ナザレから新芽が出た!

2023年12月17日主日礼拝 

「ナザレから新芽が出た!」イザヤ11:1  佐々木俊一牧師

「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」(イザヤ11:1)

■イザヤは紀元前700年代、今から約2700年前に活躍した預言者です。彼の時代は、ユダ王国にとっては非常に不安や心配の多い時代でした。周囲にあるイスラエル王国やアラム王国から頻繁に攻撃を受けていました。しかし、さらなる脅威がユダ王国に迫っていました。アッシリア帝国がイスラエルやアラムを滅ぼし、ユダ王国までも滅ぼそうとしてやって来たのです。紀元前720年にイスラエル王国が滅ぼされました。その後、およそ150年間は神のみ手の守りの中、ユダ王国は独立を保つことができました。しかし、アッシリア衰退の後、バビロン帝国によって紀元前585年に滅ぼされてしまいました。ユダ王国のおもだった人々はバビロンに連れて行かれました。このような背景と当時の出来事の中で、イザヤは人々に向かって預言を語りました。その中に、救い主のことや将来起ころうとしている事柄についても、語られていたのです。今日の聖書箇所であるイザヤ11章もその代表的なところです。

■イザヤ11:1 「根株」とは何でしょうか。木の切り株です。木を切っても木の根っこは地中の中に残っています。根っこがある限り、その木は生きています。根株とは、切り倒された木の残った部分と根っこの部分です。切り倒されたにもかかわらず、残された部分から新芽が出てくることがあるのです。そして、その新芽が成長して枝になり、そこに実がなるのです。

次に、「エッサイ」です。エッサイの意味は、「神の賜物」とか、「王様」という意味があるそうです。ところで、「エッサイ」とは誰でしょうか。それは、ダビデのお父さんです。エッサイには8人の息子がいました。その8番目の息子がダビデです。

 今日の聖書箇所に、「エッサイの根株」と書いてありました。エッサイと根株とに、どのような関係があるのでしょうか。それは、エッサイの家系が切り倒された木の根株のような状態になってしまったということなのです。昔はエッサイの家系は栄えていました。8番目の息子であるダビデ以来、およそ400年間は王家として栄えていたのです。しかし、それがすっかり衰え果ててしまいました。エッサイの家系には何の可能性も期待することはできなかったのです。ところが、人の目には衰えて見えたとしても、神様の目にはそうではありませんでした。エッサイの家系から、救い主なるお方がお生まれになることが、このところで予告されているのです。

 エッサイの末っ子のダビデは、サウルの後、イスラエルの王様になりました。次に、ダビデの息子のソロモンが王様になり、ソロモン王の後は、ユダ王国とイスラエル王国の二つに分裂してしまいました。ユダ王国はおよそ400年間続きました。その間、ダビデとその子孫がユダ王国の王になりました。けれども、ゼデキヤ王を最後に、バビロンの捕囚となり、その王家は終わってしまったのです。

 それから、およそ600年の時が流れました。ダビデの子孫であるヨセフとマリヤの時代になると、元王家の家系としての繁栄はまったく見られませんでした。ヨセフは貧しい大工(石工)でした。英語の聖書、Today’s English Versionのイザヤ書11:1には、「ダビデの王室の家系は、切り倒された木のようである」と書かれています。しかし、その後に、「その根株から新芽が生え出るように、ひとりの新しい王がダビデの子孫に起こる」と書かれています。この「新芽」とは、イエス・キリストのことであり、「新しい王」とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストは、ダビデの家系に生まれました。(実際には、聖霊によってマリヤはみごもりました。神なるお方が人としてこの地上に来るために、マリヤのおなかにやどり、ダビデの家系の中に現れたのです。)そのお方は、「とこしえの王」として、永遠にその王国を治めるのである、とイザヤ9:7に書かれています。この部分は、まだ成就していません。これから成就するのです。

■ちなみに、新約聖書において、イザヤ11:1と関連がある箇所を見てみたいと思います。マタイ2:23に、「そして、ナザレという町に住んだ。これは預言者たちを通して、『彼はナザレ人と呼ばれる』と語られたことが成就するためであった。」とあります。皆さんの中にも私と同じ事を思っている方がいるかと思います。旧約聖書を見ても、「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られているところは見つからないのです。救い主がベツレヘムでお生まれになる、と言うことはミカ書5:2にあります。けれども、「彼はナザレ人と呼ばれる」とはどこにも書かれていません。実は、イザヤ11:1がそれにあたるのだそうです。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」この中にある、新芽、あるいは、若枝が、「ナザレ」という言葉にあたるのだそうです。ナザレはヘブル語で言うとナツラット、若枝や新芽という意味のネツァールという言葉が語源になっているそうです。イエス様はベツレヘムでお生まれになり、ナザレで育ちました。そして、ナザレのイエスと呼ばれるようになりました。さらに、イエス・キリストを救い主と信じる人々はクリスチャンと呼ばれる前は、ナザレ人とかナザレ派と呼ばれていたのです。

■もう一つ、見てみましょう。ローマ15:12にこのように書かれています。「さらにまたイザヤは、『エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方が。異邦人はこの方に望みを置く。』と言っています。」このところで、パウロはイザヤ11:1を引用しています。しかし、後半の部分が違うのはなぜでしょうか。パウロは異邦人伝道に召命を受けた人です。イザヤ書11章を読み進めて行くと、11:10に、「その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く。」とあります。なるほど、パウロの意図するところは、この部分から来ているのではないでしょうか。エッサイの根はユダヤ人だけのためではなくて、ユダヤ人以外の民族や国々の人々のためでもあるのです。エッサイの根は、ユダヤ人にとって希望であり、異邦人にとっても希望なのです。パウロは、イザヤ11:10の意味するところも含めて、「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方が。異邦人はこの方に望みを置く。」と言ったのではないでしょうか。

■それでは、今日の聖書箇所から、私たちにとって一つ、大切なことをお話ししたいと思います。もしも、私たちが切り倒された木の切り株のような状態になってしまったとしたら、私たちはどうすることができるでしょうか。もしも、私たちが傷ついて、将来に希望も期待も持てないような状況に置かれたとしたら、私たちにはどのような可能性が残されているのでしょうか。イザヤ11:10にこのようなことばがありました。「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」衰え果ててしまったエッサイの家系は、その根によって大丈夫だったのです。「エッサイの根」とは、「イエス・キリスト」をさしています。イエス・キリストは神なるお方です。イエス・キリストは国々において旗として立ちます。人々はその旗を見て集まって来るのです。「彼を求め」とは、イエス・キリストに賛同して集まって来ることです。そして、イエス・キリストのおられる所には希望があるのです。イエス・キリストというルーツ、根っこにしっかりとつながっているならば、そこには、まだ可能性が十分すぎるほどあるのです。イエス様という根っこにつながっている限り、あきらめることはありません。その信仰によって、私たちはやり直すことが可能なのです。イエス様にしっかりとつながっているならば、そのうちに弱っている心も強くされます。励まされて、勇気をもらって、立ち上がって、再び目標に向かって歩き出すことができるのです。「七転び八起き」ということわざがあります。どうして、五転び六起きではないのでしょうか。どうして、六転び七起きではないのでしょうか。日本のこのことわざは、非常にユダヤ的であると言えるかもしれません。聖書に出て来る数字には、何かを意味していることがあります。「8」という数字は、新しい始まりを表します。ユダヤ人の慣習の一つとして、男の子が生まれると、8日目に割礼という神様との約束の儀式があります。また、ユダヤの多くの祭りごとは、週の1日目である日曜日に始まることが多いのです。つまり、8日目の日曜日であれば、新しい週の始まりということになります。イエス様がエルサレムに入場したのが日曜日でした。十字架にかかって死んで復活したのも日曜日でした。それは、イエス様がエルサレムに入場してから8日目のことでした。ユダヤ人の慣習においては、「8」は新しい始まりとしてとらえられているのです。人生は転んでは起きる、そんなことの繰り返しです。信仰によって、私たちは何度でも起き上がることができます。私たちが信仰によって神様とつながることは、神様に根を張って生きることです。そのような人は、転んでもまた起き上がります。そして、いつか実を結ぶのです。

■最後にもう一度、イザヤ11:1を見てみましょう。「その根から若枝が出て実を結ぶ」と書かれています。イザヤ9:6は、成就しました。救い主はお生まれになったのです。しかし、預言はそれで終わりではありません。続きがあります。イエス様は、またこの地上に戻って来ることを約束されました。イエス様がこの地上に戻って来られる時、それは、イザヤ9:7が成就する時です。エッサイの根から出た新芽、その若枝であるナザレ人イエスが王として治める時、イザヤ書11章に見るような永遠の平和が訪れる時なのです。このアドベントの時に、そのことを覚えつつ、とこしえの王として来られるキリスト・イエスを待ち望んでいきましょう。それではお祈りします。