心の一新

テーマ「心の一新」/中心聖書箇所:ローマ人への手紙 12:2 

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

■みことばについて

 今日はこのみことばから「心の一新」というテーマでお話しさせていただきます。まず前半を見ますと、「この世と調子を合わせてはいけません。」と書かれています。新共同訳では「この世に倣ってはなりません。」となっています。また、「この世」を「この時代」と読み換えることもできるようです。どちらにしても、「この世」「この時代」の価値観、やり方に倣って、合わせて生きないようにと聖書は薦めています。

また、後半に入ると、神のみこころ、何がよいことで神に受け入れられることなのか、何が完全であるのかをわきまえ知ることが薦められています。「わきまえ知る」というところは、英語訳では「prove」という単語が使われています。これは、「試す」とか「証明する」という意味です。ただ頭で知るというよりも経験や現実の出来事を通して知っていくというニュアンスがあるのではないでしょうか。そのために必要なのが、「心の一新」ということになります。

「心の一新」ということの前に、「心」って一体何なのでしょう。同じく英語では「mind」になっています。意識、思考、意思、感情、判断の座と解釈されています。また、ものの考え方、感じ方と書かれています。これに従っていくなら、「考え方、感じ方を新しくして自分を変えなさい。」また、新共同訳では「変えられなさい。」ということになります。

 イエス様を信じられた方たちは「霊」においては新たにされ、生きたものとされました。しかし、「魂」と言いますか、心の領域においては、古いものがそのまま残っています。考え方、感じ方は以前のまま、何かあったときには以前のままの行動パターンということがあります。考え方のくせ、感じ方のくせ、行動のくせ、いろいろなくせが私たちの心の中には残っています。そこのところを新たにしなさいと語られているのではないでしょうか。簡単に言いますと、「古い考え方、古い感じ方、古い行動パターンを変えていきなさい。」と今日の聖書箇所は語っているようです。何によって変えるのでしょうか?みことばによってです。そして、そのところを変えられて行くのがクリスチャンの歩みであり、成長である。また醍醐味であると考えさせられます。

■私の証

 札幌に来て間もないころ、ある聖書学校に行きました。事情があって1学期間でやめなければならなくなりましたが、良い学びをさせていただきました。その学校のひとつの授業の中で、「自分の今までの歩みで赦せない人をリストアップしてくる。」という課題が出ました。私は、「そんな人はいないな~。」と最初は思いましたが、考えてみると、「いた~。」ということに気づきました。しかもそのひとりを思い出した後、何人も何人も思い出し、まるで最初の人を先頭にして大勢の人がこちらに向かって行進してくるような感じがしたほどでした。「こんなにいたんだ。」と思いました。さて、次の課題が出ました。それは「リストアップした人々をひとりずつ赦す。」という課題でした。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)と聖書には書かれています。

 長年恨んできた最初のひとりを「主よ、○○さんを赦します。」ということばとともに赦しました。この方は中学校のときの恩師で、後になり、同じ小学校の同僚として働いた人でした。私に近づいてきてはいや~なことを言っていくということを繰り返した人です。あるときは小ばかにするようなことば、あるときはあざけり、かなり失礼なことを何度も言われました。「どうせ嫌なことしか言わないのなら近づいてくるなよ!」と思いました。でもなぜか、こういう方に限って早く昇進し、一年ほど経つと教頭になって転勤して行かれました。そして間もなく校長になられました。もう別れたので良かったのですが、今度は私が転勤しなければいけない時が来て、「もしもこの方が校長をしている学校に転勤するようなことになったら私はどうしたらいいのだろう。次の学校で一緒にならなくてもまたその次では一緒になるかもしれない。」と考えるようになりました。同僚ならまだしも、こんな人の下で働くのは真っ平ごめんです。「あんなやつを校長なんて呼べるか!」そして、ひとつのシナリオを考えていました。もしも同じ学校になったら、辞表を書き、「あんたの下ではたらけるか!」と言って辞表を叩きつけて辞めるというものでした。苦労して手に入れた教師の道でしたが、仕返しと一緒にそれを捨てようと思ったのです。幸いにしてこの方の学校には行くことがなく、数年後結婚するために教員を辞めることになりました。

 この赦しは私が『三大赦し』と呼んでいる赦しの第一番目です。この体験は私にとって本当に良いレッスンになりました。今まで嫌なことをしてくる人は憎むというパターンで生きてきましたが、「赦す」という選択肢が加わったのです。新しいパターンができてきたのです。そしてそれを選択しさえすればできるんだという自信も生まれました。

さて、三大と呼んでいるので、あと二回の大変な赦しがありました。忘れられないのは三番目の赦しです。すごーく赦し難くて、この方の言動には本当に悩まされました。ある時私は、左手にお皿、右手にスプーンを持っていたのですが、この方の話をしたら腹が立ってスプーンでお皿をパーンと叩いてしまったのです。そうしたらお皿が割れてしまい自分でも驚きました。(念のために言っておきますが、お皿を割ったのはこれが最初で最後です。いつもお皿を割っているわけではありません。)すごーく赦し難い方だったことは間違いありません。できることなら赦したくなかったのですが、「やっぱり赦さなきゃだめだよね。」と思い、赦すことに決心しました。「神様、○○さんを赦します。」と宣言しました。そうしたら、すごいことが起こったのです。私の内から喜びがどーっと溢れてきたのです!「何だこれは!」と思うほどでした。「これは生ける水の川か!」と思いました。ヨハネ7:38に「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と書いてあります。自分の赦さないかたくなな思いが川をせき止めていたのかなーと思わされました。

 『三大赦し』はこれで終わったのですが、これが第一部であったことが後になって分かりました。まだ第二部の『三大赦し』が待っていたのです。第二部のお証は割愛させていただきますが、これは全て職場の上の人たちです。もしも私が世の中のやり方に倣ってゴマをすりすりしていたら、ある程度は避けられたかもしれません。そうやって乗り切って行く人はどこの職場にも実際いました。でも私はそういうやり方はしませんでした。

 私たちは生きている限り赦していかなくてはいけない人々に出会います。赦すときに必要なことは何でしょうか。感情に立たないことです。自分の感情を優先するとき、赦すことはできなくなります。感情は「いやだ、いやだ、絶対に赦せない!」と言います。意思を働かせることが大切です。赦すことに決めるのです。そして赦しを宣言していきます。また嫌な感情が戻って来ても何度でも宣言して行きます。すると、感情の癒しはあとから付いてきます。不思議です。私も記憶としてはこんなことされた、とかこんなこと言われた、とか覚えているのですが、感情的な傷はもうありません。痛みもないです。主がいやしてくださったのです。ですから今本当に自由です!どちらかと言えば、相手のために赦すのではなく、自分のために赦すということなのかもしれません。恨みを持ち続けているとその人にすごーく縛られます。かえって繋がれてしまうのです。

 みなさんは歌舞伎役者の松本幸四郎さんをご存知だと思うのですが、(今は松本白鸚さん)テレビのトーク番組で一般の方が作ったある川柳を紹介しておられました。「よく言った それをあんたが やってくれ」

というものです。白鸚さんはこの川柳をどうもご自分を自戒するために心に留めておられるようでした。いいこと言ったらまず自分がやらなきゃということです。私も今回いいことを言っておきながら今、自分がやっていないのでは何にもならないと思い、ちょっとあやしい方々の赦しを宣言しました。そうしたら、やっぱりやって来たのは自由と解放、喜びと平安でした。

■最後に

 聖書のみことばは真理です。それゆえに真理に従うとき、わたしたちには本当の自由がやってきます。「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31−32)自分の考えに固執するのか、聖書の真理に服するかの選択です。でもくれぐれも律法的に考えないでください。どうしてもそうしなければならないという風に。たとえ人を赦すことができなくても、みなさんに対する主の愛は全く変わらないでしょう。少しも変わらないと思います。

またある方はこう言われるかもしれません。「俊子さんはいいよね、すぐ赦せるから。」そんなことはありません!いつも闘いの果てにやっと赦しを決めます。不満をたらたら言った後にやっとです。またある方は言われるかもしれません。「俊子さんはそれほど赦し難い人には会ってないからできるのかも。」それもちがいます!あまりにも手ごわい相手で、パニック障害になりかけたこともあります。確かに近しい人ほど、また現在進行形であればあるほど赦し難いことはわかります。

 また、ある方はこう言われるかもしれません。私には赦さなければならないような相手はいません。安心してください。他にも薦められていることは聖書の中にたくさんあります。今日は赦しのこともお話ししましたが、「みことばによって考え方、感じ方を変えられること」がテーマです。自分の考え、自分の思いよりもみことばを選ぶということです。そのように決心するなら、たとえ失敗することはあってもできると信じます。たったひとつでも聖書のみことばを行う時に、主の栄光が現わされてきます。そしてそこには真の自由と解放、喜びと平安があります。