神の恵みを本当に理解する!

2023年6月25日主日礼拝「神の恵みを本当に理解する!」コロサイ1:6 佐々木俊一牧師

「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」(コロサイ1:6)             

■コロサイという町は、トルコ南西部にありました。現在のパムッカレという世界遺産のあるところから南へ少しくだったところです。コロサイにあった教会はパウロが行って直接始めた教会ではありません。パウロの同労者であるエパフラスが始めた教会であると言われています。ここは、ピレモンへの手紙のピレモンや、その手紙に出てくるオネシモもいたところです。コロサイ4:13を見ると、そこには、ラオデキヤとヒエラポリスという町の名前が出て来ます。そこも教会のあった町です。コロサイと同様に、パムッカレの近くにありました。トルコにはローマ帝国時代、教会がたくさんありました。その時代の遺跡が至るところにあります。

■ローマ帝国時代、今からおよそ2000年前、トルコにはユダヤ人もギリシャ人もたくさん住んでいました。初代教会時代においては、トルコはアルテミスの女神をはじめとして、数多くの偶像があったところです。そのような環境の中にあっても、クリスチャンの数が増えていきました。偶像の影響を受けて生きていた人々にとって、福音はどのように聞こえたのでしょうか。特に、アルテミスの女神は、人々の思い入れが強く、多額の富を産み出すビジネスの手段でもありました。ご利益宗教として人々の熱心な信仰の対象であり、その祭りに関わる刺激的な楽しみと満足によって多くの支持を得ていました。

 人は、ある商品について、それが本当に役に立つものであり、必要なものであると納得するならば、どんなに高いお金を払ってでも手に入れようとするでしょう。当時、偶像礼拝が当たり前の世の中で生きていた人々の中から、かなりの多くの人々が福音を聞いて受け入れました。それは、彼らが聞いた福音が、彼らにとって本当に必要なものであると理解したので、受け入れたのです。それでは、現代に生きる私たちは、福音をどのように理解しているのでしょうか。私たちは、福音が本当に必要なものであると納得しているでしょうか。考えてみたいと思います。

■ところで、みなさんは、ローマ書を今までに何度読まれたでしょうか。1章から16章までありますが、その中には何が書かれていたでしょうか。ちょっと思い出してみてください。

ローマ書には、義(正しさ)についてしつこいほどに述べられています。律法(規則)を守ることによる義と、信仰による義が対比されています。ローマ書の中心テーマはイエス・キリストを信じる信仰による義です。イエス・キリストを信じる信仰による義とは、福音の核となる部分です。神様からの良い知らせ、ゴスペルの一番大切な部分です。

 福音とはどういうものかについて知るためには、ローマ書を読めばだいたいわかります。ローマ書を読むときには、パウロが言いたいことは何なのかを所々で整理したほうが、クリアにとらえることができると思います。ただ読むだけでは、漠然としかとらえられない結果になってしまうと思います。なぜなら、あまりにもはっきり言ってしまうと、かえって、誤解を招くことになるので、パウロはそうならないようにはっきり言っていないところがあるように思うからです。

たとえば、はっきり言ってしまうとどのような誤解が生じるかと言うと、一つに、イエス・キリストを信じたら、罪を犯すのは自由。清く生きようなんて考えなくてもいい。どんどん罪を犯しても大丈夫。なぜなら、イエス・キリストがそのために十字架で死んでくれたのだからというものです。何となく正しいようにも聞こえますが、ここまではっきり言ってしまうと、神様の意図するところから離れてしまうように思います。

 次に、イエス・キリストを信じたならば、信じる前に犯してしまった罪は赦されるけれども、信じた後に犯してしまう罪は赦されない。だから、信じた後に罪を犯してはいけないというものです。これはどうでしょうか。これを福音と言えるでしょうか。これだと、私はまったくアウトです。けれども、本当は、イエス様は私たちのすべての罪、過去・現在・未来のすべての罪の代価を支払うために十字架に架けられて死んでくださったのです。このような誤解は、初代教会の時代にも、今の時代にもあります。パウロが福音を正しく理解できるように聖霊の導きを受けて書いたローマ書を、私たちも聖霊の助けを求めつつ、できる限り正しく理解して行きましょう。

ローマ書を読んではっきりとわかることは、義人(正しい人)は一人もいないということです。当時、律法(規則)を守って、正しい人だと認められようとしている人々がいました。彼らは、自分たちのことを正しい人だと思っていたようです。これはまったく自己欺瞞の何ものでもありません。聖書はどんなに頑張っても神様の目に正しい人など一人もいないと言っているのです。残念ながら、すべての人は罪人なのです。

 しかし、そう言われると納得のいかない人がいると思います。自分は法律を破ったこともないし、警察に捕まったこともないのに、どうして、罪人と言われなければならないのかわからない、と言う人が必ずいます。けれども、たとえば、心の中である人のことを嫌いだと思ったり、憎いと思ったり、恨んだり、いなければいいのに、死んでしまえばいいのにと思ってしまうことは、そんなに珍しいことではありません。私も過去にありますから。心で思うだけなら咎められることはないでしょう。でも、思っていることを実際に行動で表してしまうならば、処罰されます。イエス様は心に思うだけで、それは罪だと言われました。それは、つまり、すべての人が罪を犯しているのだと言うことです。義人は一人もいません。自分の力で義人になろうとしても無理なことです。神様は、神様が与えた救い主を信じ、その信仰によって義人となるように招いています。

 人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている、と聖書にあります。いつか必ず、私たちの地上での行いが問われる日が来るのです。そして、義人は神のみ国へと招かれています。はたして自分は義人と言えるのだろうか。とても不安です。でも大丈夫です。その罪を消すことが出来るお方がおられます。それは、ただお一人、イエス・キリストです。イエス・キリストを救い主と信じたならば、その人は聖霊を受けます。聖霊が救いのしるし、神様の約束を受けたしるしなのです。その人はいつ死んでも大丈夫です。確実に神のみ国に行きます。

また、こんな誤解があります。イエス・キリストを信じると、もう罪を犯さなくなるという誤解です。半分くらいは本当かもしれませんが、まったく本当だとは言えません。実は、私も同じような誤解をしていたことがありました。イエス・キリストを信じてバプテスマを受けたら、もうそれからは、罪を犯さなくなると思っていました。しかし、その後も、罪深い思いや欲が自分の内側に起こることに直面し、真剣に悩みました。相談したくても、本当の自分をさらけ出すことが怖くて恥ずかしくて誰にも言えませんでした。徐々に喜びは失せて、ただクリスチャンを演じているような日々がしばらく続きました。

 クリスチャンは信仰による義人ですが、それでも、罪を犯します。心の中だけならまだいいのですが、心で思っていることを実際に行なってしまうことがあるのです。旧約聖書にダビデという王様がいました。彼は、新約時代における、クリスチャンと神様の親しい関係を預言的に表している人物です。ダビデは神の選びと恵みによってイスラエルの王様になりました。そんなダビデでしたが、大きな罪を犯してしまいました。殺人罪と姦淫の罪です。部下のウリヤの妻との関係を隠蔽するために、ウリヤを戦死に見せかけるための偽装を計り、実行させました。うまくいったかに見えましたが、しかし、神の予見者ナタンによって、その罪は暴露されました。ダビデはその罪をいさぎよく認めました。そして、赦されはしました。しかし、その後の彼の人生は、その罪の結果を刈り取ることによって、非常に辛いところを通らなければならなかったのです。詩篇に、ダビデが必死になって、「神様、私から聖霊を取り去らないでください。」と懇願している箇所があります。これほどまでに、ダビデが神様に「聖霊を取り去らないでください。」と祈ったのは、聖霊が救いの保証だからです。このように、クリスチャンであっても、罪を犯してしまう可能性があるのです。ダビデのように、「神様、私から聖霊を取り去らないでください。」と祈らなければならないほどに、自分を罪の方へ追いやらないように私たちは気をつけたいものです。

 また、パウロでさえ、自分のしていることがわかりませんと言っているくらいです。なぜなら、自分がしたいと思っていることをしているのではなく、自分がしてはいけないと思っていることをしてしまうからだと言っています。罪はいけないとわかっているのにもかかわらず、やってしまう自分がいることにパウロは気づかされていました。もしも、自分がしたくないことをしているのだとしたら、それを行なっているのは、もはや、自分ではなくて、自分の内に住む罪なのだと、パウロは言っています。そして、こう結論づけています。「こういうわけで、キリスト・イエスにある者が罪に定められることはけっしてありません。」と。

■以前、ストーキングのことがよく話題になっていたことがありました。今はどうかわかりませんが、その時は、年々、犠牲者が増えているようでした。あるテレビ番組で、ストーカーの逮捕歴のある人がカウンセリングを受けているドキュメンタリー番組が放映されていました。ストーキングする人の心理、どうしても抑えられない衝動があります。自分でその気持ちをコントロールすることができません。自分の気持ちをコントロールできるようにカウンセリングを受け始めたのですが、カウンセラー自身がストーキングされている心理に陥るほどの状態になってしまいました。そうこうしているうちに、カウンセラーは、この男性の場合、ストーキングの原因が子どもの頃の体験にあるのではないかと推測し、母親との関係に注目しました。彼は、母親からいつも、お前はダメなやつだと言われて育てられたようです。そこに問題があると考えたカウンセラーは、その記憶をたどって男性をカウンセリングしました。彼は、非常に興奮し、怒りをあらわにし、そして、その気持ちを泣きながら吐き出しました。その後、男性は少しずつですが、自分の気持ちをコントロールできるようになっていきました。子どもの頃の愛の欠乏は、大人になると、いろいろな罪の症状として現れてきます。ストーカーは加害者ですが、この点で被害者とも言えます。自分の意志によるのではなく、親によって知らぬうちにそうなってしまったところがあるからです。

 虐待も同じです。家系的な負の連鎖があります。虐待を受けて育った子どもが大人になって親になると、結局同じように自分の子どもを虐待してしまうことが少なくありません。虐待が親から子へと家系の中で連鎖して行なわれるのです。罪には、そうなりたくてなったものではない部分を含んでいます。罪の連鎖の中で身に着けてしまうものです。それをどこかで断ち切るためには、罪を罪として認識し、やめたいと願うことです。自分の力だけでは無理です。教会においても、社会においても、互いに重荷を負い合うことが必要なのです。

■福音について私たちが知っておいた方がよい3つの恵みについて言いたいと思います。

①私たちはもう罪を犯さなくてもよいということです。ローマ8:12にあるように、私たちは、罪に従って生きる責任から自由にされている者です。また、将来に備えられている新しい自分はもはや完全に罪を犯さない自分なのですから、この地上においてそんな罪を犯さない自分を始めてもよいのです。そんな心構えでいるのがよいかと思います。

②もしも、クリスチャンが罪を犯してしまったときには、すでにその償いを救い主イエス・キリストがしてくださっているということです。父なる神の愛は変わることがありません。神が父であることに変わりがありませんし、私たちが神の子であることには変わりがありません。すべてはイエス様のおかげです。主のみ名をほめたたえましょう。

③私たちは自分の力によるのではなくて、御霊によって、神のみ国を相続する者にふさわしい者へと、現在変えられているところです。

 これらのことが、神様の恵みの中にあって進んでいることなのです。私たちはいつか必ずこの地上を去り、私たちを造られた神様の前に立つ日がやって来ます。その時まで、わたしたちは、神様の恵みの中を歩き続けるのです。あるいは、もしかしたら、私たちがこの地上を去る前にイエス様が来られるかもしれません。その場合は、その時まで、わたしたちは、神様の恵みの中を歩き続けるのです。福音は私たちに希望を与えてくれます。その希望はこの地上だけではなくて神のみ国までずっと続く希望です。私たちより先にこの地上を去って行った多くの人々がいます。いつか必ずその人々とも会う機会があるでしょう。それはけっして夢物語ではなくて、将来、現実に起こることなのです。福音が、私たちの将来にどんなに大きな希望を与えるものかを理解する必要があります。その希望はすべてイエス様のおかげです。イエス様が十字架で死んで、そして、死に勝利して復活したので、その希望が私たちに与えられました。

 コロサイ1:6に、神の恵みを本当に理解した時以来、勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています、とあります。私たちは、神の恵みの中にいます。神の恵みの中にあるならば、その恵みを無駄にしないようにしましょう。どうしたらよいでしょうか。私たちは、私たちの行動とことばによって、キリストを証しする者として生きることを、今日、再度決心しましょう。いつもうまくいくわけではありません。道から外れることもあるでしょう。その時は、先ほど言った神様の3つの恵みを思い起こしてください。そして、福音についてたずねられた時には、いつでも説明できるように備えておきましょう。それではお祈りします。