聖霊を受けなさい!

2023年11月5日(日)主日礼拝 「聖霊を受けなさい!」ヨハネ20:19~22 佐々木俊一牧師 

■イエス様は私たちの罪の赦しと神様と人との和解のために、そして、悪魔が支配していた死の力から解放し、永遠のいのちと朽ちることのないよみがえりの体を与えるために、十字架に死んでそのことを成し遂げてくださいました。その証として、イエス様は三日のちに復活して弟子たちと、またその他大勢の弟子たちの前に現れてくださいました。今日、最初にお読みしたところは、そんな出来事の一つとして書かれています。

 その日は週の初め、つまり、日曜日の夕方の事でした。弟子たちは、自分たちもイエス様と同じようにとらえられて同じように殺されるのではないだろうか、と恐れて家にカギをかけて隠れていました。そんな状況の中、復活のイエス様は弟子たちの前に現れてくださいました。そして、イエス様が最初に言われた言葉が、「シャローム、平安があるように。」です。それまで、弟子たちの心は恐れと不安でいっぱいでした。しかし、喜びと平安が再び戻ってきました。なぜならば、死んだはずのイエス様が生き返って彼らの前に現れたからです。そして、イエス様はもう一度言われました。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」このとき、イエス様は彼らに息を吹きかけました。そして、言われたのです。「聖霊を受けなさい。」と。これは、とても重大なことです。

 このときに弟子たちは聖霊を受けたわけではありません。その後、イエス様があらかじめ約束してくださっていたように、五旬節の日になって、聖霊が天からが下られて、弟子たちは聖霊を受けました。そのことが、使徒の働き2章に書かれています。聖霊を受けた弟子たちは変えられました。恐れと不安に陥っていた弟子たちは、大胆に復活したイエス様を証しする者に変えられていたのです。

 現在に生きる私たちは、どうでしょうか。私たちは聖霊を受けましたか。もちろん、受けました。私たちは罪を悔い改めて、イエス・キリストが自分の罪のために十字架に死んでくださったこと、そして、三日目によみがえられたことを信じました。イエス様が救い主であることを信じたときに、私たちは聖霊を受けたのです。その信仰によって、私たちは救われたのです。

 今日は、聖書の中で、聖霊について、どのように言われているのかを見て行きたいと思います。

■聖霊を表わすことばは、旧約聖書においても、また、新約聖書においても、何度も出てきます。ヘブル語では「ルアハ」、ギリシャ語では「プニューマ」です。もとの意味は、息とか風、あるいは、霊を意味しています。そのことを考えると、イエス様が弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われた理由が良くわかるのではないでしょうか。また、創世記2:7に、「神である主は、その大地のちりで人を形作り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きる者となった。」と書かれていますが、イエス様の息を吹きかけたその行為は、その箇所を思い起こさせるよう出来事であったと思います。聖霊を受けることで、私たちは新しい命を受けて生まれ変わるのだということを思わされるのです。

■ここで、また、みなさんに質問したいと思います。聖霊とは何でしょうか。イエス様は、「父と子と聖霊の御名によって彼らにバプテスマを授けなさい」と言われました。また、パウロも、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてと共にありますように」と言いました。これらは、父と子と聖霊の三位一体なる神を表しています。聖霊にも、父と子と同じように人格(神格)があって、知性があり、感情があり、意志があるということになります。

 けれども、聖霊のことを私たちはどう考えているでしょうか。何だかはっきりわからないとか、もしかしたら、ただの霊的な力にすぎないと思っておられる方がいるかもしれません。でも、そうではありません。聖霊も、父なる神と子なるキリストと同じように神様です。その神様がイエス・キリストを信じる者たちの内に住んでおられるので、私たちの体は、神の宮とか神の幕屋とか神の神殿と言われるのです。聖書にはっきりそのように書いています。たとえば、Ⅰコリント3:16を見てみてみなしょう。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」と書いてあります。聖書によるならば、聖霊は神であり、聖霊なる神様は私たちの内に住んでおられます。そのことを信じましょう。

■聖霊は父なる神様や救い主イエス・キリストと同じように、人格(神格)をお持ちであると言うことですから、そのことについて書かれた聖書箇所をいくつか見て行きましょう。

 人格のあるものには、知性があり、感情があり、意志があります。まず一つ目として、聖霊は知性のあるお方であるということです。ヨハネ14:26に、「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」とあります。

 ここにあるように、聖霊は、私たちに教えたり、思い起こさせたりすることができるようです。教えるということは知的活動ですから、知性がなければ教えることはできません。つまり、聖霊は知性のあるお方なのです。聖霊は霊的な事柄に関して理解するために助けてくださるお方なのです。

 私たちは聖書に書かれてあることすべてを一度に理解することができるわけではありません。罪の悔い改めやイエス・キリストの救いについて知識として知ったとしても、そのことを受け入れたり信じたりするまでには時間が必要です。私たちはたとえ知識を得たとしても、聖霊の助けがなければ、本当の意味で理解できないし、信じることもできません。

 聖書を読んでいる時、こんな経験はないでしょうか。以前読んだ時には何を言っているのかよく分からなかったけれど、ある別の日に同じところを読でみると、そのところの意味がよくわかった、そんなことはないでしょうか。また、イエス様の話の中にはとても理解に苦しむ箇所がありますが、ある日、その箇所が何について言っているのかがよくわかったりしたことはないでしょうか。わたしは、約40年間の信仰生活の中で、そんなことだらけです。ですから、聖書を何度も読むことはとても大切なことなのです。ある時にはわからなくても、別の時に、わかると言うことはよくあることなのです。理解するために人間的な理解力も必要ですが、それだけでは十分でないことがあるのです。聖霊が思い起こさせてくれたり、教えてくれたりして初めてわかることもあるのです。ですから、聖書は何度も繰り返し読むことが大切です。もしかして、他の本と同じように1回読めばいい、なんて思っている人はいないでしょうか。何度も何度も読みましょう。読むたびに新しい発見があると思います。

 ローマ8:27には、御霊は神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしてくださるとも書いてありますから、御霊は聖徒の必要をよく知っていてそのために祈ってくださるお方なのだということもわかると思います。御霊、つまり、聖霊に知性がなければ、けっしてそのように祈ることなどはできません。このように、聖霊は知性あるお方なのです。

■次に二つ目として、聖霊は感情のあるお方であるということです。エペソ3:40に、「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」と書かれています。

 私たちが神様の喜ばれないことを行なってしまう時、たとえば、罪だと分かっていながらその行為を悔い改めることなくやり続けてしまう時、聖霊はとても悲しみます。このように、聖霊は感情豊かなお方なのです。先ほど読みましたローマ8:26には、聖霊が言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださっているとありました。もしも、私たちが罪を犯し続けていくようなときには、きっと、聖霊は言いようもない深いうめきをもって私たちのためにとりなしくださるのだと思います。しかし、もしも私たちがそのようなことに陥るようなことがあれば、聖霊は、十字架に架けられたイエス様のように、非常に悲しくて傷ついて苦しんでいるような状態にあるのだということです。

■次に3つ目として、聖霊は意志のあるお方であるということです。Ⅰコリント12:11に、「御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分けてくださるのです。」とあります。もっと意味が正確に伝わるように言い直すならば、「御霊は、御霊ご自身の意志をもって、御霊ご自身が決めて、一人ひとりに賜物を分けてくださるのです。」と言うことです。

 聖霊は父なる神のみこころを人々に伝えたり教えたりするだけではなくて、自ら判断して決めることもできるのだということを表している箇所です。この人には知恵のことばの賜物、この人には霊を見分ける力の賜物、この人にはいやしの賜物、この人には教える賜物、この人には助ける賜物、この人には与える賜物など、いろいろな賜物を聖霊ご自身が判断して決めて与えられるのです。もちろん、このような賜物は、イエス様を救い主と信じて初めて受けることのできる賜物です。そして、このようにただで受けた賜物はただで用いるように聖書は勧めています。聖霊の賜物を用いて金儲けをしてはいけません。

■イエス様は、復活後、弟子たちの前に現れて、「聖霊をうけなさい。」と言われました。私たちはどうでしょうか。「聖霊を受けましたか。」もちろんです。「イエス様は私の主です。イエス様は私の救い主です。」と私たちが告白したときに、私たちは聖霊を受けました。聖霊を受けて終わりですか。そうではありません。イエス様は言っています。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言っています。みなさんが聖霊を受けて、みなさんがイエス様の弟子ならば、みなさんはイエス様によって遣わされた者なのです。イエス様によって遣わされた者は、自分を通して神様の栄光を現すように召されています。Ⅰコリント19:20にそう書かれています。もはや、私たちは自分の計画のために生きるのではなくて、神様の計画のために生きるように召されています。パートタイムで神様の計画のために生きるのではなくて、フルタイムで神様の計画のために生きるように召されています。なぜならば、私たちは聖霊を受けて、イエス様によって遣わされているからです。きょうはそのことをしっかりと覚えていただきたいと思います。それではお祈りします。