いつまでも残るものは

2023年8月13日召天者記念礼拝「いつまでも残るものは」Ⅰコリント13:10~13 佐々木俊一牧師

■伝道者の書(コヘレトの言葉)3:11にこんなことばがあります。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」この中で、私が注目するのは、「神は人の心に永遠への思いを与えられた」ということです。 

 「永遠」ということばの定義は、「時の長く果てしないこと。時間的に無限に続くこと。またそのさま。」とあります。人は永遠をイメージすることはできますが、体験することはできません。神が行われるみわざを、初めから終わりまですべてを見ることのできる人は一人としていません。見ることができたとしても、100年でしょう。人の命には限りがあるのです。

 多くの日本人は、この地上の命には限りがあるけれども、死んで終わりではない、と考えています。漠然とではありますが、永遠への思いがあるように思います。はっきりした根拠があるわけではありません。なんとなくそう思っている人が多いように思います。それは、自分の存在が肉体の死で終わるのはあまりにも理不尽で、納得のいかない気持ちの表れなのかもしれません。このような思いは、日本人に限らず、世界中の人々に共通してある思いではないかと思います。

創世記を読むと、初めから人は死ぬ者として造られていたのではないことがわかります。もともと死ぬべき者として人は造られていないのですから、永遠への思いがあって当然とも考えられます。人の存在のしくみの中に罪の影響が入ってから、人は、自分や愛する者の病や死に遭遇すると、無力感と絶望感とに悩まされてきました。

 しかし、神は、その死の問題について、イエス・キリストによって解決の道を与えてくださいました。イエス・キリストは、人にとって希望の光となりました。私たちはその知識を、聖書の中に見出すことができます。ある人々にとっては、その情報は不十分に思われるかもしれません。確かに、聖書に表わされた神の啓示は、希望の全容をすべて明らかにしているわけではありません。12節にあるように、ぼんやりと映るものを見ている状態なのだと思います。私たちは、すべてを知ったので信じたのではありません。一部だけしか知らないけれども、しかし、それでも信じたのです。信仰とは、100パーセントわかって信じることではなくて、わからないことがあるけれども、それでも、信じることを選択することなのです。今は、ぼんやりとしか見えていないことでも、時が来たのなら、顔と顔とを合わせてはっきりと見ることになります。完全にわかる時が来るのです。

■10節に、「完全なるものが現れたら、不完全なものはすたれます」とあります。完全なるものとは何でしょうか。完全なるものとは、「聖書」と解釈する人もいますし、「イエス・キリスト」と解釈する人もいます。私は、イエス・キリストと解釈してお話を進めていきたいと思います。

 イエス・キリストが現れたら、知識も能力も賜物もすたれます。イエス・キリストが現れた以上、イエス・キリストを知るための知識も能力も賜物も必要がなくなるのです。いつかイエス・キリストと顔と顔とを合わせてお会いする時が来ます。それは、個人の死を通してなのか、イエス・キリストが再びこの地上に来られる時を通してなのか、それは私たちにはわかりません。どちらにしても私たちは、イエス様と顔と顔とを合わせてお会いする時が来るのだと、聖書は言っています。

■13節 コリントの教会では、知識や能力や賜物を重要視するあまり、それが人々への評価につながっていた傾向があったように思われます。しかし、イエス・キリストが現れたのなら、知識も能力も賜物もすたれます。イエス・キリストが現れた以上、イエス・キリストを知るための知識も能力も賜物も必要がなくなるからです。

 「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛ですと聖書にあります。神の国においては、この地上で大切にしていた知識、情報、能力、名誉、お金は役に立ちません。人は裸で生まれ、裸で神のもとに帰るのですから、結局のところ、地上で蓄えた宝物を一緒に持って行くことはできないのです。大切なのは、信仰と希望と愛です。私たちは、この地上にいる時も、いつまでも残る、信仰と希望と愛に生きるように導かれています。

■ピリピ3:20~21に、「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」とあります。

 私たちの国籍は天にあります。ですから、私たちは、日本人、アメリカ人、カナダ人である前に天国人です。天国人が大切にするものは、信仰と希望と愛です。私たちがこの地上にいるときも、天国人として生きることができます。信仰と希望と愛を大切にして生きるのです。

 いつまでも残るものは、この世の楽しみでもなく、この世の成功でもありません。いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。そして、キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるという約束を私たちは受けています。

 今日は召天者記念礼拝です。先に天の御国に旅立った愛する兄弟姉妹の写真がテーブルの上に並んでいます。そのお一人お一人の霊は、いま、天にあってイエス様の御側で、平安に過ごしておられると信じます。主イエス・キリストのみ救いのゆえに、いつか必ず復活の体をいただいて、顔と顔とを合わせて再会できるその日が来ることを、私たちの希望として今覚えたいと思います。それではお祈りします。