したときには、その部分を鉄筆の反対側の平たい部分でロウを削って、もう一度やり直します。そのような作業が何度も何度も続くのです。教師が示した文字の模範のことを、フポグラモスと呼びました。 

また、時には、教師は子供の手の上に自分の手を乗せて文字の書き方を指導することがあったようです。私もそれに似た記憶があります。習字やペン字の練習の時に、学校の先生や自分の母親が同じようなことを私にしてくれたのを覚えています。自分で書く前に、まず、私の手の上に手を乗せて筆や鉛筆の正しい持ち方や動かし方を教えてくれたのです。そして、その後、自分で書いてみるのです。このようにして文字の書き方の基礎を身に着けました。間違いながらも繰り返し行う中で、徐々にコツを覚えて自分で容易に書けるようになっていきます。そのうちに、もっと難しいことに挑戦したり、もっと創造的で独自なものを自由に作ることができるようになります。しかし、そんな難しいことができるようになった時でも大切なことは基本(模範)です。私たちはいつも基本(模範)を忘れてはなりません。 

 人生において、私たちの歩みもそれと同じことが言えるでしょう。イエス様が基本であり、基準であり、模範です。私たちは、聖書をとおして、イエス様がどのようなお方で、どのように行ない、どのような言葉を語ったのかを知ることができます。私たちはそれを真似るのです。失敗しても何度でもやり直します。そうして、私たちは悪い心のあり方や習慣から自由にされ、キリストに似たものとされていきます。私たちはキリストの模範によって訓練を受けていきますが、それは私たちにとって束縛ではなくて、かえって私たちを自由にするためです。そして、みなが自由に伸び伸びと互いの個性を活かし合える創造的な生き方ができるためなのです。 

■終わりに、コロサイ1:28を新共同訳でお読みしたいと思います。「このキリストを、私たちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。」新改訳では、「すべての人を、キリストにある成人として立たせるため」のところが、新共同訳では「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように」となっています。新改訳は、クリスチャンとなってからの成長過程を重要視しているのに対して、新共同訳は、クリスチャン=完全な者・完成されている者として見ているように私は思います。ですから、新共同訳の言い方からすると、私たちクリスチャンはみなキリストに結ばれている者ですから、クリスチャンはみなすでに完全な者とされているのです。そうであるならば、クリスチャンは完全な者として完全な者にふさわしい生き方をするように導かれています。それはつまり、キリストのように生きることが当然であり、キリストのように生きることが私たちクリスチャンのライフスタイルなのだと言ってよいと思います。

 ところがどうでしょうか、私たちはいつもキリストのように行動することに成功しているでしょうか。失敗をくり返していないでしょうか。霊は新しくされ完全であっても、私たちの肉の部分、心と体には依然として罪があるからです。パウロは言っています。「私はやりたいと思うことができず、やりたくないと思っていることをやってしまう。やりたくないと思っていることをやらせるのは、もはや自分ではなく、自分の中にある罪である」と。たとえば、私は妻に対して優しい態度と優しい言葉でと望んでいるのに、疲れているときに何か不愉快なことを妻から言われると、つい厳しい口調になって言い返してしまったりすることがあります。そんな時、またやってしまったという敗北感を感じます。しかし、そこにはいつも神様の赦しと恵みがあることを覚えてください。ロウを塗った板の上に教師が書いた文字を生徒がなぞる時、失敗したらどうしますか。その部分を鉄筆の反対側の平たい部分で削って、また書き直します。それと同じように、私たちも諦めないで、何度でもキリストを私のフポグラモス(模範)として練習することができるのです。生きている限り、その繰り返しの中で、少しでもキリストに似た者に変えられて行きたいと思います。神様の赦しと恵みの中で。それではお祈りします。