イエスが賞賛した人々:貧しいやもめ

2024年1月21日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

マルコによる福音書12章41〜44節

イエスが賞賛した人々:貧しいやもめ(未亡人)

 

   オンライン、そしてここオープンドアチャペルにおられる皆さん、こんにちは。クリスマスの時期に一連のメッセージシリーズ「イエスが賞賛した人々」を中断してから1ヶ月経ちました。今日はまた皆さんとご一緒にそこに戻りたいと思います。皆さんも覚えておられるように、これは私たちにとって人格形成のための大きな探求の一部です。私たちが何歳であっても、私たちの誰もが人生におけるこの分野で目標に到達していません。そうでしょう。そして、完成された人格を持つ人として生きることは、人間であるということの意味の中心にあります。ですから、これは私たちの最大限の注意を払い最善の努力をする価値があるものです。もっとも、私たちは神様の助けを借りてのみこの人格の成熟を達成することができるのです。神様はいつものように、私たちの先生であり、今日の旅のガイドです。

 

            そして、イエスはまたしても、ここで語られるべき人とはほど遠い人物を選ばれます。イエスは十字架上で殺される数日前から、エルサレムの神殿で教えておられ、律法の教師に対して意見を述べられます。彼らは律法のいわゆる専門家であり、この社会で尊敬を受ける地位を占めています。だから、皆さんはイエスが彼らを称賛し、その心を捉えようとされるだろうー彼らの神の教えをどれほど深く理解し、愛しているかを彼らに示されることによってーと思われるかもしれません。しかし、その代わりに、イエスは真の信仰のモデルとして、彼らではなく、彼らとは対照的な未知の女性とその女性の小さな捧げ物を取り上げます。他の例と同様にここでもイエスは、少なくても学ぶことに本当に飢えている人々の注意を引く方法をご存知です。

 

   この話は(41節)「人々が神殿の捧げ物を置く場所」が舞台です。これは女性の中庭と呼ばれる神殿の敷地の一部分で、女性、男性、異邦人等基本的に誰でも礼拝ができる所です。壁に沿って、真鍮製の13個のトランペット型の容器があります。そのうちのいくつかに人々は捧げ物の品物を入れ、他の人はお金を入れます。オープンドアでは、4つの異なるタイプの献金(捧げ物)を受け取るため4つの箱がありますね。神殿にはもっとありますが、同様に、それらはさまざまな目的のためであって、明確に指定されているものもあれば、「自由に」と言うものもあります。41節と42節では、多くの金持ちが大金を入れたことが分かります。彼らはメタルコインを金属容器に入れたり、落としたり、投げたりしているので、多い献金であれば、入れると大きな音がするのです。

 

           一方、貧しいやもめの献金の音は非常に小さいので、ほとんどの人はそれに気付かないかもしれません。彼女が入れた「非常に小さな2枚の銅貨」(42条)は、聖書では「2枚

 

のレプタ銅貨」です。ローマのコイン貨幣に精通している読者のために、マルコは、それは最も小さなローマの銅貨である1クォドランスと同じ額であると説明しています。言い換えれば、彼女の献金は兵士の1日の給料の約1/16です。あまり多くはありません。

  

              聖書の中に記されている神の民の誰もが一人一人どれだけ献金するかを簡単に知ることることができるようなやり方で捧げていることは、私にとって注目に値します。オープンドアでは、誰がどれだけ献金しているのか公表しないことが重要だと考えています。私たちは、献金が神様と捧げる者との間の私的な事柄以上のものになった場合、動機が問題になるのは簡単なことだと考えています。しかし、すべての教会がそのように運営されているわけではありません。私は以前言及したと思いますが、数年前、当時私が書いていた論文の情報を集めるために、米国のカリフォルニア州パサデナの近くの教会に行く機会がありました。北星学園の創設者であるサラ・スミスは、引退して母国に戻った後、その教会のメンバーでした。(現在のアルタデナ第一長老派教会です。) 当時、彼らは前の週の献金者の氏名とその金額を毎週、週報に書く習慣がありました。だから、毎週5ドル献金していたサラ・スミスの名前は何年にも渡って書かれておりました。マルコが今日の聖書箇所で説明しているシステムとある意味似ていますね。

 

           ほとんどの人はこの無名の女性の献金に気づかないかもしれませんが、イエスは気づいておられます。イエスはこのことが教えの良い機会であると見られます。そして起こったことの重要性を説明するために、弟子たちを呼び出されるのが常です(43節)。

 

           主要な点は何でしょう? この物語は、神の御業を支えるための献金についての相応しい動機について教えることを主眼としているのでしょうか?  確かにそれもあるのですが、イエスが人々が容器に献金を入れるのを見ておられるように、今日においても、やはり神様は人々がご自分の御業へ貢献する方法を見ておられます。神様は私たちがどれだけ捧げるかに気づかれており、さらにそれにもまして私たちの捧げる心を見ておられます。

 

           私は最近、デビッド・プラットという人物のこの物語について良い聖書のメッセージを聞きました。(ところで、私は最近盗用についてのニュースを聞いているので、他の誰かから得た情報を使用するときには皆さんに知らせるように注意したいと思っています。しかし、前に言ったように、私は皆さんに私ができ得る最高の内容を提供しようとしています。自分自身の考えだからというのが最優先ではありません。ですから私からのメッセージを聞いたとき、それが本当に良いなら、他の誰かからそれを受け取ったと考えても良いでしょう。それがそれほど良くない場合は、「ジムは自分でその部分を考え出したに違いない。」と思っていただいても結構です。いずれにせよ、私たちは皆、神様のご意思だけが私たち聞き手の真の必要を満たすことを知りつつ、私たち自身の言葉ではなく、神様の言葉を提供しようとしているのですから。)

 

           これが今日の聖書の箇所に関するデビッド・プラットのメッセージの概要です。それは聖書の言い方にすると、世俗的に捧げることと神様を敬って捧げることとの対照です。

 

(1) 世俗的な捧げ物は誇りによって動機づけられますが、神様を敬う捧げ物は謙虚さによって動機づけられます。

(2) 世俗的な捧げ物は見られることを望みますが、神様を敬う捧げ物は見られないことを望みます。

(3) 世俗的な捧げ物は、他人に対する力を望んでいますが、神様を敬う捧げ物は、神様への信頼を示しています。

(4) 世俗的な捧げ物は快適で便利ですが、神様を敬う捧げ物は犠牲的で高価です。

(5) 世俗的な捧げ物はしばらくの間実を結びますが、神様を敬う捧げ物は永遠に実を結びます。

 

           これは神様の御業を支えるために献金するというイエスの物語のメッセージをかなりよく表していると私は考えます。それは、人生の重要な部分、つまり私たち自身の財政をどのように用いるかの選択する際の文化に相反する方法です。聖書の第1サムエル記16章7節で「主は人が見るようには見ない。人は外見を見るが、主は心を見られる。」と言っている意味を明確の例を私たちに与えてくれるももです。

 

           それでも私は、今日のメッセージで献金の問題を超えて試みるようにと導かれていると感じています。この物語は、金銭的な貢献をすることよりもはるかに多くのことを教えてくれます。私は貧しいやもめが持つ霊的な心を探求したいと思います。それによって彼女は自分の持っているすべてを捧げることが取るべき最善の行動であると思った、そのように考えられるからです。彼女は金銭的な面では貧しいのですが、彼女の人生全体は貧しさとは程遠いのです。イエスは、この霊的に豊かなやもめを、私たちが学ぶべきモデルとして用いておられます。ですから、今日の残っている時間で、神様が彼女を通して私たちに何を言われているのか探求し続けましょう。

 

           この物語を読んで頭に浮かぶ疑問の1つは、イエスが彼女が貧しいやもめであるとどのようにして知っておられたのかということです。それは奇跡的な知識かもしれませんが、私は別の可能性を思います。たぶん、彼女はその場所で、特にそこで定期的に礼拝する人々にはよく知られている人物だったのでしょう。私たちはこのやもめについてあまり知りませんが、彼女をもっと詳しく知ることはとても興味深いと思います。ルカ2章には、イエスのご誕生の直後に神殿でマリアとヨセフと赤ん坊のイエスに会うアンナという名前の別のやもめについての物語があります。ルカ2章37節は「彼女は宮を離れず、夜も昼も断食と祈りで神に仕えていた。」と伝えています。ですので、マルコ12章とルカ21章のやもめのように、彼女はおそらく神殿の献金箱に入れるお金がほとんどなかったでしょう。彼女は夫の収入を無くしていましたし、当時の文化では女性に与えられていた仕事の数は非常に少ないので、自分で安定した収入を得ることは非常に困難なのです。彼女はよく神殿にいるので、多くの人が間違いなく彼女を知っています。当時のエルサレムはそれほど大きな都市ではありません。

 

        また、彼女はこの信仰によるコミュニティの生活の中で重要な役割を担っていますが、それは彼女がお金を持っていることによっていません。彼女は礼拝者です。これには、霊の訓練として特に祈りと断食によって支えることを含んでいます。彼女は重要な点でこのコミュニティの支柱であり、彼女の雇用や財政状態とは何の関係もありません。彼女はお金ができることをはるかに超えた何かに貢献しています。神はこれを見過ごすされず、評価も忘れません。霊的な問題に注意を払っている人々もこれに気づくでしょう。神は明らかにご自分の民にそうするように教え、私たちにもこれを期待されています。

 

        マルコの捧げ物の物語(12章42節)の「貧しいやもめ」は、もちろんイスラエルで唯一の存在ではありません。アンナはもういなかったかもしれませんが、他にも大勢いるでしょう。イエスの時代のイスラエルの人々は、自国で貧困の中で暮らす人々をどのように世話をしているのでしょう? 社会が貧しい人々の世話をする方法は、一般的に国全体の健全性について多くを示しています。なぜなら、貧しい人々への十分な支援があれば、おそらく他の誰もがほとんどの場合、基本的な必要も満たされているからです。

 

        新約聖書の時代にはイスラエルの貧しい人々を支援するためいくつかの文化全体での制度かありますが、責任は基本的に家族にあります。旧約聖書の律法は、さまざまな方法で困っている人々に与えるように人々に命じています。そして、国全体が宗教法を国内法として受け止めていますが、その制度は当時ローマ法の下に置かれていました。例えば、旧約聖書の申命記15章1〜18節では、イスラエルの貧しい人々にどのような支援を提供しなければならないかを教えています。基本的に、国として福祉制度を持つのではなく、周りの人々を助けるために自由に与えるようにというものです。人々はそのような貢献を強要されません。贈与品は神殿を通して与えられます。ですから、この物語のやもめのような人がサポートを受ける場合には、それを受け取る可能性が高い場所が神殿です。

 

        申命記15章1〜18節でモーセは、エジプトから解放された後で新しい故郷に入る準備をしているイスラエルの人々に教えています。4節で彼は、「あなたの中に貧しい人々がいるべきではありません。主はあなたに与えている土地であなたを大いに祝福される。」その後の7〜8節では、

あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。(新改約聖書)

 

           レビ記25章17〜22節では、神からのさらに具体的な教えが見られます。神は彼らに定期的に彼らの土地を休ませ、自分自身も休む習慣をつけるように言われます。彼らが作物の栽培から丸々1年離れた場合、どのように生きることができるのでしょう? そしてそれは、生活のために必要な全てのものを献金箱に投げ入れた女性と同じようにクレイジーに聞こえませんか? いいえ、聖書の神によればそうではないのです。神はその民に大胆な約束をなされます(20〜22節)。

 

           あなた方が「もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは7年目に何を食べれば良いのか」と言うのなら、わたしは、6年目に、あなた方のために、わたしの祝福を命じ、3年間のための収穫を生じさせる。あなた方が8年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。9年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。(新改約聖書)

 

        それは神様が作られた非常に大胆な主張です。私たちが神様を完全に信頼するとき、神様はその民のために備えてくださいます。しかし、神様にはそうなさる1つの根本的な理由があります。23節では、「地は私のものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異邦人である。」とあります。

 

           皆さんは私が「神の御業の働きのため」というような言葉を使っていることに気づいておられるかもしれません。しかし、より基本的なレベルにおいては、それらの言葉は非常に愚かなのです。私たちは本当に神様に何かを与えることができるでしょうか? いいえ、もちろんそんなことはないのです。すべては既に神様のものです。皆さんが親なら、皆さんの子供が小さい頃、誕生日やクリスマスプレゼントなど、子供たちが皆さんのために買うものを選ぶことができるように彼らにお金を与えたことがあるでしょうか? 千江子と私はそうしました。私は、私たちがそうできたことをうれしく思います。それは私たちの子供たちが成長の過程でもう一歩を踏み出すのを助けたと思います。しかし、別のレベルでは、それはまったく意味がありません。彼らはもともと最初に受け取ったものから私たちに与えることしかできなかったからです。

 

           私たちが神様に捧げることについて話すとき、それがお金、時間、創造性、努力、または私たちが持っているものは何であれ、神様の助けなしにこれらを所有することは不可能です。皆さんが仕事で一生懸命働き、良い利益を上げ、たくさんのお金を持っているなら、それは素晴らしいことです。しかし、皆さんが学び、計画し、買ったり売ったりする能力を自らのものとできているのは、それを可能とするツール(道具)と機会を神様が与えてくださったからだということを忘れないでください。それらはすべて、主が皆さんに許された皆さんの身体的な健康によるものです。(多くの人がその素晴らしい贈り物に恵まれていません。) 私たちが本当にこの真実を理解するとき、それは私たちが感謝の念を持ち、謙虚な心のうちに生活し、私たちへの神様の善のために神様への賛美の心を持つ強い理由となるのです。神様に捧げること、そして私たちの助けを必要とする他の人に与えることは、私たちの感謝と喜びを表現する自然な方法です。数多くの神様の民がこれを行うと、私たちの周りの社会ははるかに健康で安定するでしょう。神様、私たちが受けた本当に多くの祝福に感謝し、私たちの助けを必要とする周りの人々とそれらを分かち合いたいと強く望むことができますように助けてください。

 

              すべてを捧げた貧しいやもめは、自分が惜しみなく与える神様の配慮でどれほど恵まれているか心の中で理解していたに違いありません。しかし、他にも何かあるのでしょうか?彼女は神殿の誰かが自分を助けてくれるかもしれないという希望や期待を持っていたのではないかと私は思います。彼女は何らかの形で、使徒の働き3章の物語に登場する、歩くことができず、神殿の門に運ばれる男のようなのかもしれません。その男は神殿に入る人々に何かを与えてくれるよう頼みます。彼はペテロとヨハネを見て、何かをもらえることを期待し、彼らを注視します。イエスの弟子たちはお金を持っていませんが、彼らは彼により良いものを与えます。すなわち立ち上がって歩く能力です。最後のコインを捧げたこの女もある程度は神様に自分を助けてくださるよう願うため、その日神殿に行ったかもしれません。 たぶん彼女は、神様がご自分の教えに従う誰かを導いて、その日そこで見る自分のような貧しい人々に施すことで助けてくださることを望んでいたでしょう。彼女にとっては自分の属する地域社会で他の人の施しに頼ることが、同時に、人を施すように導かれる神様に信頼しているということなのでしょう。

 

           彼女が最後の硬貨を入れたのは、この日だけだと思われますか? たぶん彼女は心配のあまり震える手でそうしたのではなく、静かな信頼と期待の心で行ったでしょう。なぜなら、神様はすでにこのように何度も彼女に与えてこられたからです。時に神様は、彼女が助けを必要としていることに気づき、喜んで施すことのできる友人を送られたでしょう。祈りと断食をしながら神様の時を待つことが導きであった時には、人々から目に見える援助がないことを受け入れたでしょう。この経験を通して、彼女は神様にますます近づき、身体的には空腹ですが、より豊かにより充実し、人としては全体的に満ち足りたと思います。彼女が直接人々に助けを求めた時もあったでしょう。そして主は寛大さや地域社会の構築において人々が成長するように導くため彼女を用いられました。

 

              いずれにせよ(44節)、彼女は持っているものをすべて捧げます。彼女は生活のための全てを捧げます。彼女は、献金を集める宗教指導者が献金のすべてを公正かつ賢明に用いるという保証なしに行います。イエス様は、彼らの何人かが、霊的な指導力を持つ立場にあるにもかかわらず、人々が彼らに置く信頼に忠実に応えるという人格を持っていないことを知っておられます。イエス様はちょうど、このやもめに優越感を持つ彼らを批判されました(12章40節)。たぶん彼女も、彼女の献金が悪用される可能性があることを知っています。しかし彼女は、自分が知る助けを必要としている人に直接与えることに拘りません。彼女は、自分が差し出せる捧げ物を差し控えるのではなく、喜んで神様の手にそれを委ねます。ここに私たちが尊敬する人物がいます。主が私たちを彼女のようにしてくださいますように。

 

           そして、この貧しいやもめは最終的に助けを受けるのでしょうか?  この話では私たちに教えてくれません。私たちができるのは、彼女の必要を気にかけ、彼女が私たちに示していることを信仰のモデルとされ、ご自身の時と方法で彼女のすべての必要を満たす方法を見つけられる神様を信じることだけです。

 

           おそらく神様はある意味、私たちが自分の生活の中でこの物語を終わらせることを期待されているでしょう。それは、神様が私たち全員がいつも銀行口座のお金を100%配ることを望んでおられるという意味ではありません。しかし、私たちの周りには例外なく、この貧しいやもめのように真の必要性を持つ人々がいます。それらの人の幾人かは石川県に住んでいる人々でしょう。他の人はさらに近く、または非常に遠くに住んでいるかもしれません。しかし、彼らが誰であろうと、どこにいようとも、どのような状態であっても私たちの神様にとっては重要なのです。私たちが持っているすべてを神様の管理下に置くとき、神様は私たちの支援を必要とする私たちの周りの人々を助けるために私たちを用いられます。そして、神様が私たちの資源を投資するように導かれる方法が何であれ、それは私たちが持つ必要がある人格を私たちが得て、神様が受けるに相応しい賞賛をもたらす結果となるでしょう。

 

           これが毎日ますます私たちのうちに起こるように祈りましょう。

 

           神様、あなたに従うために必要な理解と励ましを与えて下さるようにあなたが賞賛された信仰の生きた手本を感謝いたします。今日の物語の女性の精神に祝福がありますように。私たちは彼女の名前さえ知りませんが、彼女を賞賛することができますように。また、それよりもさらに私たちが彼女のようになって持っているすべてをあなたの管理下に置くことであなたを称えることができるように助けてください。私たちが持っているものはすべてあなたのものだと告白します。ですから、私たちがそれを献金箱に入れるか、あなたの導きの下で他の方法でそれを使用するかにかかわらず、私たち自身を100%あなたの手に委ねることができるよう助けてください。あなたが人々のために望む精神の自由を持つのを手伝ってください。私たちが自分の経験から物事を見ることができるように、そして、私たちが信仰によって一歩一歩あなたに従う時に、あなたが常にあなたを信じる者に与えて下さる深い確信を持って生きることができるようにして下さい。

 

              イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

 

参考

 

Gill, J. (1746-1763). John Gill's Exposition of the Bible. https://www.biblestudytools.com/                commentaries/gills-exposition-of-the-bible/mark-12-42.html

 

Henry, M. (1706). Matthew Henry Commentary on the Whole Bible (Complete).                                                                      https://www.biblestudytools.com/esv/mark/12.html

                                           

McKenna, D. L. (1982). The Communicator’s Commentary, Ogilvie, L. J., gen. ed. Mark. Waco,      Texas: Word Books.

 

Packer, J. I. and Tenney, M. C., ed. (1980). Illustrated Manners and Customs of the Bible.                  Nashville: Thomas Nelson Publishers.

 

Platt, D. (2023, June 5). Worldly Giving and Godly Giving. Following Jesus. McLean Bible              Church. https://www.youtube.com/watch?v=u4fr4cAMG7E