霊的戦いと私たちの武具

2023年6月11日主日礼拝

「霊的戦いと私たちの武具」エペソ6:10~18佐々木俊一牧師

■エペソ6章では、よく神の武具についてお話しすることがあるかと思います。教会学校ではこのような画像を使ったのを覚えているでしょうか。昔風のと今風のと、両方の画像を用意しました。

 また、格闘シーンではダビデとゴリアテの戦いがよく知られたお話です。みなさんもご存知かと思います。ペリシテ人の大男、ゴリアテに勝てる人物はイスラエルには誰もいませんでした。そこへまったくの新人ダビデが突如現れて、ゴリアテと一対一の命を賭けた真剣勝負に挑むことになったわけです。最初、ダビデはサウル王からもらった武具を身に着けるのですが、羊飼いの少年であるダビデにとってはあまりにも大きくて身動きが取れませんでした。なので、立派な武具は脱ぎ捨てて、彼がいつも使っている唯一の武具である石投げと石ころを五つ拾って立ち向かいました。この絵のように。そして、勝利したんです。

 この話をとおして、神様というお方が、戦争や紛争を奨励しているのではありません。目に見えない世界、霊的な事柄について述べているのだということをわかっていただきたいと思います。興味深いことに、この戦いの場所となったエラの谷の「エラ」の意味は、「強い木」という意味です。そして、「ゴリヤテ」の意味は、「追放された者」という意味です。みなさんは何を連想されるでしょうか。聖書では、「ダビデ」という人をとおして、イエス・キリストや救いのことについて表わしていることを考えると、「エラ」や「ゴリヤテ」ということばの意味が、私たちにインスピレーションを与えてくれるのではないかと思います。「エラ」は強い木、何のことだと思いますか。イエス・キリストが架けられた十字架です。十字架での出来事は、一見、弱さと敗北にしか見えませんが、しかし、それは、神の強さと勝利なのです。そして、「ゴリヤテ」は追放された者、何のことだと思いますか。サタン(悪魔)の象徴です。サタンは天から追放されました。創世記3:15bに、「彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」とあります。ここに、「おまえの頭を打ち」、とあるように、そして、また、ダビデがゴリアテの額に一発の小石で致命傷を与えて勝利したように、イエス・キリストの十字架のみわざは、サタンに対し致命傷を与えて、圧倒的な勝利をもたらしました。

 目に見える世界と目に見えない世界があります。そのことを覚えつつ、エペソ6:10~18を見て行きたいと思います。

■10節 「終りに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」

 手紙の最後に語られることは、だいたい重要なことです。10節以降の事は私たちの信仰生活や教会生活において本当に大切なことなのだと思います。

 「強められなさい」とは、強くありなさい、と言うことです。「Be strong!」です。英語の方が力強く感じます。「大能の力」とは、「全能なる神の力」です。「Mighty power」です。英語の方が力強いです。主にあって、強くありなさい。全能なる神の力にあって、強くありなさい。このようにパウロは言っています。主にあって、そして、全能なる神の力にあって私たちは強くあることが出来るのです。具体的にどうすればよいのかについては、またあとでお話したいと思います。

■11節 「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなさい。」

 みなさん、悪魔っていると思いますか。日本人の多くは、悪魔っていうのは架空の存在、人間の想像力が産み出したもの、というふうに考えています。クリスチャンでも、悪魔っていうのは私たちの心の中にある悪い思いとか悪い考えの事を言っているのだ、と考えておられる方々もいます。けれども、聖書は神様からの啓示であると信じているのなら、悪魔は存在すると言う結論に至ると思います。旧約聖書にも新約聖書にも、その存在が明確に書かれています。そして、何よりも、神の御子なるイエス・キリストご自身が悪魔の存在について語っています。悪魔は霊的な存在です。それゆえに、私たちの目で確認できるものではありません。私たちはただ、聖書のことばを通して悪魔の存在を知ることが出来るのです。

 神様が過去から現在、そして、未来においてもこの世界で働かれるように、悪魔も過去から現在、そして、未来においてもこの世界で働いているのです。神様の目的は、大きく分けて二つあります。一つは、人々を救い、神の御国へと導くことです。もう一つは、悪魔を裁くことです。ヨハネの黙示録20章に将来起こるであろう、悪魔への裁きについて書かれてあります。その時に、悪魔は福音の招きに従わなかった人々をも道連れにするために必死になって神様の計画を邪魔しようとしています。悪魔の目的は、ただ、神様の救いの計画を妨げることなのです。そのために、悪魔は策略を練って、できる限り多くの人々をキリストの救いから引き離そうと働いています。その働きは、20世紀よりも21世紀の方が強まっていると言ってよいでしょう。聖書によると、悪魔は狡猾で、人間よりもはるかに賢く、知恵に富んでいます。もちろん、神様にはまったくかないません。しかし、悪魔の策略に対して堅く立つことが出来るように、私たちは対策をしておかなければなりません。その対策とはどのようなものなのでしょうか。それが、神のすべての武具を身に着ける、と言うことなのです。

■12節 「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」

 「私たちの格闘は血肉に対するものではない」とは、どういうことでしょうか。私たちが戦っている相手は、目に見える人間ではない、と言うことです。確かに、目に見える人間を通して物事は動いているように見えます。しかし、私たちが本当に戦う相手は人間ではないと言っているのです。それでは、私たちが戦うべき相手は誰だと言っているのでしょうか。それは、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊である、と言っています。それらは、世界中のいたるところで、人間のいるとこならどこででも存在し、働らき、人々に影響を与えているのです。

 私たちの間に、もしも、トラブルが生じた時には、私たちがこのことをわかっているならば、その影響を最小限にとどめることが出来ると思います。暗闇の世界の支配者たち、そして、天上にいる悪霊たちは、ハゲタカのように、トラブルの臭いを嗅ぎつけて集まってきます。そして、そのトラブルを増幅させてもっと大きなトラブルへと発展させる知恵が彼らにはあるのです。私たちはそのことを覚えて、私たち自身の言動をコントロールする必要があるかもしれません。私たちは家庭においても、教会においても、職場においても、どこにおいても、トラブルが生じるならば、戦う相手を正確に見定める必要があります。私たちの戦う相手は目に見える人間ではなく、目に見えない霊的な存在なのです。

■13節 「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことが出来るように、神のすべての武具を身につけなさい。」

 今の時代はクリスチャンとして生きて行くことがとても難しい時代だと思います。多くの試みがあり、多くの罠があり、判断の難しい問題や状況に以前よりも増して直面させられているように思います。あまりにも大変でクリスチャンであることに疲れている人々が多くいますし、あまりにも大変で神様の働きから退いて行く人々が多くいます。クリスチャンの間でも価値観が多様化し、国内・国外問わず、多くの教会で分断が生じています。そのような中で、神のすべての武具を身に着けることは、何らかの解決策になるのでしょうか。見て行きたいと思います。

■14節 「そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、」

 私たちは難しい状況や難しい問題の中で弱り果ててしまいそうになりますが、そのような時に、神様はあえて、堅く立つように言われます。ですから、そのような時には、私たち自身の体勢を立て直す必要があります。何によって立て直せばよいのでしょうか。それは、私たちの武具をチェックするとこから始まるのだと思います。私たちは私たちに与えられている武具を着け忘れていないでしょうか。そのことをチェックしなければなりません。また、武具はちゃんと正しく身に着けられているでしょうか。そのことをチェックしなければなりません。

 14節には、二つの武具について言われています。まずは、帯(ベルト)です。ベルトはすべての武具が体に装備されてきちんと機能するように連結する役割があります。ベルトの霊的な意味は、真理です。真理とは、イエス・キリストです。この真理がすべての武具がきちんと機能するように結びつけているのです。私たちが神の御子であり救い主なるイエス・キリストを信じて従うときに、すべての武具はその力を発揮します。

 次は、胸当てです。胸は命にとって大切な心臓のあるところです。心臓を守るために胸当てを着けなければなりません。胸当ての霊的な意味は、正義です。正義とは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰により与えられる義です。私たちの正しさは自分の行ないによって実現できるものではありません。私たちが正しい者として堅く立つためには、ただキリストを信じる信仰によって正しい者としてく立つしかないのです。もしも、自分の行ないの正しさで堅く立とうとするのなら、その高ぶりはサタンの付け込むところとなり、どんどん入り込んできます。そして、私たちは倒されてしまうのです。さらに問題を大きくなり、広がって行くでしょう。キリストを信じる信仰によって正しい者として立っているかどうか、私たち自身、チェックする必要があります。

■15節 「足には平和の福音の備えをはきなさい。」

 このところは、イザヤ52:7を思い起こさせます。「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は。」

 実は、このところに出てくるすべての武具は旧約聖書からの引用です。おもに、イザヤ書からです。特に、イザヤ52:7は有名な箇所です。

 私たちはたとえ難しい状況の中にあったとしても、福音宣教が私たちに与えられている使命であることを神様から受けているならば、その祈りと働きをやめてはいけません。今ある力でもってやり続けて行くのです。それが使命ですから。

■16節 「これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。」

 悪い者、悪魔が放つ火矢とは、たとえば、どのようなことなのでしょうか。恐れの火矢、不安の火矢、心配の火矢、ねたみの火矢、情欲の火矢、怒りの火矢、疑いの火矢、悲しみの火矢、孤独の火矢、失望の火矢、偽りの火矢、誘惑の火矢、等々、悪魔が人に向けて放つ火矢は人それぞれの弱点を狙ってきます。一度その矢が突き刺さるとその火は大きくなって周りの人にも広がっていきます。そして、問題はどんどん大きくなっていくのです。

 長い信仰生活の中で、私たちはたくさんのことを経験して来たと思います。振り返ると、確かに、悪い者、悪魔が放つ火矢が飛んできたようなこともあったと思います。それにもかかわらず、今もなお、イエス・キリストの救いを信じ、目に見えない神様に従っているのです。以前よりも私たちは、信仰的に安定した歩みをしているはずです。そのことに気づいておられるでしょうか。そう考えると、私たちは多かれ少なかれ、悪魔が放つ火矢を信仰の盾を用いてはねのけてきたのです。これからも、私たちは、信仰の盾を取って悪魔の放つ火矢をはねのけていきたいと思います。

■17節 「救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。」

 かぶとは私たちの大事な部分、頭を守るためにかぶるものです。キリストを信じ、その救いの中にいる者はみな、救いのかぶとで守られています。救いのかぶととは、キリストのことです。キリストは、私たちに永遠の命を与えることのできるお方です。

 御霊の剣とは、神のことばです。剣は五つの武具の中でたった一つの攻撃可能な武具です。私たちは神のことばを取ってどうすればよいのでしょうか。

 ヤコブ3:7に、「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」とあります。「神に従い」とありますが、神の何に従うのでしょうか。それは、神のことばです。私たちに与えられている神のことばとは、聖書のことばです。神のことばに従うことによって、悪魔を撃退するのです。私たちが神のことばに従うとき、悪魔は逃げていくのです。

■たとえ、私たちが与えられているこれらの武具をうまく使いこなせていなくても、恵みによって、私たち一人ひとりの救いは守られています。しかし、教会が守られているかどうかについては別のことです。エペソ書の大きなテーマは教会です。個々の救いや信仰生活のためというよりも、キリストをかしらとし、キリストの体である教会が、教会として機能するために必要な事柄がそこにに書かれているのだと思います。

 終わりの時代に、教会をとおして神様がなそうとしていることがあります。それは、人々を整えて、キリストの福音をより多くの人々に伝えることです。教会が教会として機能し、その使命を遂行するために、パウロは手紙を通して大事な助言を与えています。それは、教会が悪魔の攻撃にさらされている現実に気づかせることです。教会を破壊することは悪魔の大きなの狙いです。教会を破壊すれば、神の働きは進みません。その霊的な戦いのために神様が私たちに与えている五つの武具について語っているのが、エペソ6章の後半です。次回は、霊的な戦いにおいて、祈りがとても大切なことについてお話ししたいと思います。それではお祈りします。