ダビデの幕屋が意味すること

2023年9月24日主日礼拝「ダビデの幕屋が意味すること」使徒15:13~20佐々木俊一牧師

■16節~17節のことばは、旧約時代の預言者アモス(BC800/イザヤよりちょっと早い、ダビデが亡くなってから200年後くらいの人)によって語られたことばです。アモス書9章にあります。このところに、ダビデの幕屋、または、ダビデの仮庵ということばがあります。今日は、このダビデの幕屋が意味することについて共に見ていきたいと思います。

■使徒の働き15章は、「エルサレム会議」と言われているところです。ここで2つの事が問題とされています。一つは、救いはユダヤ人だけではなく、異邦人(外国人)のためでもあるのか、ということについてです。これについてペテロが、異邦人がペテロの口から福音のことばを聞いて信じた時、ユダヤ人に対してと同じように異邦人にも聖霊が与えられた、ということを証言しました。

その代表的な話が、これです。皆さんもよく知っているお話です。ペテロが屋上でお祈りをしていると、それはちょうどお昼御飯が近づいていた時で、ペテロは夢心地になってしまいました。すると、天から敷布のようなものが地上に降りて来ました。その中には、律法では食べてはいけない、と言われている動物や地をはう生き物や鳥がいました。その時、「それらをほふって食べなさい。」と言う声が聞こえました。ペテロは言いました、「きよくないものは食べたことがありません。」すると、もう一度、声が聞こえました。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」このようなことが、3回あった、と言うのです。

 そこへ、あのイタリア隊の百人隊長の使いがペテロのところにやって来ました。彼らは異邦人です。ユダヤ人からすると、きよくない人々です。ユダヤ人は、きよくない人々とはつきあいません。しかし、ペテロは先ほど見た幻によって悟りました。ですから、ペテロはイエス・キリストの救い、十字架と復活について、異邦人である彼らに宣べ伝えました。すると、彼らに聖霊が下って、イエス・キリストの救いを受け入れたのです。ペテロはこのことをとおして、神様は異邦人も救ってくださるのだ、ということを体験しました。

 さらに、パウロとバルナバが、異邦人の間でも聖霊を受けるとしるしと不思議なわざがあったことを証言しました。そして、次に主イエスの兄弟であるヤコブがアモス9:11~12を引用して、その出来事が預言者たちのことばとも一致していることを証明して見せました。

 17節に、「人々のうちの残りの者」とありますが、これは、ユダヤ人を指しています。まだまだ救われるべき人々が、ユダヤ人の中にはいるのです。そして、「わたしの名で呼ばれるすべての異邦人」とありますが、これは、ユダヤ人以外、外国人のことであり、その中でも、イエス・キリストを信じたクリスチャンの事です。ダビデの幕屋の回復は、ユダヤ人のためであり、また、異邦人のためでもあると言うことです。異邦人の救いは、聖書的にも現実的にも、疑う余地のない確かな事であるということが、エルサレム会議における結論です。

 二つ目の問題は、異邦人が救われるための救いの条件についてです。パリサイ人出身の信者たちは、異邦人信者も律法の規則(200項目くらい)に従うように指導すべきだと主張しました。しかし、結果は、基本的にはイエス・キリストを信じる信仰と恵みによって救われるのだということが明確にされました。それにより、異邦人には律法の順守を求めることなく、ただ、偶像に供えた汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように伝えるだけでよい、ということになったのです。

■ところで、「ダビデの幕屋」とは何でしょうか。まず、幕屋とはテントのことです。旧約聖書には、幕屋(テント)と言われるものが二つあります。ともに、神様が住まわれる場所であり、人々が礼拝を捧げる場所でした。

一つは、モーセの幕屋です。それは、モーセの律法に従って神に捧げる礼拝を意味しています。どのような礼拝かと言うと、牛や羊などの動物を罪のためのいけにえとして捧げるのです。そこでは、毎日毎日、動物のいけにえが捧げられていました。その中で働く人々は祭司と呼ばれていました。祭司たちは、人々が捧げものとして持って来た動物をほふり(殺し)、それを祭壇の上で焼き尽くしました。このような作業をする祭司たちですから、いつも手足や衣服は血や砂埃で汚れていました。彼らの汚れた手足は、幕屋の庭にある洗盤の水で洗い流しました。このような礼拝が旧約時代の正統な礼拝の形なのです。

 もう一つは、ダビデの幕屋です。ダビデの幕屋での捧げものは動物ではありませんでした。そこでは、感謝や賛美や祈りが捧げられていました。レビ人と祭司たちがいろいろな楽器を演奏しました。それに合わせてダビデや歌い手たちが感謝や賛美の歌をもって神様をほめたたえました。ダビデが契約の箱を自分の作った幕屋の中に運び入れたのをきっかけに、このような礼拝の形が始まりました。

 ダビデの時代には、モーセの幕屋とダビデの幕屋の両方で礼拝が捧げられていました。けれども、もともとは、契約の箱はモーセの幕屋にあるべきなのに、この時、モーセの幕屋にはなかったのです。なぜでしょう。ダビデが自分の作った幕屋に持って行ってしまったからです。契約の箱とは、神の臨在を表わし、神が共におられることを意味するものです。モーセの幕屋には、もはや、神様の臨在はありませんでした。しかし、ダビデの幕屋には神様の臨在があったのです。ダビデという人は、新約時代のクリスチャンと神様との関係を表している人物です。そして、ダビデの幕屋で行なわれていた礼拝の形は、クリスチャンが捧げる礼拝を表すものです。しかし、いつしかダビデの幕屋の礼拝の形は、姿を消してしまいました。ところが、アモスが預言したとおりに、ダビデの幕屋で捧げられていた礼拝の形は再び回復するのです。イエス・キリストの十字架の贖いによって、信仰と恵みによって捧げられる礼拝が初代教会に回復しました。そして、使徒15:17に書かれてあるとおり、それは、ユダヤ人たちだけのためではなくて、異邦人、つまり、全世界の人々のためのものとなったのです。ここで言われている「ダビデの幕屋」は、賛美や礼拝の形について言っているのではありません。聖霊が降臨した時以来始まった「教会」について言っているのです。教会はユダヤ人のためだけにあるのではありません。異邦人のためにもあるのです。教会は、ユダヤ人も異邦人も、もっと救われるためにあるのです。ですから、教会にはイエス・キリストを信じるユダヤ人だけでなく、イエス・キリストを信じる異邦人も加わってよいのです。それが、初代教会における見解でした。

 このように、新約聖書の出来事や教えは、旧約聖書が土台となっています。ヤコブがしていたように、旧約聖書で語られていることとかみ合っているのかどうかを検証することは重要なことなのです。

■詩篇22:3「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」

ダビデはイスラエルの賛美の中に神様が住んでおられると歌っています。クリスチャンは霊的イスラエルと言われていますから、クリスチャンが捧げる賛美の中にも、もちろん、私たちが捧げる賛美の中にも神様が住んでおられるはずです。目には見えませんが、信仰によって目に見えるお方であるかのように、神様に向かって礼拝を捧げることは、神様の喜ばれることです。

 ダビデの幕屋での礼拝についてさらに見ていきましょう。

1)感謝をささげる:詩篇100:4「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。  

主に感謝し、み名をほめたたえよ。」

 詩篇には、感謝をささげる、ということばがたくさん出て来ます。私たちが礼拝に来るとき、その時によっていろいろな心の状態や状況の中からやって来ます。疲れていたり、傷ついていたり、恐れや心配があったり、罪の咎めを感じていたり、逆に、嬉しいことがあったり、喜んでいたりします。私たちの心の状態が安定している時は、感謝することは難しいことではありません。でも、心の状態が不安定な時は、感謝することが難しいのです。難しい時にささげる感謝は、また、嫌でも意志を働かせて感謝することを選んでささげるときは、特に、感謝のいけにえと言えるでしょう。感謝をささげることは、神様の力を受けるための入り口になります。ですから、私たちが感謝をささげることは、礼拝を始めるのにあたって、それは祝福をもたらす、とてもよい態度です。

2)賛美をささげる:詩篇43:4「私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめたたえます。」詩篇には、感謝をささげると同様に、賛美をささげる、と言うことばも何度も出て来ます。賛美ということばには7つくらいのことばがあります。ここで使われている「ほめたたえます」には、「手を上げて賛美します」という動作を含むことば(ヤダー)です。

 詩篇69:30「私は神のみ名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。」

ここで使われている「ほめたたえる」は、自分が不利な状況に置かれているにもかかわらず、神様がしようとしていることに先んじて、賛美を捧げる、いわば、「賛美のいけにえ」という意味と「手を上げる」という意味を含んでいることば(トーダー)です。神様を賛美する時に手を上げると言うことは当たり前に行なわれていたようです。

3)礼拝をささげる:ピリピ2:10「それは、イエスのみ名によって、天にあるもの、地にあるもの、 

地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」

「礼拝する」とは、ひざをかがめることであり、ひれ伏すことであり、地面に頭をつけるほどに低くなることです(ヘブル語でシャカー、ギリシャ語でプロスクネオ)。

 ダビデは礼拝の初めに、感謝を捧げ、賛美を捧げ、そして、主の前にひれ伏しました。

■ここで話は変わって、一般的な音楽の話をしたいと思います。1960年代頃からアメリカではロックンロール、フォーク、ロックなどの音楽が多くの若者に支持されるようになりました。それ以来、現代に至るまでポピュラー音楽は若い人々の文化に大きな影響を与え続けています。

 1960年代には、ボブ・ディラン、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、サイモンとガーファンクルなど、多くのミュージシャンがアメリカやイギリスを中心に現れ、世界中の若者は彼らに夢中になりました。これらの新しい音楽が世の中に大きな影響を与える時代背景の中で、アメリカのキリスト教界においても教会で歌う讃美歌に変化が起こり始めました。

 1970年代にはすでに聖書のことばにフォーク音楽風のメロディーをつけたScripture in songがありました。Scripture in songはニュージーランドで始まりました。その後、 アメリカで、聖書的な歌詞にポピュラー音楽風のメロディーをつけた賛美をMaranatha musicという音楽製作会社が作り始めました。この会社はイエス革命で有名になったチャック・スミスが牧会していたカルバリー・チャペルを中心に始まりました。続いて、ヴィンヤード・クリスチャン・フェローシップによってVineyard Musicが創設され、その後、Hosanna musicや、オーストラリアではHill songが創設されました。今ではもっと多くのクリスチャン音楽の会社があり、数えきれないほどの賛美が生まれています。それらに加えて、コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージックと言われるジャンルがあって、数多くのクリスチャンミュージシャンの存在があります。彼らの楽曲もたくさん教会で歌われています。

 1970年代のアメリカでは、若者の間で一般の曲のメロディーとあまり変わらないメロディーに聖書のことばをのせて歌うようになりました。こうして、それまでにはなかった新しい礼拝のスタイルが教会に見られるようになりました。それらの歌は多くの若者たちの心をつかみ、多くの若者たちが教会に足を運ぶようになったのです。

 このような礼拝の形は、最初ペンテコステ派やカリスマ派の教会で広まっていきました。これらの賛美によって霊的な雰囲気が礼拝の中にありました。主の臨在が賛美をとおして表されていたように思われます。その中で、いやしや預言など、聖霊の賜物によるしるしと不思議のミニストリーが話題になっていたのを覚えています。これらのミニストリーの導入については賛否両論あります。これらのことは別にして、賛美を中心とした礼拝スタイルは、ペンテコステ派やカリスマ派の教会の枠を超えてさらに広がっていきました。このような賛美スタイルは、特に若い人々によって受け入れられていったのです。

 ここまでは、賛美を中心とした礼拝スタイルの肯定的な面について語ってきましたが、否定的な面についても語る必要があると思います。新しい賛美は、確かに、多くの若者たちに影響を与え、多くの若者たちを教会へと導きました。また、新しい賛美は、神様や教会の存在をより身近なものにし、親しめるものにしてくれました。また、新しい賛美による礼拝の形は、より深く霊と真をもって神様を礼拝し、心の満たしを体験するようにも導いてくれました。しかし、その反面、霊的な体験があまりにも重要視されると、かえって、聖書のことばや教えが軽んじられてしまう危うさがあったように思われます。賛美至上主義になったり、いやしや預言などの賜物至上主義になったり、御霊の賜物(いやし、奇蹟、預言など)は重んじるけれども、御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切など)を軽んじる傾向が生まれたりしたのも事実だと思います。まるで、コリント教会にあった問題が起こってしまったかのように思われます。

 賛美の働きや癒しや預言の働きがエンターテイメント化したりビジネス化したり、お金儲けの道具と化してしまったことも確かです。賛美の分野で活躍していた有名なクリスチャンたちのスキャンダルが話題になったこともよくありました。イエス様が神殿に訪れた時に、「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と言って、そこで売り買いをしていた商人たちのテーブルをひっくり返した話を思い起こします。そのような問題が現代の賛美の働きの中にも見つけることができるのです。賛美の領域は世俗的な価値観の入りやすい領域ですから、特に賛美の奉仕に携わる人にはへりくだりの態度が必要であり、この世から来るものと神様から来るものとを注意深く見分けることが必要です。

 賛美は確かに礼拝において重要な分野です。しかし、必要以上に重要視することは、かえって礼拝の妨げを生む結果になるでしょう。賛美を何曲も連続して歌うような礼拝の形は、まるでダビデの幕屋でダビデが導いた礼拝であるかのようです。しかし、讃美歌を歌うような礼拝であっても、新しい賛美を連続して歌うような礼拝であっても、私たちがほめたたえるのは、神様ご自身であり、キリストの十字架であり、そのみわざです。また、私たちが真に神様を礼拝しているのなら、私たちは行ないにおいても神様の証し人となることを望むことでしょう。

■教会によって礼拝のやり方やスタイルに違いがあります。私がアメリカに行った時に思ったことがあります。私は、カリスマ的な教会にも行きましたし、バプテスト教会にも行きました。カリスマ的な教会で捧げられている礼拝とバプテスト教会で捧げられている礼拝には、正直、同じアメリカ人なのにこんなにも違うんだ、と感じました。でも、その違いは小さなことにすぎません。

 どんな礼拝でも私たちの心の態度が主のみ前にひれ伏すことがなければ、それは礼拝ではありません。なぜならば、礼拝とは「ひれ伏すこと」だからです。自分を低くすることによって、神様の祝福が私たちに豊かに流れてくるのです。イザヤ57:15にはこのように書かれています。「わたしは高く聖なるところに住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」へりくだる者とともに神様はおられます。神様がともにおられることが、私たちにとって祝福を意味します。ダビデの幕屋が意味することは、何よりも主が私たちの間に住まわれることを意味します。神様は心砕かれ、へりくだった人とともに住んでくださいます。けっして、礼拝の形やスタイルに住むわけではないのです。それでは、お祈りします。