聖霊と復活のいのち

2018年4月1日イースター礼拝

「聖霊と復活のいのち」ローマ8:9~11佐々木俊一牧師

■「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:9~11)

 イエス・キリストは死の力を打ち破り、復活しました。イエス・キリストは死者の中から生き返られたのです。ところで、この出来事は私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。この出来事は私たちにとってどうして重要なのでしょうか。ともに考えてみたいと思います。

「死」というテーマは、人間にとって古くからある難問です。多くの人々が「死」について論じてきました。「死」について共通して思うことは、死に対する不条理です。なぜ人は生まれて、そして、死ななければならないのか、その理由がわかりません。死んだら人はどうなるのか、その答えをはっきり言える人は誰もいません。死なないかぎり誰も死について語ることはできないのです。「死」は、人間に絶望と恐怖を与えてきました。ですから、死についてはあまり考えないほうがよいというのが日本人の一般的な考えだと思います。

 イースターの出来事は、私たちに堅固な希望を示すものです。私たちにとって何が希望なのかと言うと、イエス・キリストがよみがえられたということが、信じる私たちにも同じように起こるのだということです。イエス・キリストの復活は、そのことの確証です。Ⅰコリント6: 14に、「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。」とパウロは言っています。

 イエス様は「死」という暗闇の中に、光を灯してくださいました。その光のおかげで、「死」はもはや恐いことではないということがわかってきました。もちろん、恐怖心がすべて取り除かれるわけではありません。未体験のことは、誰にとっても怖くて不安なものです。しかし、私たちにはそのような不安や恐れから助けてくれる聖霊が共におられるのです。今日の聖書箇所である、ローマ8:9~11を見ると、イエス・キリストを信じる者の内には助け主なる聖霊がおられることがわかるかと思います。

■9節と10節を見てみましょう。「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」とあります。

 ここに、「御霊」と出てきます。仏教の御霊とは異なります。仏教で言う御霊は、死んだ人の霊です。聖書にある御霊は人の霊ではありません。人の霊は、ただの霊です。御霊とは、聖霊のことです。しかしながら、ギリシャ語では、聖霊も人の霊も同じ言葉で表されています。それは、「プニューマ」と言う言葉です。「息」とか「風」という意味があります。プニューマが、聖霊を意味していることもあれば、人の霊を意味していることもあります。どちらなのかについては、その前後の言葉から判断しているのです。

 私たちの体は聖霊の宮(神殿)であると聖書は言います。イエス・キリストを信じる者の内には聖霊なる神様が住んでおられるからです。そして、聖霊が内に住んでおられるなら、その人は肉の中にではなく、聖霊の中にいるのだと言っています。ここでは、聖霊のことをキリストの御霊とも言っています。キリストの御霊が内に住んでおられるなら、体は罪のゆえに死んでいても、霊は生きているのだと言うのです。これは、つまり、聖霊が内に住む前は霊は死んだ状態にあったと言うことです。聖霊が住むことによって死んでいた霊がいのちを得たのです。しかし、体はそうではありません。この体はいつか死んでしまうのです。聖霊が私たちの内に住むことによって、私たちの霊はいのちを受け、力を受け、そして、守られているのです。

■11節を見てみましょう。「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」

 この箇所を読むならば、イエス・キリストの復活と聖霊には何か関係があると言うことが見えてきます。そして、聖霊は、私たち自身の復活とも関係があると言うことが見えてくるはずです。

 パウロは、地上のからだもあり、天上のからだもあり、そして、血肉のからだもあり、御霊のからだもあると言っています。そして、イエス様は、信じる者には永遠のいのちを与え、その一人一人を終わりの日によみがえらせると約束してくださっています。聖霊が内に住んでいる人々は、イエス・キリストがよみがえられたように、終わりの日に天上のからだ、御霊のからだでもってよみがえらせてくださるのです。

■イースターは、イエス・キリストの復活をお祝いする日です。イエス様は、復活してから 40日の間、この地上にとどまっていました。そして、弟子たちの前に現れて神の御国のことを話し、また、数多くの確かな証拠を持って、ご自分が生きていることを弟子たちに示しました。40日の最後の日に、再びこの地上に戻って来ることを約束して、エルサレムのオリーブ山から天に上げられたことが使徒の働き1章に書かれています。その10日後くらいに、イエス様が言われたとおりに聖霊がこの地上に下られました。それが、ユダヤの三大祭りの一つである五旬節、あるいは、七週の祭りとかペンテコステと言われている祭りの時に起こった出来事です。イエス様は、この聖霊を「助け主」と呼んでいます。その助け主なる聖霊は、イエス様が天に戻られた後に、地上に遣わされたのです。

 イエス様がこの地上に遣わされたのは、私たちの罪を贖うため、十字架に架けられて私たちの罪を代わりに負って死ぬためです。それでは、聖霊がこの地上に遣わされたのは何のためでしょうか。どういう目的、どういう役割があるのでしょうか。

 聖書には聖霊の役割が複数見ることができます。聖霊は助け主です。信じる者の人生全般にわたっていろいろな面で助けてくれます。聖霊は私たちに、イエスが救い主であることを悟らせてくれます。また、聖霊は、私たちが聖書を読むときその理解を助けてくださり、神様のことやイエス様のことがよくわかるように導いてくれます。また、聖霊は、神様のみこころが何かを示してくれます。また、聖霊は私たちの内にある罪を示し、悔い改めへと導き、その罪から清めてくれます。また、聖霊は、私たちの言葉にならない祈りをも知ってくださり、代わって父なる神様にとりなして祈ってくれます。私たちは、聖霊にはいろいろとお世話になっているのです。

 聖霊にはこれらの大切な役割がありますが、何よりも大切な聖霊の役割があります。これからそのことをお話ししたいと思います。まずは旧約聖書を見てみましょう。

■創世記24章を見ると、アブラハムは年を重ねて140歳くらいの高齢になっていました。アブラハムは自分の年齢を考えて大事なことは最も信頼のおける最年長のしもべに伝えていたようです。それは、たぶん、創世記15章に出てくるエリエゼルと言う名前のしもべです。エリエゼルとは、「神は助け主」と言う意味です。アブラハムは、エリエゼルにイサクの嫁探しのために指示を与えました。一つ目に、カナン人の娘たちから嫁を迎えてはならないと言うことです。二つ目に、アブラハムの故郷に行って嫁探しをするということです。3つ目に、エリエゼルと一緒にイサクをアブラハムの故郷に連れて言ってはならないと言うことです。この三つの指示のもと、アブラハムはイサクの嫁を探すためにアブラハムの故郷カランにエリエゼルを遣わしました。そして、そこでエリエゼルはアブラハムの兄弟ナホルの娘リベカに出会いました。エリエゼルは、リベカが神の導くイサクの嫁であると確信しました。こうして、エリエゼルはリベカを連れてアブラハムとイサクのいるカナンの地に戻ってきました。

 旧約聖書は新約聖書の影であるとへブル書に書かれています。つまり、旧約聖書の人物や出来事の中に新約聖書に書かれている真理が表されているのです。24章に書かれていたイサクの嫁探しの出来事の中で、アブラハムは父なる神を表し、イサクは子なるキリストを表しています。そして、エリエゼル、その意味は「神は助け主」、彼は聖霊を表しています。それでは、リベカは誰を表していると思いますか。教会です。教会はキリストの花嫁と言われています。また、それはイエス・キリストを信じる私たち一人一人のことでもあります。ついでに、新約聖書にある「助け主」はギリシャ語で「パラクレトス」、意味は「そばにいて助ける者」です。

 聖霊にはいろいろな役割があります。その中でも、聖霊の役割、聖霊がこの地上に天の父とキリストのもとから遣わされた目的は、何でしょうか。キリストの花嫁を探すことです。イエス・キリストを救い主として信じる者を見つけるために地上に下られたのです。聖霊の第一の役割、第一の目的は、キリストの花嫁を探すことです。そして、見つけたら、これはキリストのものという印を付けるのです。それは聖霊ご自身がそこに住むことです。そして、聖霊は、そこで、その人をキリストの花嫁として整えます。そして、ついにその人が地上を去るときに、天の父とキリストのいるところまで連れて行くことです。

■ある宗教では、念仏を唱えると極楽に行けるとか、高額な戒名でより安心して死後の世界に行けるとか、そのような話を聞きます。けれども、念仏を唱えても、戒名に多額のお金を費やしても、神様のおられるところには行けません。聖霊が連れて行ってくれるのですから。私たちがこの地上を去るとき、私たちは一人で去って行くのではありません。人は一人で生まれ、一人で死んでいく孤独な生き物のように言われます。でも、それは違います。私たちは、けっして、一人ではありません。聖霊がそばにいて、私たちを導き、助けてくれるのです。私たちをイエス様のもとに連れて行くのが聖霊の大きな役割です。

 イエス・キリストは死の力を打ち破り、復活しました。イエス・キリストは死者の中から生き返られたのです。そして、それを信じる私たちも同じように復活します。イエス・キリストは、信じる者には永遠のいのちを与え、その一人一人を終わりの日によみがえらせてくださると約束してくださっています(ヨハネ6:39)。

 皆さん、「ラザロ」という名前を知っていますか。ラザロには二人の姉妹がいました。マルタとマリヤです。そして、ラザロは一度死にましたが、イエス様がそのからだをよみがえらせてくれました。「ラザロ」の意味は、「神は助け主」です。どこかで聞いたことがありませんか。創世記に出てくるアブラハムのしもべ、「エリエゼル」の意味と同じです。「エリエゼル」をギリシャ語で言うと、「ラザロ」なのです。よみがえりと助け主なる聖霊との関わりが、生き返ったラザロに示されているような気がします。

 私たちの復活の希望は根拠のない希望ではありません。イエス・キリストの復活は、旧約聖書を土台にして、そこに書かれていることがイエス・キリスの誕生以降に実現し、その証人たちの証言と聖霊の導きによって新約聖書が書かれました。イエス・キリストの十字架と復活は、旧約聖書の預言の成就なのです。私たちの希望は、このように旧約聖書と新約聖書と言う十分に信頼に足る神の啓示によって支えられているのです。それではお祈りします。