日々心を合わせて祈るとどうなる?

2024年1月28日主日礼拝「日々心合わせて祈るとどうなる?」使徒1:12~26佐々木俊一牧師

■12節 イエス様は十字架に架けられて死んで三日目によみがえられました。復活のイエス様は弟子たちの前に少なくとも10回、たぶんそれ以上現れました。弟子たちにとって、イエス様が生きておられることは、もはや否定することのできない事実であったのです。これは、弟子たちにとってビッグニュースであり、グッドニュースであり、大きな希望と力になったはずです。しかし、そのイエス様が、弟子たちの目の前でオリーブ山から天に上って行かれました。それは、お別れを意味していました。本当に悲しい出来事です。しかし、それは、永遠の別れではありません。また、この地上に戻って来ます、というメッセージを残してイエス様は去って行かれました。ですから、パウロやペテロの手紙を読む限り、彼らは自分たちが生きている間にイエス様はこの地上に戻って来られるのだ、と信じていたように思われます。しかし、神様の計画では、その日はもっと先の未来にありました。

 弟子たちは、イエス様が見えなくなった後もずっと空を見上げて立っていたにちがいありません。悲しい気持ち、寂しい気持ち、心細い気持ち、がっかりした気持ち、イエス様がいなくなってしまったことを受け入れられない心境であったかもしれません。しかし、み使いの声で我に返った弟子たちは、オリーブ山からエルサレムの町へと帰って行きました。この日はユダヤ教の安息日、土曜日でしたが、オリーブ山からエルサレムの町までは安息日に移動してよい範囲の距離であったようです。約2キロメートルです。

 ここで、オリーブ山やその麓にあるゲッセマネの園などの画像を見てみましょう。

■13節~14節 彼らはエルサレムの町に戻ると、泊まっていた屋上の間に上がりました。このようなところであったようです。英語で言うとは、upper roomです。この場所に120名ほどの人々が集まっていました。イスカリオテ・ユダ以外の11人の使徒たち、いつもイエス様のそばにいて一緒に行動していた婦人たち、イエス様の母マリヤとイエス様の兄弟たち(ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ)、そして、その他の弟子たちです。総勢約120名でした。

 彼らは集まって何をしていたのでしょうか。心を合わせて、祈りに専念していました。イエス様は復活してから40日間、この地上で弟子たちの前に現れてはご自身が生きておられることや神の御国のことをさらに示されました。イエス様が天に戻られてから聖霊が下られたペンテコステまでの10日間、彼らは共に集まり、心合わせて祈りに専念していたのです。

 使徒たちが泊まっていた屋上の間に、どうして120人もの人々が集まったのでしょうか。それは、イエス様が言われた、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。・・・もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」ということばを信じたからです。そのことばを聞いて信じた人々は、そのことばに従って、エルサレムを離れないで、その約束を待ち続けたのです。イエス様のことばを信じて待ち続ける者には、必ず神様の約束が成し遂げられるのです。

■ここで、祈りについて、ともに考えてみたいと思います。福音書の中で、私たちはイエス様の祈る姿を幾度も見ることが出来ます。その中でもよく知られているのは、ゲッセマネの園でのイエス様の祈りです。イエス様が十字架に架かる直前、使徒たちを引き連れてゲッセマネの園に行きました。そして、ひれ伏して、血のような汗を流しながら、祈りました。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

 この杯とは、十字架に架かって死ぬことです。ローマ帝国時代の十字架刑は最も苦しい刑罰であったと言われています。イエス様は神なるお方です。しかし、肉体は完全な人間ですから、私たちと同じように肉体の苦しみを感じるのです。この時イエス様は、できることならそのような苦しみから逃れたいと言うのが、正直な気持であったでしょう。けれども、人間の罪を負って十字架に死ぬことが神のみこころであることを知っていたイエス様は、自分の願うようにではなく、神様のみこころのようになさってください、と祈りの最後に祈っているのです。イエス様はこのような祈りを、その後2回続けています。これらの祈りの途中、イエス様は眠りこけていた使徒たちに言われたことがありました。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」と。イエス様ご自身が肉体の弱さを実感しておられたのだと思います。イエス様は神様だから、そんな誘惑は平気だ、と思われる方もおられるでしょう。でも、それは違います。肉体は私たちと同じです。この時のイエス様にとって、十字架に架かるという選択を拒否することだってあり得たのです。なぜならば、心は燃えていても、肉体は弱いからです。だからこそ、ここでイエス様は祈ったのです。目をさますために、イエス様は、祈ったのです。祈らなければ、眠ってしまうからです。祈りをとおして、霊的な目をさまし続けたのです。霊的な目を有効にするためには、祈ることが必要なのです。祈ることによって、私たちは神様のみこころをとらえ、神様のみこころに従う力をいただくのです。祈らない人は、神様のみこころがわかりません。祈らない人は神様のみこころに従う力がありません。私たちには祈りをとおして、霊的に目をさますことが必要なのです。祈りをとおして、私たちは神様のみこころを知り、神様のみこころを行なう力をいただくのです。

 一人で祈ることも大切です。そして、14節に見るように、他の人と一緒に、あるいは、大勢で一緒に心合わせて祈ることも大切です。両方ともに、祈りをとおして私たちは強められるのです。祈りを人に任せないでください。あなたも祈るのです。祈りは私たちを強くし、誘惑に打ち勝って神様のみこころを行なえるように導くのです。私たちは、個人としても、教会としても、もっと祈る機会を増やさなければなりません。そして、個人としても、教会としても、神様のみこころに従う者として強められて行きましょう。

■15節~20節 120名ほどのキリストにある兄弟姉妹たちが集まっているところで、ペテロが立って話し始めました。ペテロはここでまず二つの事を語っています。一つは、イエスを捕らえた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言している聖書のことばがある、と言うことです。そして、二つ目は、その聖書のことばは成就しなければならなかった、と言うことです。ここで言う聖書とは、もちろん、旧約聖書のことです。新約聖書は、この時まだありませんでした。

 ここでまず驚くことは、以前漁師だったあのペテロがこのようなことを発言しているということです。4年前は、まだ漁師をしていました。そんなペテロがこのようなことを言っているのは驚きです。確かに、ペテロは、イエス様から直接聖書を学び、訓練を受けました。それにしても、イエス様が十字架に架かる時に、絶対にイエス様を裏切らないと断言していたペテロなのに、イエスなんて知らないと言ってイエスを裏切った人なのです。本当に驚きです。

 そして、次に驚くことは、ダビデによって書かれた詩篇のことを、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことば、と言っていることです。詩篇には、イエス様の十字架の出来事に関する預言のことばがあちらこちらにあります。その中に、ペテロは、イエス・キリストを裏切ったイスカリオテ・ユダに関わることまで詩篇の中に見出しているのです。旧約聖書は、単に、イスラエルの歴史書ではありません。また、単にユダヤ人の律法の書でもありません。旧約聖書の初めから終わりまでが、イエス・キリストとその救いの事が書かれています。そして、その方がどのように誕生し、どのような働きをし、どのように死ぬのかについて、また、そのお方の周囲の事や人々のことまでもが予告的に書かれているのですから、それは驚きです。さらに、その内容は、天地創造から天地の終わり、そして、新しい天地創造まで及んでいるのです。

 ペテロは、当時のパリサイ人や律法学者よりも聖書を正しく深く理解することのできる人に成長していたのを見ることが出来ます。それはすべて、イエス様が旧約聖書を理解するやり方をペテロが学んだのでできたことです。さらに、ペンテコステの日に聖霊を受けると、その賜物はもっと顕著に現れました。なぜならば、ペテロの内に住まう聖霊がすべてのことを教えてくれたからです。

 先ほど、祈りの事についてお話ししました。ペテロが旧約聖書に隠された真理に目が開かれたのは、聖霊だけによるのではありません。祈りです。祈りがキーです。ペテロが本気になって祈り始めたのは、イエス様が天に戻ってしまった後の事です。イエス様がゲッセマネで祈っていたときでさえ、ペテロも他の使徒たちもみんな眠っていたのです。あの大変な時にです。ペテロの霊的な目が覚めたのは、本気になって祈り始めたときからです。

■21節~26節 ペテロは、祈りを通して聖書のことばから語りかけを受けました。このプロセスの中で、その時11人になっていた使徒たちは、もう一人の使徒をイスカリオテ・ユダの代わりに選ぶことになりました。私たちの場合は、話し合いのあと、推薦や立候補を募り、その中から投票で選ぶと思います。しかし、ここでは、なんと、くじによって決めました。くじはだめでしょうか。あまりにも軽すぎるでしょうか。でも、箴言16:33を見てください。「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。」と書いてあります。ネヘミヤ記やそのほかの書にも、くじで決めたことが記されています。だから、これから私たちも何か決めるときは多数決ではなくて、くじで決めましょうということではありません。私たちの教会規約では、すべての決議事項は多数決で決定するように明記されています。ついでに、おみくじはダメですよ。おみくじは、おみくじ占いですから。それは、主イエス・キリストのみ名によって祈られたものではなくて、悪霊の力によって祈られたものです。それゆえに駄目です。神様が占いはダメだとはっきり禁じています。それは、旧約時代も新約時代も変わっていません。そして、くじはマッテヤに当たったので、マッテヤが12人目の使徒に選ばれました。

■今日のメッセージタイトルは、日々心を合わせて祈るとどうなる?です。日々心を合わせて、と言うと、本気の気持ちが伝わって来ますから、本気で祈るとどうなる?と言ってもよいかと思います。多くの人々にとって祈りとは、何か困ったことが起きた時にするものではないでしょうか。何か問題が起こらなければ、私たちは神様に本気で祈りません。ですから、問題が起こらなければ、私たちはずっと祈ることがないのです。私たちが毎日祈るためには、毎日問題が起こる必要があります。しかし、私たちはそのようなことはけっして望みません。何か問題が起こった時にする祈りも、祈りです。神様はそのような祈りも受けとめて聞いてくださいます。でも、私たちクリスチャンは、いつまでもそのような祈りだけでよいとは思いません。そのような祈りだけが祈りではないことを、今日の話で気づいてくださればと思います。祈ることについて、一つ目に覚えてほしい事、それは、私たちは祈ることを通して強められるということです。強められることによって、私たちは神様のみこころを選び、神様のみこころを行なう力を受けるのです。私たちがいつまでたっても神様のみこころに従えないのは、祈らないからです。ペテロのように、本気で祈りましょう。一人であっても、大勢であっても、祈りましょう。祈る機会をお互いにもっと作るように心がけましょう。考えるよりも、話し合うよりも、まずは、心合わせて一緒に祈ることをもっとやってみたいと思います。

 祈ることについて二つ目に覚えてほしい事、それは、祈ることによって開かれることがあるということです。ペテロが本気になって祈り始めたことが、彼を変える一つの大きな要因になりました。

そして、ペテロは聖書のことばが以前と違ってわかるようになってきました。ペテロはイエス様と行動するようになってから、イエス様の視点で聖書を理解することを身に着けたのだと思います。

聖書のことば、聖書の出来事、旧約聖書や新約聖書に隠された神様の計画やみこころが、聖霊の助けと導きによって徐々に明らかにされてくるのです。それらと現実の世界で進む出来事との関連性が、祈りの中で聖霊に導かれてリンクしたり、ひらめいたり、気づかされたりするのです。 

 祈りは、ただ、自分の願いをかなえるだけのものであるなら、それは、クリスチャンライフな中で十分に祝福を味わっているとは言えません。祈りをとおして強められ、神様のみこころを知り、神様のみこころに従って歩むことが、私たちの喜びとなっていくのです。また、そのような仲間と共に歩む中で、主にある一致と喜びを感じることは本当に素晴らしいことです。

 また、祈りを通して、私たちの内におられる聖霊によって、聖書のことばが開かれてきます。ペテロがそうであったように、聖書のことばの意味が開かれるならば、聖書を調べることがおもしろくなってきます。そして、それは、私たちの力となり、互いにそれらを分かち合い、お互いに霊の糧をもって祝福し合うことができるようになるのです。祈りは、そのようなことの始まりを作ってくれます。日々心を合わせて祈るとどうなる、本気で祈るとどうなる?一人で祈る祈り、みんなと一緒に祈る祈り、そのような機会をもっと増やしていきたいと思います。それではお祈りします。