友が意味すること

2018年5月6日主日礼拝「友が意味すること」ヨハネ15:12~17                                                                                                佐々木俊一牧師

 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

■5月2日(水曜日)の北星学園大のチャペルタイムでメッセージの奉仕の機会がありました。その時は「イエスとその仲間」というタイトルでお話をしました。今日は、聖書で言う「友」とはどういうものかに焦点を当てて、同じ箇所からお話をしたいと思います。

 ヨハネ15:14に、「わたしが命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である。」と書いてあります。イエス様と弟子たちの間柄は、友というよりも、先生(ラビ)と生徒、主人としもべ、神と人の関係です。ですから、イエスと弟子たちとの間には、主従関係、上下関係があったはずです。しかしながら、イエス様は弟子たちのことをもはやそのような関係で見るのではなくて、友の関係、対等な関係で彼らを見なすというのです。しかし、それには条件があります。イエス様が弟子たちに命じることを行なうならば、という条件です。イエス様が命じることとは何でしょうか。それは、「互いに愛し合う」と言うことです。互いに愛し合うならば、あなたがたはしもべではなくて、友であると言うのです。友ということは対等な関係ですから、弟子たちも弟子ではなく先生であり、しもべではなく主人であり、神の同労者であるということになります。イエス様の視点で見るならば、互いに愛し合う者たちこそが人々に模範を示すことのできる人々です。それゆえに、イエス様としては、弟子たちに、互いに愛し合う人々になってほしい、互いに愛し合うリーダーになってほしい、互いに愛し合う神の同労者になってほしいという願いを込めてのことばであったのではないでしょうか。

 しかし、イエス様が十字架に架けられようとしていたこの時点において、はたして弟子たちはこのイエス様の命令に従うことができる人間になっていたのでしょうか。それについて私の答えは「NO」です。と言うのは、聖書を見るとわかると思いますが、弟子たちは、いつまでたっても、自己中心で自己主張が強く、他を蹴落としてでもイエスの隣の位を自分のものにしようと企てる弟子すらいたぐらいですから、私には互いに愛し合う弟子たちの姿など想像することができません。ですが、そうだとしても、イエス様はあえて彼らを友と呼びました。イエス様が言うのですから、弟子たちは、イエス様が言うようにイエス様の友なのです。友と呼ばれるのにふさわしくない者が友と呼ばれるのですから、これは、まったく神の恵みとしか言いようがありません。

 13節では、「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない。」とイエス様は言っています。まさに、イエス様は、これ以上に大きな愛はないという、その愛をもって、友のために命を捨てようとしていました。皆さんもご存知かと思いますが、それがイエス様の十字架の死という出来事です。イエス様は友の罪を負ってその罪の代価を支払うために十字架に死なれました。しかし、死んだままで終わりませんでした。イエス様は、イエス様が言われたとおりに死からよみがえられたのです。イエス様が十字架にかかって死んで、死んだはずのイエス様がよみがえって弟子たちの前に現れるまでの間、弟子たちには弟子たちの痛みと苦しみがありました。その中を共に通り抜けた後に、弟子たちは何とか仲間としてまとまり始めました。彼らは過去の自分がどんなに醜い人間だったかを互いに知っている者同士でした。彼らは、寝食を共にしながら、自分の悪いところも良いところも互いに知り尽くした友であり、仲間となっていったのだと思います。

 弟子たちの価値観は、イエス様の死と復活を体験した後に変えられていきました。そして彼らの生き方も変えられていきました。それは、イエス様の愛をとおして、彼らが互いに愛し合うことの大切さを学び、互いに愛し合う者へと変えられていくプロセスの中を共に歩み始めたからです。

■ここで私の体験を分かち合いたいと思います。私が25歳の時のことです。私はユース・ウィズ・ア・ミッションというキリスト教団体が主催するクリスチャンのための成長プログラムに参加しました。それは、半年間のプログラムで、3ヵ月は聖書の学びを集中的に行ない、残りの3ヵ月は世界へ出て行って宣教を実践するというものでした。生徒は全部で13人でした。日本人が8人、アメリカ人が3人、イギリス人が1人、ニュージーランド人が1人でした。そのうち、男性が5人、女性が8人でした。私たちは、寝食を共にしました。同じ釜の飯を食べた仲でした。初めはとても楽しかったのです。みんな仲良しでした。みんな素晴らしい人だと思いました。しかし、それもつかの間、何やら険悪な雰囲気が漂い始めました。人間関係に問題が生じ始めていたのです。一度だけではありません。何度かありました。ある時は、一人の生徒がプログラムの途中でそこを去ろうとしたこともありました。

 そこには常時アメリカ人の指導者と日本人の指導者がいて、毎週、海外から講師が招かれていました。そのような指導者の下、話し合いやカウンセリングや祈りの時が持たれ、自分を見つめなおす時が与えられました。その中で、私たちは、良い所も悪い所もすべてありのままの自分を認め、そして、受け入れること、また、そんな自分たちを互いに受け入れ、互いに赦し合うこと、そのような実践を伴う学びを受けました。その学びはたった一度で済むことではなく、簡単なことではありませんでした。時間がかかりましたし、痛みが伴いました。しかし、学びの効果があって徐々に仲間としての一致が芽生えていったのです。

 そして、4カ月目に、宣教のためにヨーロッパへ出発しました。そこでもいろいろな困難が許されました。大変でしたけれども、今思えば楽しい思い出です。私にとって、海外に出るのはこれが初めての機会でした。そのため、私の無知によって起こしてしまったトラブルは、自分だけではなく仲間やその周囲の者たちをも巻き込んでしまいました。オランダのアムステルダムで2週間過ごした後、私たちはスウェーデンに渡るためにドイツへバスで移動しました。オランダからドイツに入る時です。パスポートの提示を求められました。現在は、その必要はありませんが、私たちが行った1982年の段階では、国境を通過するときにはまだパスポートの提示が必要でした。当時の私は、パスポートが必要なのは空港だけだと思っていました。それが、その時の私の最新の知識でした。パスポートが必要なのは空港だけではないということをこの時初めて知りました。国境に着きバスが停車しました。私は自分の身に起きた出来事を恐る恐るアメリカ人のリーダーに伝えました。「私のパスポートはスーツケースの中にあります。」その時のリーダーの顔を今も覚えています。非常に怖い顔でした。そして、すべての乗客の視線が私に向いていました。私はバスのトランクにある自分のスーツケースを出してもらうために、バスから降りました。自分のスーツケースが出てくるまで時間はどれくらいかかるのか心配でした。トランクのドアが開くと、最前列に私のスーツケースがありました。私はすぐにパスポートを取り出すことができました。私は勝利を勝ち取った勇者のようにパスポートを持ってバスの中に入って行きました。それにはみんなも驚き、一緒に喜んでくれました。こんなこともあるのですね。私は、神様に感謝しました。そして、私の失敗を共に味わってくれた仲間にも感謝しました。この後、リーダーとは関係が悪くなるどころが、より親しくなることができました。神様は実にすべての事を働かせて私たちを成長させてくださいます。

■私たちは一人で生きることはできません。仲間が必要です。友と呼べる人が必要です。仲間や友は、私たちの人生を豊かにしてくれますし、楽しくしてくれます。けれども、互いの距離感が近くなればなるほど、時として、互いに互いのとげによって傷つくことがあります。そこで、関係を解消することもできるでしょう。でも、多くの場合、そこで関係が終わってしまったらもったいない話なのです。

 私が残念に思うのは、教会の中で人間関係が悪くなると、教会を去って行く人が多いことです。言いたいことがあれば率直に言える関係作りが大切かと思います。言い過ぎは良くありませんし、親しい中にも礼儀は必要です。けれども、少々の喧嘩をしても、自分の意見や考えを言える教会でありたいと思います。喧嘩をしない兄弟姉妹などはいません。喧嘩をしたら互いに赦し合い、仲直りをすることを掟としましょう。イエス様が命じられたことば、「互いに愛し合いなさい。」に対して、これが私たちにとって私たちにもできる最善の選択ではないでしょうか。

私たちは、みなかけのある者です。誰一人として、完全な人はいません。ちょっと関係が悪くなった時には、互いに悪い所だけではなく良い所も見てあげましょう。さらに、難しい状況を共に乗り越えた時、そこには、乗り越えた人だけが見ることのできる風景が広がっていることを覚えましょう。これは、とても貴重な体験です。

■イエス様にとって、友とは何を意味するのかを終わりにお話ししたいと思います。ユダヤ的な考えでは、簡単に、「あなたは私の友だ」とは言いません。それだけに、「友」と言う言葉には重みがあるのです。例として、アブラハムのことをお話ししましょう。アブラハムは神と契約を結びました。それにより、すべての人類は祝福を受けることになりました。アブラハムは人類で初めて「神の友」と呼ばれた人です。旧約聖書では、Ⅱ歴代20:7とイザヤ41:8に、また、新約聖書では、ヤコブ2:23に、アブラハムが神の友であることが書かれています。

 友となる時、それは、お互いに切っても切れない関係になること、非常に親密な関係になること、何が何でもけっして相手を捨ててはならない関係になること、最後の最後まで関係を保たなければならない関係になること、そのような意味を含む関係なのです。とは言っても、人間はいつも完全ではありません。神様と契約を結び、神様の友と言われたアブラハムでさえ、神様が望まない選択をし、過ちに陥ってしまったことがありました。新約聖書ではアブラハムはある意味完全な信仰の人のように描かれていますが、旧約聖書を読むと、そうではなかったことがわかります。神様の赦しと恵みなくして、神と友の関係を保つことなど人にはできません。

 もう一つ、余談ですが、この関係に入るとすごい特典があることとをご存知でしょうか。この友の関係に入ると、相手が困っている時、相手を助けなければなりません。それが自分の事であろうと自分の家族の事であろうと、また、経済の事であろうと人間関係のことであろうと、相手を助けなければならないのです。16節に何と書かれていますか。「あなたがたがわたしの名によって父に祈り求めるものは何でも、父がお与えになるためです。」「わたしの名によって」とは、イエスの名によってということです。イエス様の友であるならば、豊かに備えてくださる神が私たちの必要に対してどこまでもどこまでも面倒をみてくださいます。私のイメージとしては、イエス様の銀行口座からいくらでも引き出せるというイメージでしょうか。それは、冗談ですけれども。

■私たちが互いに愛するならば、私たちはイエス様の友、神様の友であるのです。イエス様は友のためにご自分のいのちを捨てるほどの大きな愛をもって私たちを愛してくださいました。イエス・キリストは今も生きておられます。そして、今も私たち一人一人のことをその大きな愛で愛してくださっています。そのイエス様が最後の最後まで私たちの人生を応援してくださいます。あなたはイエス様にとって大切な友なのだと呼びかけています。私たちはその呼びかけに応答したいと思います。もちろん、私たちはみな欠けのある人間です。完全ではありません。時には、神様が望まない選択をし、神様が悲しむことを行なってしまうことがあるかもしれません、しかし、私たちが神様を捨てない限り、神様は私たちの友であり続けてくださいます。それは、まったく神様の恵みによるものです。友のためにご自分のいのちを捨てるほどの大きな愛をもって私たちを愛してくださったイエス様による恵みです。今日は、そのことを私たちの心にしっかりと刻んでおきましょう。それではお祈りします。