あがない

2018年2月25日主日礼拝「あがない」へブル9:12 佐々木俊一牧師

「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」へブル9:12

■旧約聖書を読むと、幕屋や神殿では毎日のように、動物のいけにえがささげられていたことがわかります。いけにえとしてささげられる動物は、羊や山羊や牛です。これらのものは、イスラエルの民にとって大切な財産でした。自分たちの罪を赦してもらうために、自分たちの大切な財産を大量にささげなければなりませんでした。

  今日の聖書箇所に、「あがない」ということばが出てきました。みなさんも今までに何度か聞いたことがあると思います。けれども、「あがない」とは何ですかと聞かれたなら、何と答えるでしょうか。もしかしたらはっきりと言い表わすことが難しいかもしれません。今日は、「あがない」のことを少し学びたいと思います。

■へブル9:12に出てくる「あがない」は、ギリシャ語で「アポリュトゥローシス」と言うそうです。その意味は、「買い取ること」、あるいは、「身代金を払って捕らわれの状態から解放すること」とあります。つまり、イエス・キリストはご自分の血によって、私たちを買い取ってくださったということです。あるいは、イエス・キリストご自身の血を身代金として罪と死の支配から私たちを解放してくださったということです。

  旧約聖書のレビ記17:11にこのようなことが書かれています。「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」先ほど述べたように幕屋や神殿では毎日のように人々の罪を贖うために多くの動物の命が犠牲になっていました。それは、レビ記17:11に書かれてあるように、贖いをするのは血だからです。しかし、動物の血には、真に罪と死の支配から人々を解放する力はありませんでした。それは、ただ、本物を表している象徴にすぎないのです。贖いのために、病気や傷のない、きれいで完全な動物の血が求められたように、人を罪と死の支配から自由にするためには、罪のない聖くて完全な人の血が求められるのです。それをクリアーできる者は人間には存在しません。それをクリアーできるのはただ一人、神の御子、イエス・キリストだけなのです。イエス・キリストだけが、完全に人であり、完全に神であられるお方だからです。

  新約聖書の中に、私たちが、神なるお方の血という代価をもって買い取られた者であることが述べられている箇所があります。そのいくつかを見てみましょう。

*マタイ20:28「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」イエス・キリストだけが、人を贖うためにその代価を支払うことができるのです。代価になりえるのは、イエス・キリストご自身のいのちであり血あるのみです。イエス・キリストはそのために来られたのです。

*使徒20:28「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」教会は、神がご自身の血をもって買い取られた人々の集まりです。

*Ⅰテモテ2:6「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。」

*黙示5:9「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、」イエス・キリストはその血によって、ユダヤ人だけではなく、世界中の人々を贖ったのです。

私たちは、神なるお方の血という代価をもって買い取られ、罪と死の力から解放されました。今、私たちは、神の支配の中にあって義と永遠の命を与えられているのです。罪ある者がこの地上の命を終えたとき、ただ永遠の滅びに行くしかありませんでした。しかし、神の御子イエス・キリストの血という代価によって、その運命は完全にひっくり返えされたのです。イエス・キリストを救い主として信じる者には、永遠の滅びではなくて永遠の命なのです。

■次に旧約聖書を見てみましょう。ヘブル語には、「あがない」ということばがいくつかあるようです。そして、「あがない」の意味することは、おもに二つのことがあるようです。

①(罪に汚れたものに血をふりかけて)覆うこと。何を覆うのかというと、罪を覆って見えなくするのです。ヘブル語の「カーファル」と「キッペル」がその意味で使われています。※英語では「atonement、make atonement」

  旧約聖書には「カーファル」と「キッペル」が何度も使われています。たとえば、このようなことが幕屋でなされていました。大祭司は年に一度、至聖所と呼ばれている一番奥の部屋にいけにえの血をたずさえて入りました。そこで何をするのかと言うと、自分と民が犯した罪のためにその血を注ぎ、あがないをするのです。この「あがない」が「カーファル」と「キッペル」です。その部屋には、契約の箱というものが置いてありました。その箱には純金のふたがしてありました。そのふたは「贖いのふた」、あるいは、「恵みのみ座」と言われています。大祭司は箱の上と前にその血を振りかけます。彼らの罪の罰を動物が代わりに負い、その血を流すことによって罪がおおわれることを意味します。そして、それは、罪の赦しを表しています。これが、「カーファル」と「キッペル」が表す意味です。この意味で使われているギリシャ語は「ヒラスコマイ」と言うそうです。

②代価をもって、以前自分が所有していたものを買い戻すこと、あるいは、復讐をもって取り戻すこと。ヘブル語の「ガーアル」と「パーダー」がその意味で使われています。ほぼ、ギリシャ語の「アポリュトゥローシス」と同じ意味です。※英語では、「redemption(名詞)、redeem(動詞)」です。

  ルツ記を読んだことがあるでしょうか。ルツ記を読むと、ヘブル語のガーアルの意味がよく理解できます。ルツは、どういう人物なのでしょうか。ルツは、イスラエルの王ダビデの曾祖母です。ルツ記はダビデ王の曾祖母ルツに起こった出来事が書かれているのです。イエス・キリストの系図にはイスラエル人ではない、つまり、異邦人女性の名前が二人出て来ます。それは、ラハブとルツです。ラハブはカナン人、ルツはモアブ人です。モアブ人とは、アブラハムの甥のロトとその娘の間にできた息子が先祖です。そのようなことで、モアブ人はイスラエルの民から軽蔑されていました。そして、ラハブは、ルツの夫となるボアズの母です。ボアズの母ラハブは、以前カナン人の都市エリコに入って来たイスラエル人を助けたことがありました。それで、ラハブとラハブの家族だけは滅ぼされることなくイスラエルの民の中に一緒に住むようになりました。ある意味ラハブは英雄ですが、しかし、彼女はイスラエル人ではなく異邦人です。イスラエル人とカナン人の間に生まれたボアズは、実際の所、イスラエルの民の中で微妙な立場にあったのではないでしょうか。そんなボアズが、異邦人であるルツと出会いました。

  ルツとその姑ナオミは、モアブの地からベツレヘムに戻ってきました。と言うのも、以前、ナオミはベツレヘムに住んでいました。ところが、不作続きで生活が成り立たず、自分たちの土地を売って、その地を離れてモアブの地に行ったのです。しかし、モアブの地に行っても、うまくいきませんでした。ナオミの夫が亡くなり、二人の息子はモアブ人と結婚したものの、立て続けに亡くなり、ナオミと二人の嫁は人生のどん底に突き落とされてしまったのです。ひとりの嫁はナオミが言うようにモアブの地に帰っていきました。しかし、もう一人の嫁は、ナオミについて行くこと、そして、こんな不幸が許されてもなおも信じ続けるナオミの神を自分の神として従って行くことを堅く決心していたのです。それがルツでした。

  二人はベツレヘムに着いた後、他人の畑の落ち穂を拾って何とか生活しました。そんなことを続けていく中で、ルツはボアズと出会い、ボアズの好意によって多くの落ち穂を拾うことができました。ある日、ボアズがナオミの夫の親戚であることがわかりました。親戚には「買戻しの権利」があるということが律法の中に定められています。買戻しの権利とは、一度売ってしまった土地や財産や人を買い戻すことです。買い戻しの権利があるのは、親族か親類です。この買い戻しは、家系が絶えることのないようにするために適用されることがありました。ナオミの場合、夫も息子も死んで、この家系が消滅する危機にあったのです。このようなときに、親類の者によって買い戻しができるのです。買い戻しの権利のあるボアズが、人手に渡ってしまったエリメレクの土地や財産を買い戻すとき、エリメレクの家に嫁いだルツもその一部と見なされるので、ボアズは 、ルツを妻として迎え、二人の間にできた長男が成人した時に、エリメレクの家系と土地と財産を相続するのです。ルツ記4章を見ると、このような条件のもとで、一番目に権利のある親類は、この権利を放棄しました。その結果、ボアズがエリメレクの土地と財産を買い戻し、ルツを妻として迎えたのです。

  一番目に権利のある親戚は、なぜ、その権利を放棄したのでしょうか。初めは、ナオミの夫エリメレクの土地を買い戻すことに非常に積極的でした。しかし、モアブ人のルツをも土地と一緒に買わなければならないことを知ると、その権利を放棄してしまいました。モアブ人ということが自分に不利益をもたらすと考えたのでしょう。また、モアブ人のためにそこまでの犠牲を払いたくないと思ったのでしょう。しかし、2番目に権利のあるボアズは多額の代価を払ってまで、その土地を買い戻し、もしかしたらボアズに不利益を与えるかもしれないモアブ人のルツを妻として迎え入れました。1番目に権利のある親戚と、2番目に権利のあるボアズの間にある違いは何でしょうか。それは、ボアズがルツをとても愛していたので、大きな犠牲を払ってもそれは価値あることだったからです。

■ボアズは、イエス・キリストを表していると言えます。買い戻しは、ヘブル語で「ガーアル」と言い、そして、「ガーアル」は、贖いという意味もあることを先ほど話しました。イエス・キリストは、罪を犯してサタンの奴隷となってしまった人類を買い戻すために、ご自身の血をもってその代価を支払われたのです。十字架の贖いは、サタンから私たち人間を取り戻すためになされたことです。

「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」へブル9:12

  いのちとして贖いをするのは血です。しかし、動物の血は、ただ本物を表しているだけで実際には力はありません。真に贖うことのできる、真に買い戻すことのできる本物の血は、聖なるイエス・キリストの血しかないのです。イエス・キリストは、ご自身の血、聖なる神なるお方の血によって、罪ある私たち人間を贖ってくださいました。また、罪ある私たちを買い戻したゆえに、ご自身にとって不利になる罪の後始末を負う羽目になってしまったとも言えるのです。なぜ、イエス様はそのようなことまでして私たちを買い戻されたのでしょうか。それは、ボアズがモアブ人のルツをとても愛したように、イエス様は私たちのことをとても愛してくださっているからです。その愛は、変わることがありません。その愛をいつも信じて歩んでいきましょう。それでは、お祈りします。