次のステップへ踏み出すために

2024年1月14日主日礼拝「次のステップへ踏み出すために」使徒1:1~11佐々木俊一牧師

■今日から、使徒の働きを一緒に学んでいきたいと思います。使徒の働きは、ルカの福音書の続きです。著者はルカです。彼は医者でした。コロサイ人への手紙4:14で、パウロはルカのことを、「愛する医者のルカ」と呼んでいます。そして、ルカは、聖書の著者として唯一ユダヤ人ではなくて、異邦人であると言われています。一部の人々は、ルカは海外在住のユダヤ人だとも言っています。しかし、ギリシャ人、あるいは、シリヤ人の可能性の方が高いようです。ヘブル語もギリシャ語も、そして、ユダヤ人の教えや慣習についてもかなりの知識があったことは確かなようです。

 ルカの福音書も、そして、使徒の働きも、宛名はテオフィロ(テオピロ)になっています。彼はローマ帝国の高官だったようです。ルカはイエス・キリストの目撃者ではありませんが、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人たちから、イエスについて多くの事を聞きました。そして、さらに、ルカ自身もすべてのことを初めから綿密に調べた事柄を、テオフィロのために、順序だてて書いたのがルカの福音者だったのです。ルカはテオフィロに、すでに受けている教えが確かなことであることをわかってもらうために書きました。もちろん、それは、テオフィロのためだけではなくて、さらに、多くの人々に向けて書かれたものであることは言うまでもありません。

 ルカの福音書の最後の章、24章には、イエス・キリストの復活について書かれています。24章の終りの方を見ると、11人の使徒とその仲間が集まっているところに、よみがえられたイエス様が現れました。復活後、イエス様は、少なくとも10回は弟子たちの前に現れています。記述されていない分も含めるなら、もっとそれ以上、弟子たちの前に現れたことでしょう。

 イエス様は、弟子たちとの会話の中で、とても興味深いことを言っています。たとえば、「わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見てわかるように、わたしにはあります。」当時の人々には幽霊と言う概念があったのです。幽霊は肉体を持たず、霊的な存在であるとの理解であったのでしょう。しかし、復活のイエス様には肉も骨もありました。弟子たちの中には、実際に、復活のイエス様にさわった者もいたかもしれません。少なくとも、トマスはさわりました。しかも、イエス様は焼いた魚を一切れ食べた、とも記述されています。

 そして、イエス様は、現実に起こっている出来事を悟らせるために、弟子たちにいくつかの事を語りました。一つは、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければならないことであり、イエスが十字架にかかり死んだことや、三日目によみがえったことは、そこに書かれていたことの成就なのだと言うことです。そして、二つ目は、さらに、そのイエスの名による罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられるのだ、と言うことです。三つ目が、罪の赦しを得させる悔い改めをあらゆる国の人々に宣べ伝えるのは、あなたたち自身であるということです、あなたたちがこれらの出来事の証人となって、エルサレムから始まって世界中に宣べ伝えられるのだ、ということをイエス様は述べているのです。

 そして、四つ目に、その証人となるために、父なる神様が約束したものを弟子たちに送ります、と伝えました。その約束のものとは何かと言うと、それは、聖霊です。ここでは、はっきりと聖霊とは書かれていませんが、ルカの福音書の続きである使徒の働きでは、はっきりと聖霊と言っています。いと高き所から力を着せられるまでは、都(エルサレム)にとどまっていなさい、とイエス様は言いました。この時には、神様が約束した聖霊を受けるために、エルサレムにいると言うことが条件であったわけです。ただ、エルサレムにいた者がみな聖霊を受けたのではありません。当然のこととして、イエス・キリストを信じ、約束の聖霊を待ち望んでいた人々が聖霊を受けたのです。「力を着せられる」と言う表現は、とても興味深い表現です。天から送られた聖霊が、着る物であるかのように表現しています。聖霊を受けることは、力を着せられることであるようです。その後、イエス様は、弟子たちから離れて天に上げられ、弟子たちは大きな喜びと共にエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたてていた、で終わっています。そして、次のステップ、使徒の働きへとつながって行くのです。それでは、使徒の働きを見て行きましょう。

■1節~2節 宛名はルカの福音書と同じ、テオフィロ(テオピロ)です。前の書とは、ルカの福音書のことです。ルカの福音書で、イエスが行ない始め、また教え始められたすべてのことについて書き記した、とあります。イエス様は初めに、12人の弟子たちを選んで彼らを使徒としました。イエス様は使徒たちに聖霊によって命じた、とあります。使徒の働きは、聖霊による働きと言えるほどに、1章から聖霊と言うことばが数多く出て来ます。使徒の働きの初めの方が後半よりも聖霊と言うことばが数多く見られます。21章くらいから、聖霊と言うことばはほとんど見られません。使徒の働きの初めにおいては、聖霊による働きが顕著であったのかもしれません。あるいは、教会の始まりとその働きが聖霊によるものであることを、その後信徒となる人々にしっかりと伝えるためであったのかもしれません。それゆえに、教会形成や教会活動が人の計画や人の力ではなくて、聖霊によってしっかりと神様の計画と神様の力によらなければ、けっして進んで行くものではないことを、私たちは肝に銘じることが必要なのだと思います。

 弟子たちはイエス様とおよそ3年半の間一緒に活動しました。その間に、イエス様は弟子たちを教え、導き、訓練しました。それらはすべて聖霊による働きであったのです。それを終えられて、イエス様は天に上げられました。それまでのことをルカの福音書は語っているのです。

■3節 イエス様の苦しみは十字架上での苦しみだけではありません。死んで復活するまでの間、死の状態の中でイエス様は苦しみを味わっておられたのです。死は苦しいのです。しかし、死の力を打ち破って三日目によみがえられました。復活して後、イエス様は数多くの確かな証拠を持って、ご自身が生きていることを使徒たちに示しました。40日にわたって使徒たちに現れたのです。40日の間、絶えず目に見える形で弟子たちと一緒にいたのではありません。聖書に書かれているだけでも、40日の間に少なくとも10回は現れました。実際は、もっと現れたかもしれません。その目的は、ご自身が確かに生きておられることを弟子たちに示すことです。そしてまた、神の国のことを弟子たちにより明確に語るためです。十字架にかかられる前にも、イエス様は神の御国について語っておられました。それ以上の神の国についての情報を、イエス様は弟子たちに与えたのではないでしょうか。 

■4節~5節 復活のイエス様が使徒たちと一緒にいるときに、イエス様が命じられたことがあります。それは、ルカの福音書でも同様の事が書かれていました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」です。イエス様から聞いた父の約束とは何でしょうか。何度も言いますが、それは、聖霊を受ける、と言うことです。ルカの福音書では、「いと高き所から力を着せられるまでは、都(エルサレム)にとどまっていなさい。」となっています。使徒の働きでは、「ヨハネは水でバプテスマを授けました。あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」となっています。バプテスマは、浸す、染める、沈める(バプティゾー/動詞)の名詞形です。ですから、バプテスマの意味は、浸すこと、染めること、沈めることなのです。

 ヨハネは水でバプテスマを授けました。ヨハネのバプテスマは、悔い改めのバプテスマと言われています。ヨハネは人々に悔い改めのメッセージを語りました。悔い改めのメッセージに同意して罪を認めて悔い改めた者だけが水のバプテスマを受けることができました。ヨハネは罪を悔い改めた者たちを水に沈め、水に浸してバプテスマを授けました。このヨハネのバプテスマは、イエス・キリストを救い主として迎えるための道備えとなるバプテスマと言えます。つまり、ヨハネの水によるバプテスマは、イエス・キリストの聖霊によるバプテスマを受けるための準備段階であったと言うことです。罪の悔い改めなくして、イエス・キリストの聖霊によるバプテスマはありえません。また、罪の悔い改めをもって、私たちは、イエス・キリストを救い主として心にお迎えし、その結果、聖霊を受けたのです。悔い改めの本来の意味は、向きを変える、です。私たちは、イエス・キリストによって罪赦された者です。私たちは、神様のみ前に正しい者として立つことができる者とされました。それは、イエス・キリストが私たちに代わって十字架でその罰を受けてくれたことを信じたからです。私たちには聖霊が与えられていますから、罪を犯してしまった時にはそれを認めて、神様のみ前に告白して、その罪の向かう方向とは反対方向に向きを変えて歩き始めるのです。私たちは同じ罪を何度も犯してしまう本当に愚かな者ですが、しかし、そのことに気づかされた時には、向きを変えて、また歩き始めることが私たちにはできるのです。

■6節 使徒たちが一緒に集まったときに、復活のイエス様が現れました。そのときに、使徒たちはイエス様に尋ねたのです。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時ですか。」と。彼らにとって一番の関心は、独立したイスラエル人のための国です。その国は、メシヤが治める国なのです。この時代は、ローマ帝国の支配下にありました。彼らは、ローマの支配から自由になりたかったのです。エゼキエル11章や36章で、「あなたがたのうちに新しい霊を与える。」と言われています。新しい霊とは、つまり、聖霊のことです。それとともに、その前後には、彼らにイスラエルの地を与え、彼らは神の民となり、神は彼らの神となるということが書かれています。聖霊と彼らの国の再興について書かれているこれらの箇所が、彼らの質問、「イスラエルの国を再興してくださるのは、聖霊を受けた時なのですか。」という発想につながっているのです。

■7節~8節 使徒たちの質問に対するイエス様の答えは、「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。」ということでした。いつ、どんな時に、イスラエルの国が再興するのかについては、あなたがたは知らなくてよいのだ、と言うのです。それについては、すべてを支配しておられる神様がちゃんとその日を定めて、いつか必ず、あなたたちのためにイスラエルの国を再興してくれます、ということなのです。今すぐには、イスラエルの再興はないけれど、しかし、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリア全土、さらに、地の果てまで、わたしの証人となります。」と言うのが、イエス様から使徒たちへの最後のメッセージでした。

 弟子たちの望む計画と神様の計画は違いました。しかし、弟子たちの望む計画そのものが否定されたわけではありません。ただ、今がその時ではないと言うだけです。神様が御心の時にちゃんとそのことも成し遂げてくださると言う期待を持たせてくれたのが、イエス様の応答でした。 

 使徒たちの願いはとても強かったのです。彼らはそのことにかなり固執していました。もしかしたら、私たちにもそのような執着してしまっている強い願いがあるかもしれません。しかし、もしかしたら、今はその時ではなく、その前にやるべきことがあるのかもしれません。使徒たちがやるべきことが、イエス様によって示されました。でも、もし、彼らが自分たちの願いに執着して、そのことを神様にゆだねることが出来なかったとしたら、どうなっていたでしょう。きっと、それが妨げとなって、イエス様によって示された次のステップへは踏み出すことはできなかったのではないでしょうか。彼らにとって次のステップとは、聖霊が彼らに臨んで力を受けること、そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、救い主イエス・キリストの証人として、ユダヤ人に、そして、異邦人に福音を宣べ伝えることでした。彼らはそれをやり遂げました。イエス様から与えられたこのミッションは、2000年の時を経て、もう少しで全世界に福音が宣べ伝えられようとしています。

■9節~11節 最後のメッセージを使徒たちに語った後、イエス様は、雲に包まれ彼らの前から消えてしまいました。すると、そこに二人の白い衣を着たみ使いがいて、彼らに言いました。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見た有様で、またおいでになります。」  

 このところに書かれてあることの意味がわかるでしょうか。イエス様は、弟子たちが天に上って行くイエス様を見た有様で、またこの地上に戻って来ますよ、と言っているのです。イエス様はエルサレムの東側にあるオリーブ山から天に上って雲の中に消えてしまいました。それと同じ有様ですから、イエス様は再びそのようにしてエルサレムの東側にあるオリーブ山に雲の中から現れるのです。将来、エルサレムにいるユダヤ人たちはそれを見ることになるでしょう。それについては預言書のゼカリヤ書に書かれています。

■使徒たちは次のステップへ踏み出すために、イエス様から何を教わったでしょうか。一つ目に、イエス様から受けたミッションは、聖霊によらなければ行うことはできないということです。神様の働きは人の能力でなすことはできません。次のステップへ踏み出すためには、自分たちの力ではなくて聖霊の力が必要なのです。二つ目に、踏み出す前に悔い改めるべきことを悔い改めて、心の向きを修正しておくことです。悔い改めのない所には、聖霊は働かれませんし、神の働きはありません。三つ目に、自分たちの願いではなくて神様の導きや計画に焦点を合わせることです。弟子たちには自分たちの願いや計画がありました。しかし、神様の計画に目を向けるようにイエス様は導いています。四つ目に、弟子たちは、イエス様が再びこの地上に戻って来られることを知らされました。イエス様が戻って来られる信仰をもって弟子たちは進んで行ったのです。次のステップへ踏み出すために、このようにして弟子たちは整えられたのです。私たちも次のステップへ踏み出すために、イエス様が弟子たちに教えられたことから学びたいと思います。それではお祈りします。