信仰は冒険だ!

2018.1.28主日礼拝「信仰は冒険だ!」<創世記11:31~12:4>

                                                                                            佐々木俊一牧師 

■アメリカのデズニーランドやユニバーサルスタジオに行っていろいろなアトラクシャンを体験した時、何か凄い冒険をしたような気持になりました。本当の冒険とは言えませんが、冒険の疑似体験をしたのだと思います。歴史上、世界にはたくさんの冒険家・探検家と言われる人々がいます。その人々は、今までに踏み込んだことのない未知の領域に命の危険を承知で挑む人々です。人間の好奇心でしょうか、それとも、お金でしょうか。人によってそれぞれの動機があるかと思います。初めて世界一周したマゼランやインド航路を発見したバスコ・ダ・ガマやアメリカ大陸を発見したコロンブスについては、社会科で習いました。彼らも冒険家・探検家と言ってよいでしょう。また、神様の福音を宣べ伝える宣教師たちも、ある意味、冒険家だったと言えると思います。中国で宣教したハドソン・テーラーやインドで宣教したウィリアム・ケアリーなどは有名です。個人的には、アフリカで宣教したイギリス人宣教師デビッド・リビングストンにとても興味があります。彼はアフリカにある多くの習慣について紹介しています。その中には、聖書で言われている「契約の血」についての関連事項も語られています。とても興味深いです。

■今日は、アブラハムを通して、「信仰は冒険だ!」というタイトルでお話を進めて行きたいと思います。もしかしたら、私は別に冒険者にはなりたくないという方もいるかもしれません。

  アブラハムの前の名前は、アブラムでした。しかし、アブラムではなく、アブラハムになりました。どうして、アブラムがアブラハムになったのでしょうか。それは、アブラムが神様と契約関係になったからです。結婚を思い浮かべるとよいでしょう。私の妻は、私と結婚する前は、丹羽俊子でした。私と結婚したために、佐々木俊子になりました。結婚はある意味、男女間の契約行為です。アブラムという名前に「ハ」という音が付け足されたのは、「ハ」という音が神様を表しているからです。アブラムが神様のものとなり、神様がアブラムのものとなって、一つとなったということです。

  アブラムには、テラという父親がいました。テラは、創世記11:31によると、カナンの地を目ざしていたようです。けれども、途中でその計画を中止して、カナンではなくてカランに定住してしまいました。もしかすると、神様は、アブラムの父テラにカナンへ行くように語っていたのかもしれません。しかし、テラはカランに定住してしまったのです。そして、テラはカランで死にました。

■創世記12:1~3 その後、テラの息子の一人であるアブラムに、神様は語りかけました。その中から三つの事を取り上げたいと思います。一つ目に、「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、神様が示す地に行くと言うこと」。二つ目に、「そうすれば、あなたを大いなる国民とすると言うこと」。三つ目に、「地上のすべての民族はアブラムによって祝福されるということ」。これらのことにはどのような意味があるのでしょうか。少しお話ししたいと思います。

①あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい!

アブラムの生まれたのはウルで、育ったところはカランです。アブラムもアブラムの父も兄弟もみな牛や羊を飼う遊牧民でした。遊牧民はふつう一つの場所に定住することはありません。しかし、彼らはカランに定住して牛や羊を飼うようになりました。その土地は豊かで家畜のえさには苦労しなかったのでしょう。実際に、ウルもカランもチグリス・ユーフラテス川流域の肥沃な三日月地帯にあった町です。アブラムにとって、カランも父の家も住み心地の良い場所であったに違いありません。また、そこには、アブラムの親族の他に、友人・知人もいたことでしょうし、アブラムの築き上げた財産もそこにあったのではないでしょうか。神様の示す未知の場所に行くためには、アブラムにとって最良の場所を捨てなければならなかったのです。

②そうすれば、あなたを大いなる国民としよう!

アブラムにとって居心地の良いカランという町を捨てて、神様の示す地に行くならば、アブラムの子孫を増やし一つの大きな国としようと神様は言われました。そして、アブラムを祝福しようとも言われました。それは、アブラムの子孫の数が増え、財産も増えて経済が祝福され、強くて大きな国として発展していくことを期待させることばであったと思います。

③地上のすべての民族は、あなたによって祝福される!

神様はアブラムの子孫だけを祝福しようと思っていたのではありません。アブラムを通してすべての民族を、つまり、すべての国の人々を祝福しようと考えていたのです。それでは、どのようにして、アブラムの子孫だけではなくて、すべての国の人々を祝福しようと神様は考えたのでしょうか。それは、アブラムが神様を信頼して神様に従い、神様と契約を結んだことにその発端があります。アブラム自身、どの程度まで主のご計画を悟っていたのかはわかりません。しかし、アブラムが彼に語りかけてきた神を信じ、信頼し、従った結果、その信仰によってアブラムは義とされました。アブラムを通して示された信仰による義が、律法の出現によって、行ないによる義に変更されたわけではありません。実は、旧約の神の人々もみな、行ないではなく信仰によって義とされていたのです。アロンやミリアム、エリコにいたラハブという女性、、サムソンもダビデも、みな行ないではなく信仰によって義とされた人々です。アブラムが神様と契約を交わすことにより、その家系に現れた救い主イエス・キリストによって、信仰による義がイスラエルの民に限らず、すべての民族を救いの中に導き入れるという壮大な計画が成し遂げられたのです。このようにして、アブラムによってすべての民族は祝福されているのです。

■12:4 アブラムは、主と主のことばに信頼し、彼の生まれ故郷と父の家から出て神様が示されたカナンの地に行くことを選びました。そして、一歩を踏み出し、前へ向かって進んで行ったのです。この時アブラムは、75歳でした。アブラムの信仰の歩みは、75歳になってやっと始まったのです。「もう自分は年寄りだから」なんてことは言っていませんでした。

アブラムがカランという町を去るにあたって、捨てなければならないものが、たくさんあったと思います。財産である牛や羊は連れて行ったと思いますが、それにしても、安心で安定した生活を捨てて、アブラムは信仰の冒険の旅に出ました。

■12:6 アブラムは神様の言われたことを信じて、信頼して、やっとカナンの地に入ることができました。ところが、入ってみると、もうすでにそこには他の人々が住んでいました。どこに行っても、もうすでに占領されていました。でも、アブラムの偉いところは、「神様が行けと言うから、こうして来たのに、来てみたらそこはもう他の人たちがいるじゃないですか。神様どういうことですか」と言って、カランに引き返してしまわなかったことです。それどころか、アブラムはそこに主のための祭壇を築いたのです。つまり、ここは神様が約束してくださったところであるというしるしを付けたのです。そして、アブラムはさらに南へ下って行きました。そしたら、そこは激しいききんに見舞われていました。しかし、それでも、アブラムはカランに引き返しませんでした。霊的なことに適用するならば、カランに帰ると言うことは、その信仰を途中でやめてしまうということです。クリスチャンの場合に言い換えるならば、「クリスチャンになったら次から次へと大変なことばかり起きる。クリスチャンになったらいい事ばかりが期待していたのに。神様、約束と違うじゃないですか。もうこんなのやめた!」と言うのと同じです。アブラムはそんな状況を押してさらに南へ下ってエジプトに入りました。その後を読んでみてください。もっと大変なことがアブラムに待っていたのです。それについては、皆さんそれぞれ読んで確認してください。しかし、そのようなところを通り抜けると、神様のことばの通りに、アブラムへの祝福が待っていました。

■マルコ16:20 イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」

  全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい、とイエス様は言われました。全世界に出て行って福音を宣べ伝えることは、アブラハムが神様の示されたカナンの地に出て行ったように、信仰の冒険と言えると思います。自分にとって未知の領域に入って行くわけですから、それは、冒険と言ってよいのではないでしょうか。

  私も何度かそのようなプチ冒険をしたことがあります。1999年、ちょうどコンピューターの2000年問題(2000年になるとコンピューターが誤作動を起こして流通やインフラなどが混乱すると言われた問題)と言うのが社会で話題になっていた時のことです。医薬品や赤ちゃんの粉ミルクなど、そして、募金をもってユーゴスラビアのベオグラードに行く宣教チームに加わりました。NATO軍によるユーゴスラビア空爆が終わった後の6月初めのことでした。ロンドン経由でハンガリーのブダペストに行って、そこから、車でセゲドというユーゴスラビアとの国境の町に行きました。しかし、結局、ユーゴに入ることはできませんでした。ユーゴではセルビア正教がおもで、プロテスタントの教会は異端扱いをされていました。ベオグラードの教会で集会なども予定していたのですが、できませんでした。しかし、その教会の牧師に、医薬品や粉ミルク、募金は手渡すことができました。と言うことで予定が狂ってしまいました。ブダペストで、どう過ごすかと言う話になり、市内観光の他に、温泉かテーマパークに行こうということになりました。私は温泉に行きたかったのですが、テーマパークに行くことになりました。そこで、時代遅れのいろいろな乗り物に乗りました。ジェットコースターにも乗ったのですが、スピードはそんなに速くはなく、けれども、木で組み立てられているので、縦揺れと横揺れが激しくて、それが大変でした。でも、その後、もっと大変な目に会ったのです。次の朝、右腹部に違和感がありました。その違和感はどんどん増して、ブダペストからロンドンに移動する日には痛みに変わっていました。そして、ロンドンで集会を一つ持って、次の日の朝、ヒースロー空港の待合室で大変な痛みが起こりました。私は床の上をのたうち回りました。そして、救急車で病院に運ばれました。検査の結果、異状は発見されず、痛み止めをもらって次翌日飛行機で帰ることになりました。次の朝、ホテルから出ると、黒のロールスロイスが待っていました。後で聞いたのですが、ロールスロイスは空港側が手配してくれたのだそうです。それから、私は12時間の間ずっと祈り続けて、耐えられないような痛みに襲われることなく、やっと成田に到着しました。そして、成田から千歳に戻ることができました。病名は尿路結石で、衝撃波破砕術で結石は出ました。本当に長い旅でした。結石はすでに私の腎臓にあったのだと思います。遊園地のジェットコースターの振動で結石が動いたのだと私は考えています。一時は、自分は日本に戻れるだろうかと思いましたが、でも、神様はすべての事を働かせて益にしてくださるお方だと思いました。かかった医療費はすべて保険でカバーすることができましたし、この経験を通して、神様の配慮と守りを強く実感することができました。

■私たちがイエス・キリストを信じて、あるいは、神様の働きのためにと思って、信仰の旅に出るとそこには、想定外の出来事が許されることがあります。イエス様を信じたのに、何でこんなことが起こるのだろうとか、神様のためと思ってやったことなのに、何でこんな目に会わなければならないのだろうかとか、そんな経験はないでしょうか。私は何度もあります。私たちは今、信仰の冒険の最中です。いろいろなことが起こります。でも、許されるそれらのことに翻弄されないようにしましょう。そのような時、ある人は、神様は私のことを考えてくれているのだろうか、もしかして、神様なんていないじゃないだろうか、もう、教会に行くのも神様を信じるのもやめようと思って、信仰の冒険の旅を途中であきらめてしまいます。でも、ある人は、たとえ心の中で神様は私のことを考えてくれているのだろうかと思ったとしても、それでも、神様から離れないで信仰の冒険の旅を続けていきます。そのような人は、旅の途中で、神様はすべてのことを働かせて益としてくださるお方であることを知ることでしょう。私たちはそのような者でありたいと思います。

  そして、信仰の冒険者は、アブラハムがそうであったように、自分だけが神様の祝福を受けて満足するのではなくて、他の人々にその祝福を分け与える人でありたいと思います。このことは他の人に適用するのではなくて、ぜひ自分自身に適用していただきたいと思います。他の人々が自分に祝福を分け与えるべきだと言うのではなくて、自分が他の人々に祝福を与えることができるような人にもっとなれるように神様に祈りましょう。そうしたら、必ずそのようになると信じます。何よりも、福音を分け与えることほど大きな祝福はありません。私たちは、出て行ってその福音を宣べ伝えたいと思います。それではお祈りします。