イエスが称賛した人々:ローマの100人隊長の場合

2023年7月16日英語礼拝

 

ルカによる福音書7章1-10節

 

イエスが賞賛した人々:ローマの100人隊長の場合

 

 ここオープンドアとオンラインで出席されている皆さん。こんにちは。

 

 先週、私は突然のバス事故で亡くなった友人の追悼式に行ってきました。その友人は、北星学園大学キャンパスの近くにある「カフェ・コーエン」というところで英語を教えていた日本人女性で、そこでは毎週礼拝も捧げられています。皆さんもその事故についてニュースで聞いていらっしゃるかもしれません。彼女を追悼するために集まった人々には、プラスチックファイルに入った美しく印刷されたクォーテーション(注:格言等が引用されプレート等に書かれたもの)が渡されました。それは私のお気に入りの作家の一人、ダラス・ウィラードの言葉でした。「人生で最も重要なことは、何をするかではなく、どのような人になるかです。」と書かれています。そして彼は「それこそがあなたが永遠に至るまで持っていけるものです。」と付け加えています。

 

 人生において学ぶすべてのことの中で、真に私たちに留まり続ける(残る)のは私たちの人格です。それはどのようなことなのでしょうか? 

 

 ダラス・ウィラードは、

 

  「人格は内面的なもので、私たちの長期的な行動パターンによって明らかになる全

   体構造です。私たちの行動が大体自動的に生じるのは、私たちの人格によるもの

   です。神があなたの人生から得るものは、あなたがなる人です。それはまた、あな

          たや他の人も得るものです。」

   と言っています。

 

  それを念頭に置いて、私は最近、聖書の中でイエス様がご自身についての話の中で賞賛された人々を見ることに興味を持ちました。私の友人のように、この世での命がいつ終わるかは誰にもわかりません。聖書の神様は、私たちが神様を父とする関係を持って生きることを始めるとき、私たちは天国に家を持つと教えておられます。ですから、私たちが前進し続ける時の助けとなる大きなビジョンと希望は、いつの日か、マタイの25章21節のイエス様の物語の中で、「主人」が話すことを神様が私たちに言ってくださるという約束です。「よくやった、良い忠実なしもべだ!  お前は忠実だった. . . .」、「主人の祝宴に入りなさい!」わたしたちの天のお父様がその家に迎えてくださる時に、良い人格を持ち、永遠に共に生きる用意がしっかり出来ている人間でありたいです。

 

 それは生きる価値のある希望です。キリストの教えを受け入れるなら、強い人格を持つ人になることを優先するのは理にかなっています。私たちがそうすることの助けとなる一つのことは、キリストが賞賛する人々を見ることです。イエス様は、ご自分に従ってくる者たちに指したいと思われる事柄を、そのような人の中に特別なこととして見ておられます。イエス様は私たちがこれらの特別な方法で彼らのような人に成長することを望んでおられます。ですから、私は皆さんとご一緒にこれらの人々の新約聖書の物語のいくつかから、人格形成という私たちの終わりのない探求に役立ちそして学べることを見ていきたいと思います。

 

 私たちが最初に出会うのは(2節)「ローマの100人隊長」です。今日の物語は、「イエスは人々にこれらすべてのことを言い終えた」から始まり、それからカペナウムに入ります。ローマの100人隊長は、イエスがちょうど教えてこられたことの一つの例です(ルカ6章43-44節)。つまり、「良い木は悪い実を結ばない。そして、悪い木は良い実を結ばない。木はそれぞれの、その実でわかる。」です。

 

 イエス様がおられた国の人々にとっては、驚くことではないのですが、ローマの100人隊長は悪い人だと考える傾向がありました。結局のところ、彼らはパレスチナ(今日のイスラエル)を支配し、その人々にローマの支配下で生きることを強制していました。しかし、イエス様はこの物語にもっと多くのことがあったことを彼らに伝えておられます。あなたが悪いと思う人でさえ、その生涯において、神様の存在と御業の顕著な兆候を持っているかもしれません。実が良ければ、木が悪いと判断する前にもう一度考えてください。あなたが注意を払い、オープンでい続けるなら、あなたは主がその人を用いてあなたが知る必要のあるいくつかのことを教えてくださるのを見つけるかもしれません。ローマの100人隊長を通して、イエス様は、ご自分の国に住む人々がイエス様が言われたように生きるのならば、自分たちを豊かにし高揚させることのできる信仰を示されるのです。

 

同様に、イエス様は次のことを言い終えました(ルカ6章47-48節)。

 

 「私のもとに来て、私の言葉を聞いて行う者が皆、どんな人に似ているかを示そう。そ

  れは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて家を立てる人に似ている。洪水に 

  なって水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、びくともしなかっ

  た。」

 

 ローマの100人隊長はそのような人のようです。彼のしもべの病気という形で災害が彼の私生活に近づいていますが、彼はどこに助けを求めるべきか知っています。キリストと共にいることで、彼はトラブルに対処する上で確固たる立場にあることを知っています。彼は、私たちがこの特定の方法で大きな恩恵をもたらすことができるように目指すべき人の例です。

 

 さて、多くの人がそうであるように、皆さんもこの物語に問題を見出すかもしれません。ローマの100人隊長はパレスチナで何をしていますか? 今言ったように、彼はローマ人がユダヤ人を支配するのを助けています。彼は抑圧者の被抑圧者に対するシステムの一部です。だから、彼を賞賛することは、イエス様は、ある国が別の国の人々の自由を奪い取り支配しても大丈夫と思っておられることを意味するのでしょうか?

 

 いいえ、全くそのようなことはありません。実際、十分な数の人々がこのローマの100人隊長のようになったとしたら、遅かれ早かれ強力な国は弱い国を抑圧するのをやめるだろうと皆さんも正直に言えると思います。パックス・ロマーナの強制された平和だけでなく、真の平和が現実のものになるでしょう。自由と正義が君臨するでしょう。これらは明らかに聖書の神様が望んでおられるものです。

 

 しかし私たちは、暴力的な革命がそのような世界への道であるとイエス様が教えられているとは見ていません。例えば、イエス様は、ご自分の国の人々がローマの100人隊長を殺し、その軍隊をパレスチナから追い出すことに与しません。キリストは明らかに革命を始めておられますが、それは心の中で始まるものです。それは人々が導入した抑圧的な政治システムを弱体化させ、最終的には置き換えることになるでしょう。しかし、平和と愛の神はご自分の時と方法で、それを行われます。

 

 私たちは今日、ルカの福音書7章でこの物語を読みました。そこでは100人隊長はユダヤ人コミュニティから長老たちをイエス様に送り、彼らが隊長のために話をします。しかし、マタイの福音書8章5〜13節には別の説明があり、100人隊長は自ら出向いてイエス様に直接話しかけています。(この人たちとイエスの間にあったやりとりの中で両方が起こったという可能性もあります。)いずれにしても物語の詳細は異なりますが、両福音書が提示するメッセージには統一性があります。

 

 ルカは私たちに(2節)、「. . . . ローマの100人隊長のしもべが病気で死にかけていた」と言います。イエス様は「しもべ」を持つ人を賞賛しておられるのでしょうか?  この物語のほぼ全体を通して使われているこの言葉は、「奴隷」と同じ意味です。私たちの主は、奴隷を所有している誰かをロールモデルとして持ち上げて支持しておられるのでしょうか?

 

 もちろん、イエスはそうされている可能性が大いにありますが、私たちは誤解しないように注意する必要があります。これは、人々が聖書を読む際によく犯す間違いです。物語の中のキャラクターが何かをするからといって、神がそのことを正しいか良いか、または神の意志であると教えているという意味では決してありません。聖書全体の物語は、神のお一人が罪深く、傷ついている人間ー悩み、弱点、自己中心、その他すべてことの只中にあるーのもとに来られ、神ご自身の御もとに戻すために辛抱強く働いてくださるということです。アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、ソロモンのような聖書の物語の最も名誉ある多くの人々でさえ、時に恐ろしい決定を下してしまうのです。

 

 例えば、一夫多妻制は聖書の物語の大きな部分を通して一般的でありますが、その男性が複数の女性と結婚するとき、それはしばしば家族関係の大きな悲しみにつながります。しかし、神様は彼らと話したり、その類のことに先んじて、彼らにそれを止めるようには強制されません。神様はそれがOKだとは言いませんが、神様には他の優先事項があるようです。

 

 神様は、私たちがいるそのことろに来てくださいます。それは私たちが傷つき、愚かな状態である時をも含みます。そして私たちをより良い場所に導くために働かれます。神様は人々の生活の中でそのようになされます。それはローマの100人隊長や私たちの物語の中でも同様です。その真実は、私たちが、自身の生活や文化の一部であり続ける根深い不正に対処しようとするとき、私たちに希望とガイダンスを与えることができます。

 

 マタイのバージョンによるこの物語では、このしもべ、もしくは奴隷が抱えている問題をもう少し明確に把握することができます。彼が家で横たわっていて動けないと描写しています。「彼はひどく苦しんでいる」(8章6節)。のです。私たちが「苦しむ」と翻訳するオリジナルの動詞は、時々、テストするという意味を持っています。例えば、試金石を使用した金属試験について話すために用いられます。ブラックロックを試金石として金をこすると、特定の種類の跡が残ります。それが純粋な金でなければ、たとえそのように見えるとしても、その痕跡は残りません。同様に、私たちが苦しむ時間は、私たちの内側にある本当のものについて多くのことを語ってくれます。この同じ単語は、苦労して奮闘していることを話す時に使われています。例えば、強い向かい風に逆らって前進しようとしている船員などのことです。黙示録12章2節では、出産の痛みの中の女性を記述するために使われています。皆さんの中にはそれがどのような感じかご存知の方もおられるでしょう。皆さんが人生における困難の時について考えるとき、イエス様のこの物語でこのしもべが有していた感情の何かを理解することができると思います。神様は十分に、かつ完全に、そして常に働かれます。それはイエス様のメッセージの一部です。神様はただ御国に座っておられ、そのような時が来たら私たちのことを忘れてしまうお方ではありません。キリストにあって、神様は私たちを助けるために来らます。神様はより頼むに十分なお方です。

 

 ルカは6節で続けます。「それで、イエスは彼らと一緒に行かれた。」「. . .イエスは家の近くまで来られた. . . 。」 物語のこの部分は私の心に響きます。キリストは、ご自身の一日を過ごされる間に持ち上がる状況に忙しくて対処できないということはありません。100人隊長にもっと都合の良い時間に会おうとは言われません。彼は邪魔されることをいとわないのです。これが「教えのチャンス」であることを見て、それを巧みに使われます。

 

 神学校の教授が彼の学生について語った一つのコメントが、何故か私の記憶に残っています。彼は「学生たちがキャンパスを横切って歩いているのを見ていると、彼らはとても深刻に見えるのです。彼らは目の前にある次の課題を達成することに集中しすぎて、良いことをすることから逃げているように思うのです。彼らは神が彼らに語っていることを見逃すかもしれないと思います。」

 

 あなたが神様に仕えようとしても、忙しすぎて神様に耳を傾けないなら、問題があると思います。それは現代の日本文化の中で生活しようとする私にとって、絶え間のないの苦労の一つです。常により多くの為すべき仕事が待っているようなのです。しかし、神様は話すことができるお方です。スケジュールが多くある場合でも、あなたが心を開く時、神様はあなたに信仰の次のステップを踏み出す方法に耳を傾け、理解するのに十分な時間と能力を与えられます。主に感謝します。今日の話が私たちには時間の忠実な管理の模範となりますから。

 

 イエス様は100人隊長の要望する仕方をお聞きになり、答えられます。(ルカ7章9節)、「あなたがたに言っておきます、イスラエルでさえ、これほどの信仰を持つ人はいません。」 イエス様がご自分の国の人々に話されていること覚えておく必要があります。彼らは神の選ばれた人々だとイエス様も深く信じておられます。実際、マタイの福音書15章24節で、イエス様は「私はイスラエルの人々にだけに遣わされた」と言っておられるのを読みました。ここでも、イエス様は神様がご自分の与えられた特定の御業に焦点を当てておられるようです。イエス様は、この世界での限られた時間で何を為すかについて、ご自分の優先順位を持っておられます。ユダヤの民に焦点を当てることになっているということです。

 

 しかし、これが永久的に続くと考えるのは大きな間違いです。マタイバージョンの物語(8章11節)では、イエス様は次のように述べておられます。「. . . 東と西から大勢の人が来て天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く。」

 

 これは本質的に、ヨハネが黙示録5章9〜10節で説明しているのと同じビジョンです。それは終わりの時に神に歌われる「新しい歌」の一節です。「. . . あなたのその血により、神のためにあらゆる部族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から人々を贖い、彼らを私たちの神に仕える御国の民になさったからです。」

 

 それは、イエス・キリストの福音が私たちに提示する良いニュース、素晴らしいニュースです。しかし、私たちがそれを受け取り、それが私たちの生活を形作り、力を与えるようにすることだけが、私たちにとって本当に良いことです。マタイ8章12節は警告を伴って続きます。「しかし、御国に属していると思う子らは外の暗闇に投げ込まれます。そこで彼らは泣き喚いて、歯ぎしりするだろう。」 キリストにある救いの賜贈は、すべての人々に平等に用意されていますが、私たちが本当にそれを必要としないと判断し、別の方向に行くと判断すれば、私たちはそれを逃してしまうでしょう。だから、私たちには神様の命の申し出に応える機会とともに責任があります。

 

 イエス様とローマの100人隊長の物語を要約すると、私たちはここで、キリストが強い信仰を伴う人格を伸ばし成長させることを優先事項にするよう望まれていることを学びます。マタイ8章13節のこの男へのイエス様の言葉は、今日も私たちへのイエス様のメッセージとして受け取ることができるものです。

 「行きなさい。あなたが信じていたとおりになるように。」

 

 ですから、今、100人隊長がイエス様の時代に行った単純な信頼と期待する心で、私たちの特定の必要を持って神様に近づけるよう助けていただきましょう。

 

 主よ、このローマ人のように、私たちは今あなたのところに行き、私たちの必要を単純な信仰であなたの手に置く準備ができています。私たちは完璧から遠く離れていて、壊れた罪深い世界に住んでいることを知っています。しかし、あなたの愛は私たちのすべての欠点や限界よりも大きいです。あなたの言葉は権威の言葉です。あなたにこそ、私たちの身体、心、精神が受けた損傷から完全に戻る必要のあるすべてを癒し、回復する力があります。私たち自身の生活だけでなく、私たちの周りの多くの人々にも、苦しみと悲しみがあります。あなたの救いがもたらされますように。あなたの癒しがもたらされますように。あなたの命をもたらしてください、そしてあなたが恵みと慈悲で選択したすべての方法で私たちをあなたの命で満たしてください。キリストの力強い御名において願います。アーメン。

 

参考

 

Willard, D. Gaultiere, (2022). W. Soulshepherding. Dallas Willard’s Definitions and Quotes. Retrieved July 9, 2023 from https://www.soulshepherding.org/dallas-willards-definitions/

 

Willard, D. (n.d.). Dallas Willard Quotes. Retrieved July 9, 2023 from https://www.   azquotes.com/author/15666-Dallas_Willard