足を洗う

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2018年3月25日主日礼拝「足を洗う」ヨハネ13:1~17佐々木俊一牧師

 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」

■イエス様が十字架にかけられるまで間もない時のことです。イエス様は、弟子たちとの最後の晩餐の席で、重要な事柄を多く語っています。その一つがこの箇所に書かれています。

 教会によっては、この時期に「洗足式」を行います。イエス様が言われたことに習って、洗足式ではお互いにお互いの足を洗い合うのです。今日のメッセージのタイトルは、「足を洗う」です。「足を洗う」という表現を国語辞典で調べると、「悪い仲間や悪事から離れる。好ましくない生活や仕事をやめる。」等と書かれていました。悪いことを改めて、正しい方へ向きを変える、つまり、それは、悔い改めに通じることでもあるように思います。今日は、イエス様が足を洗うことで何を意味していたのかを共に見ていきたいと思います。 

■イエス様はたらいに水を注ぎ、弟子たちの汚れた足を洗って拭いてあげました。イスラエルは乾燥した気候なので、土ぼこりで足が汚れやすいのです。ですから、客をもてなすときには、しもべが水がめに水を用意して、客の足を洗ってから家の中に案内するのです。それが客へのもてなし方でした。汚れた足を洗うのは、しもべの役割でした。イエス様はしもべの姿で、弟子たち一人一人の汚れた足を洗っていたのです。

 ペテロは、イスラエルを救ってくださる偉大なお方に足を洗ってもらうなんて、そんな失礼なことはできないと思ったのでしょう。ですから、ペテロはイエス様に足を洗ってもらうのを初めは拒否しました。それに対し、イエス様はこう言われました。「もし、わたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」 イエス様を愛するペテロとしては、この言葉は実にきつかったでしょう。それでペテロは、態度を180度翻して、しかし、同じ熱心さをもって、今度は、足だけでなく手も頭も、つまり体全体を洗うようにイエス様にお願いしました。イエス様は言われました。「水浴した者は足以外洗う必要はありません。全身清いのです。」 このイエス様のことばの中に、「今はわからないが、あとでわかるようになります。」と言われたことのヒントが隠されているのだと思います。

■旧約時代に、モーセの幕屋というのがありました。そこで神に仕える祭司たちは、彼らが祭司として就任するときに、一度だけ体全体を水で洗って清めなければなりませんでした。そのあとは、ただ手と足を洗うだけでいいのです。祭司たちは、毎日罪のためのいけにえを捧げなければなりませんでした。彼らにはいけにえとしてささげる牛や羊を殺す作業がありました。そのたびに手が血で汚れたり、足が土ぼこりで汚れたりするのです。汚れをきれいに取り去るために、洗盤の水で洗いました。しかし、体全体を洗うことはありませんでした。体全体を清めるのは、先ほど言ったように、祭司になるとき、ただ一度だけでよいのです。この一度限りの洗い清めは、新約時代の水のバプテスマを表していると言ってよいでしょう。イエス様がここで、体全体を洗う必要はないと言っているのは、そのためです。水浴、つまり、水でバプテスマを受けた者は全身が清められているので、洗うのは足だけでよいとイエス様は言われたのです。それでは、手は洗わなくてよいのでしょうか。新約時代では、イエス様が永遠の罪のいけにえとなってくださったので、もはや、動物を殺して捧げる必要はありません。手は汚れないのです。ですから、手を洗う必要はないのです。

■イエス様は弟子たちに質問しました。「わたしがあなたがたに何をしたかわかりますか。」神であられるイエス様が弟子たち一人一人の足を洗うことによって、イエス様は何を教えようとしていたのでしょうか。イエス様は私たち人間の罪を赦すために、ご自身の命を捧げました。イエス様の十字架の血潮は、信じる者の罪の汚れを完全に洗い流し、清めることができるのです。旧約時代の祭司たちの水浴、あるいは、新約時代の水のバプテスマは、罪の完全な赦しと清めを象徴しています。私たちがイエス・キリストを救い主として信じ受け入れた時、神なるお方、イエス・キリストが罪で汚れた私たちをきれいにしてくれました。イエス様のおかげで、私たちの罪は完全に取り除かれたのです。さらに、主に仕える祭司として私たちを立ててくださいました。

■ところで、その後、私たちはもう二度と罪を犯さなくなったでしょうか。私の場合を少しお話ししたいと思います。私がバプテスマを受けた時、私はもう罪深い思いに悩まされることはないと思っていました。しかし、その期待は裏切られました。私は、バプテスマを受けた後も、妬みや憎しみ、自己中心や自己欺瞞、不安や恐れの感情が心の内に湧いてくるのを経験しました。そんな自分が嫌でたまりませんでした。しかし、それでも、神様は私の事を完全に赦してくださり、受け入れてくださり、愛してくださり、まったく罪のない者として見なしてくださり、神の子として扱ってくださっていることを知りました。私がこの地上で犯してしまういろいろな悪いことについては、汚れた足を自分で洗うように、自分の罪を主のみ前に告白し、清められる必要があります。

 また、その罪によってお互いにお互いを傷つけ合う場合があります。それについて、イエス様は、「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」と言っているのです。それは、互いに低くなって、互いに互いの罪を赦し合うことであり、神様のみ前では罪のない者として見なされていることを互いに認め合うことです。神様がまず、罪のない者として私たち一人一人を見てくださっているのですから、私たちもそうするように、イエス様は私たちに模範を示してくれました。そして、これは、イエス様の新しい戒めであり、イエス様からの命令です。私たちは、主によって祭司とされました。ですから、この命令に従うことは、祭司としてやらなければならない作業なのです。

■ここで、三つの「足を洗う」についてまとめてみたいと思います。まず一つ目の「足を洗う」は、「イエス様が私の足を洗う」です。イエス・キリストを救い主として信じた者は、その十字架の血潮によって罪は洗い清められ、完全に正しい者として神のみ前に立つことができるのです。この罪の洗い清めは、新約時代のバプテスマによって象徴されています。しかし、私たちは、その後も罪を犯してしまうかもしれません。イエス様は、それらの罪からも私たちを清めてくださいます。ペテロがイエス様に足を洗ってもらうのを拒否した時、イエス様は、「もし、わたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と言われました。つまり、それは、イエス様と関係を持たない限り、私たちの罪が洗い清められることはないからです。このように、クリスチャンになった後に行ってしまう罪からもイエス様は私たちを洗い清めてくれるのです。

 二つ目の「足を洗う」は、「私が私の足を洗う」です。先ほども言ったように、イエス様によって正しい者と見なされている私たちですが、悪い思いになったり、悪いことをしてしまったりと言うことがあります。そんな時、私たちは、自分で足を洗う必要があります。それは、つまり、罪を罪として認め、神のみ前にその罪を告白することです。神様は真実なお方ですから、それらの罪を赦し、すべての悪から私たちを清めてくれます。

 三つ目の「足を洗う」は、「お互いにお互いの足を洗う」です。私たちはみな完全ではありません。けれども、神様は私たちを完全に罪のない者として見てくださっています。そんな恵みの中に私たちはいるのですから、互いに低くなって、互いに互いの罪を赦し合い、罪のない者とされていることを互いに喜び合わなければなりません。神様がまず、罪のない者として私たち一人一人を見てくださっているのですから、私たちも互いにそうするように、イエス様が模範を見せてくれました。

■「あなたがたがこれらのことを知っているなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。」とイエス様は言われました。イエス様がこう言われる前に、このようにも言っています。「今はわからないが、あとでわかるようになります。」私たちはそれが何かもうわかっています。イエス様によって教えられたことを、ただ聞くだけでなくて、それを行うときに、私たちは祝福されます。ですから、聞くだけの者にならないで、行なう者になって、神様の祝福を受けて行きましょう。「足を洗う」の意味することを互いに実践していきたいと思います。そうしたら、私たちはもっともっと祝福を受けて、豊かな実を結ぶ者になります。それではお祈りします。